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[67] ●霊の“憑依”について・・・「最近あった実例」 Name:道開き Date:2009/05/21(木) 15:36 
下記の書き込み〔66〕「霊の“憑依(ひょうい)”について」に続きます。

以前にも当掲示板に記したことのある女性霊能者のTさんから連絡が入り、以前、白鬚神社でお祓いを受けた隣県在住のYさんのお祓いを再度おこなって欲しいということでした。このYさんもかなりの霊媒体質の方で、様々な死霊や生き霊にまとわり憑かれていたことで一年ほど前にもお祓いを行いました。しかし、どうも神まつりの心に欠けるところが見られ、現在でも家の中が悪霊たちの棲家の様になっているようでした。

これまでに余りにも多くの霊能者や祈祷師の所を渡り歩いていた為、逆に、「どうせそういった人たちと同じだろうから・・・」との考えから、心から手を合わせる気にはなれないでいるようでした。
「心から神まつりをおこなう気持ちで神棚に手を合わせれば、そこから家の中が清まり浄化されていくものです」と説明するも、「悪霊たちがいっぱいで神棚の祀ってある部屋には入ることすら出来ないのです」と語る。

Yさんに、夫と娘さん、夫の妹さんを加えた四人に、今回は大変なお祓いになりそうだということもあって、Tさんにも加わっていただいてお祓いの神事を執り行いました。

Yさんの夫の妹さんについては、昨年のお祓いの数日後にも、Yさんから「夫の妹が、突然、手を美味しそうに舐めだして止まらないのです。本人もどうすることも出来ないようなのです」との電話による相談を受け、電話口でお祓いをおこなってどうにか治まったという経緯もありました。(この時は何か動物霊が憑いていたようです)

Tさんによると、Yさんの親戚の家の側には昔、処刑場があって、処刑人として三人の兄弟がいて、むやみやたらに人の首を刎ねたらしく、民衆の怒りを買って殺されて沼に沈められたらしい。その三兄弟の真ん中の霊がTさんの元に頻繁にやって来て、自分たちを祀り、供養してくれるように伝えて欲しいと語りかけてきているという。Yさんにその事を伺ってみると、確かに、親戚たちの間にも同じような内容の古い話が伝わっているとのことでした。

お祓いの祈祷が終了した直後、突然、妹さんに憑霊現象が始まりました。私の膝元にすがりつきながらしきりに泣いています。Tさんには、その憑ってきている霊に関する様々な状況が見え始めたようで、かなり驚いた表情で「あなた人を食べたでしょ!」と言うなり、突然はじき飛ばされたようにして後に退きました。後にその時のことをTさんに聞いたところ、ドス黒い玉が弾け散るような物凄いエネルギーを受けたのだそうです。

この時、妹さんに憑ってきた霊は処刑人の三兄弟の霊ではありませんでした。やはり古い時代の霊で、歳にして十二、三くらいにも見える身寄りのない少年たちが、山賊のようになって徒党を組み民家を襲っている光景や、飢饉により食べ物が得られない時には殺した相手の肉を食べている光景、そして、仲間の少年たちが病で次々に死んでゆき、最後に残ったのがその少年だったという光景が見えたそうです。
おそらくは、“孤独”と“絶望”と“自責の念”から私の膝にすがって泣いていたのでしょう。

その時どういった訳なのか、瞬時に、様々なシーンが脳裏をよぎりました。学生時代に読んだ吉川英治の小説『宮本武蔵』に描かれていた賊たちの描写。同じく少年マンガ雑誌に連載されていた『ムサシ』の戦国時代の浮浪児たちの集団の描写。フィリピン戦線における究極の飢餓状態での「人食」をテーマに扱った大岡昇平の小説『野火』。やはり、子どもの頃に読んでショックを受けたジョージ秋山さん作のマンガ『アシュラ(阿修羅)』に描かれていた、応仁の乱で生き地獄と化していた京都における浮浪児たちの“人食い”の様。
(コマの背景には 「生まれてこなければよかった」 という文字が描かれていたのが印象的でした。当時はかなりの社会問題となった作品のようです。)

さらに不思議なことには、アシュラ少年とお坊さんとのやり取りのシーンが強く思い出されて来たのでした。
本当に一瞬のことでしたが、人間の脳とはその様にできているものなのでしょう。

(私)
「だいじょうぶ、まだまだやり直しはきくものだから。とにかく神さまの元に向かい、よく学んで、生まれ変わって、罪滅ぼしのために世の人たちの為に尽くしなさい」と語って聞かせた後、そっとあの世へと送ってやりました。

いつも思うのですが、古い霊たちはとても従順です。どのような悪行を積んだ者であっても、宗教者の話には素直に耳を傾けるところがあります。最近亡くなった若者の霊の場合だと、「なんだと、この野郎」と言ってすぐに暴れようとします。
(これは、現代の社会教育が悪いのか、それとも宗教者が劣化してしまっているところに原因があるのか、・・・・私には何とも言えないところがあります。)

後日、Yさんの妹さんに伺ったところ、この時には、「そうなのか、そういった道が開けているんだ」といった、この霊の抱いた“希望”のようなものが「共感」できたのだそうです。


その直後、妹さん、今度は嬉しそうに自分の親指を吸い始め、赤ちゃんの仕草を始めました。こちらが諭そうとするにも話しが通じません。Tさんに「あの世に連れて行ってくださる神さまのお使いのお姿はまだ見えませんか」と尋ねると、「直ぐ側にいらしているのですが、このまま連れて行ったとしても仕方あるまいとおっしゃられています」とのことでした。

同席された方たちに対し、「水子の心当たりはないですか」と尋ねたところ、「妹には結婚を反対されて堕した子どもが一人おります。現在の夫と結婚して十年たって、ようやく、昨年、子どもを授かったばかりでした」、「水子に対しては、前に一度、お寺で供養のためにお経を上げてもらっている」とのこと。

(私)
「供養というものは、その水子の好みそうな物でもお供えし、“どうか神さまの元で健やかに成長していってネ”と言葉にして話しかけてやることであり、毎日でもそうしてやることです。そして、時折、お寺でお経を上げてもらえば更によいのです。それが供養なのですよ」と話してきかせました。

すると、妹さんの心の動きをお察しになられてか、お使いの神さまが動かれて、その子どもをあの世へと連れて行って下さいました。そして、憑霊現象が終わりました。

後日、このことについても伺ってみたところ、堕ろしたくなかったこの子どものことを常に気に掛け、後悔し続けていたそうです。そういった“負の心”に少年霊も感応し憑いてしまったようでした。

★とにかく、今回も改めてつくづく感じましたことは、「神まつりも、供養も、“心”こそが大切なのだ」ということでした。

[66] ●霊の“憑依(ひょうい)”について Name:道開き Date:2009/04/24(金) 23:37 
良くない事が続くと、何でもかんでも霊の仕業にしてしまう人がいます。逆に、霊の存在など一切信じようとしない人もいます。どっちもどっちだとも思われますが、しかし、明らかに憑霊が原因しているというケースは多々あるものです。

特定の場所に執着を持ち、恐れと悔恨の中でもがき苦しんでいる霊もいます。生者の磁気的オーラに入り込み、生前の利己的で邪悪な性向のまま欲望のはけ口を見出そうとしている霊たちもいます。

体調がすぐれない時は先ずは病院に行って診察を受けることが第一です。しかし、医者に診てもらっても原因が特定できない病気というのも多々あります。ある時期を境に人格が変わってしまったとか、大酒飲み、薬物飲用、その他の癖、自殺願望、犯罪など・・・憑霊が原因しているケースは少なくないとも考えられます。

そういった生者に害を及ぼしている霊というのは、(1)「自分が死んでいることが解らない」、 (2)「向かうべき死後の世界があることも解らない」でいます。

より高い霊界へ進歩した霊人達(浄化された高級霊たち)は、これらの迷える霊達を救い出し、正しい方向へと導こうと常に努力しています。
迷いの中に執着し、もがき苦しんでいる霊は“霊眼”が開かず、何とかして向上の道へと導こうとしている近親者の霊達が“お迎え”に来ても、その存在に気づくことすら出来ません。ましてや、生者の磁気的オーラに入り込んで憑依している霊ともなると、こういったお迎えの霊達から見ると全くの行方不明状態なのです。

憑依を受ける側の人にも条件があります。@生来の霊媒体質、A精神・神経系統の疲労、B急激なショックなど。つまり、生命力が低下すると抵抗力が弱まり、霊の侵入が容易になるようです。
更に、最悪なケースは、C一見、無害な自動書記やウイジャ盤(西洋盤コックリさん)の実験をしている内に精神を患ってしまった人たちの場合です。


今から100年ほど前の米国に、このような憑依霊の犠牲となった患者たちの治療に当たった精神科医のスピリッチャリストがおりました。カール・A・ウィックランド博士です。1909-18年には国立シカゴ精神病学会の会長を務めたほどの社会的に認められた人物で、霊媒だったアンナ夫人の協力の下で心霊研究の書を著しています。
『Thirty Years Among the Dead(邦題「医師の心霊研究30年」)』。
同じく医師であり、心霊主義者でもあった、「シャーロック・ホームズ」シリーズの作家としても有名なコナン・ドイルなどはこの書を篤く推奨しています。

患者に軽い静電気をあて、憑依霊を同席させたウィックランド夫人に移転し、諭すという方法を取りました。(“本田霊学”における「鎮魂帰神法」に類似しています)

その際には「心霊に関する法則に精通するとともに、常識と識別力が必要であり、さらに、科学的方法は心霊研究においても非常に価値ある手段となる」としています。
(“本田霊学”における「審神者(さにわ)」の条件とも同じです。)

キー・ワードとしては、「思念の集中」という言葉が何度も出てきます。つまり、かなりの遠隔地にいる精神異常と見られている憑依霊の犠牲者や家などに対して、心霊サークルで行われている一連の思念法を行うと、霊界の協力者の高級霊人達がサークルまで憑依霊を連れて来て、霊媒者のウィックランド夫人の身体に入れてくれます。
(これも“本田霊学”で最重要視している「鎮魂力」とも非常に共通しています。)

ウィックランド夫人は常に霊界側より、“慈愛団(マーシイ・バンド)”と呼ばれる強力な高級霊人のグループによって守護されていたといいます。悪霊達も「類は友を呼ぶ」的に徒党を組む傾向にあるようですが、世の中を善なる方向へと導こうと働きかけをしている霊たちもグループを組んで動いているようです。ウィックランド夫人に限らず、優良な霊媒の背後では、こういった善良なる霊団が組まれているということです。

★★★
当社におけるお祓いや御祈祷の場合も、数多くの神さまたち(“白鬚神社神霊団”とでもお呼びすべきか)がお働きくださいます。
サークルを組織して「思念の集中」を行わなくても、「御神前において誠意を込めた祝詞を唱える」ことで同じ内容の事が行われているようです。
磁気オーラに入り込んでいる憑依霊を除く場合も、電気ショックを加えなくとも“言霊の力”のみによって神気を集め、その神気をオーラ内に注ぎ込むことで、外に取り出すことが可能となります。

論理面では“スピリッチャリズム”の方が優れていると思われますが、実践面では“本田霊学”の方が優っているように思われます。

[65] ●イチローの一発A  「イメージの共有」 Name:道開き Date:2009/04/05(日) 19:19 
まだまだイチローの一発にこだわりたいと思います。
以前から、コンサートとか舞台といったものは一種の“セアンス(集団儀礼)”の状態にある「場」なのではなかろうかと考えていました。つまり、歌い手、演技者と観客たちが同じ霊的空間にどっぷりと浸っている状態にあるのではと。

今回のWBCで感じたことは、スポーツも同様なのではないかということでした。
チームの仲間同士が“忍耐強く”、“辛抱強く”、しかも「真剣に」、同じ物事に“一心”に取り組んでい内に「イメージの共有」も行われてくるようで、“以心伝心”でお互いのことが解り合ってしまうみたいです。

イチローが決勝戦延長10回の打席の五球目のワンバウンドしそうな程の低いボールをファールした直後、「これで打てるとの確信が持てた」と後のテレビ番組のインタビューで答えていました。
他の番組では、その時の三塁ランナーだった内川選手が、「五球目のファールを見て、イチローさんは打つと確信し、自分がホームベースを踏む際のポーズまで考えた」とインタビューに答えていました。

試合中の選手同士も、かなり“セアンス(集団儀礼)”の状態にあるようです。

[64] ●イチローの一発 Name:道開き Date:2009/03/25(水) 11:45 
今回のWBCでは、たくさんの感動をもらえたし、多くの事を学ばせてもらえたようにも思われます。スポーツとか、音楽、映画、芸術等の感性に関わる事象に、より現れやすいとも考えられるのですが、政治も、経済も、とにかく人間の営み一切が“シャーマニズム”的なものなのではなかろうかということ。

それには一つの共通した「法則」、「原理」のようなものが有るようにも思われるのです。
つまり、物事に取り組む際には、とにかく“忍耐強く”、“辛抱強く”取り組まなければならない。しかも、「真剣に」、「ベストを尽くして」。
ただし、余り感情的になって“一喜一憂”してはならず、ひたすらに“淡々と”行わなければならない。
登山家が、一歩一歩を踏みしめて山頂を目指すように。マラソン・ランナーが、ゴールを目標に一歩一歩足を進めていくように。

そうやって「人事を尽くして天命を待っ」ていると、次第に“神遊び”の境地に入っていくようになる。登山でいうところの“クライマーズ・ハイ”、マラソンでいうところの“ランナーズ・ハイ”です。自分自身が何者であるのかも分からなくなり、自他の区別も無くなり、時間と空間の感覚も無くなる。

それは、「笛を吹き、糸を調べ、金を叩き、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」ほどの楽しさと黒住宗忠などの神人が語る楽しさで、神道で言うところの「うれし たのし おもしろし ありがたし」の境地。自分自身は神さまの「道具」、「入れ物」にしか過ぎないと感じられる境地です。

いわゆる、この「時の氏神」が現れているような状態を、イチローは直感的に捉えて「神が降りて来た」と表現したのだと思われるのです。

[63] マスメディア Name:道開き Date:2009/02/28(土) 13:32 
今日の、テレビやラジオなどのマスメディアが無くなってしまったなら、実に不便でつまらない日々を送ることとなるのは間違いないでしょう。
昨夜も、四時間半にも渡って、この50年間の歌謡曲を特集した番組が放送され、十二分に楽しませていただきました。
特に、松坂慶子さんが歌われた『バスルームから愛をこめて』のシーンには、感動の余り思わず涙が出そうになったほどでした。

これまでの一連の不思議なお話は封印させていただきましたが、書き残しておきたい部分まで削除してしまいましたので、その部分のみ記させていただきたいと思います。


★霊媒の門番
欧米におけるスピリッチャリズムでは、霊たち(霊界)からの通信の“媒体”となる役目を担う「霊媒(mediumまたはspirit medium)」たちの守護霊として、最も多いのがインディアン(ネイティブ・アメリカン)霊だとされています。よって、“霊媒の門番”とも呼ばれているようです。

彼らは超自然の力についての知識が豊富で、さらに心霊の法則にも通じていたからだといわれています。日本の霊媒たちの場合は、巫女、行者、陰陽師といった方たちの霊が多いのではなかろうかとも考えられます。

「霊媒(mediumまたはspirit medium)」というものは、その呼び名の通り、まさに“霊たちの媒体”“霊界の媒体”となるお役目の方たちですが、規模が大きな話になりますが、ラジオやテレビなどの、“大衆伝達の手段、媒体”を意味する「マスメディア(mediaはmediumの複数形)」といったものも同様に思われます。
つまり、この世に生きている人々の心霊事象・心霊状況の伝達のみならず、あの世からの働きかけも受けやすい(いや、受けている)ものなのではなかろうかとも考えられます。

よって、マスメディア関係の方たちには、出来る限り、世の中を善き方へと導いて行く内容の番組(神さま視点の番組)を製作していただき、ラジオ、テレビといったマス・レベルの“媒体”に放映していただきたいのです。何と言っても、世の中に対する影響力たるや、絶大なものがありますから。

つまり、あの世とこの世を浄化して行くための“霊媒(テレビ、ラジオ)の門番”となっていただきたいとも考えられます。

[62] 運 勢  2009 Name:道開き Date:2009/02/09(月) 16:23 
今年の立春は、2月4日の01:50頃が「節入り」となりました。

旧暦の「節切り」(二十四節気の)では、この日が一年の始めとされ、“年変わりの節気” と呼ばれています。 立春は雑節の基準日で、八十八夜、土用、二百十日などは立春から起算されます。
“運勢学”上の「干支」「九星」も、この時刻を境に【運勢盤】上を遁甲(とんこう・・移動)します。つまり、「年回り」が変わります。

今年は《九紫火星》の年です。今回もまた、「干支・九星術」の《九紫火星》年生まれの方の、月ごとの特徴を少しばかり挙げてみます。



●《九紫火星》年「四緑木星・卯(う)」月生まれの女性
〔今年は3月5日の19:48〜4月5日の00:34までの生まれの女性)

・竹内まりや、雪村いづみ、平松愛理、青木さやか、陣内貴美子、山田恵里佳・・・・といった方たちです。

・外見的には、サーフボードのような体型の方たちとでも言ったらいいでしょうか、かなり失礼な表現のようにも思えますが・・・
・明朗で活発であるが、行動は用心深く、芯の通った人が多い。勘は鋭い方で派手に振る舞う面はあるが中々の交際上手で、お金を使わず接待する器用さを持っている。友だちのえり好みをし、頑固なところもみせるが、忠告はこころよく聞き入れます。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「三碧木星・辰(たつ)」月生まれの女性
〔今年は4月5日の00:34〜5月5日の17:51までの生まれの女性)

・宮沢りえ、田中裕子、上沼恵美子、十勝花子・・・・といった方たちです。

・気位は高いが楽天的なところがあり、大勢の中に居ないと落ち着かない淋しがり屋の一面を持っている。お節介やきのところもあるが、人の面倒はよくみる人です。苦労性で、金銭面ではケチなところもあります。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「二黒土星・巳(み)」月生まれの男性
〔今年は5月5日の17:51〜6月5日の21:59までの生まれの男性)

・外見的には二つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】内藤剛、堺正章、
【Bタイプ】藤原竜也、美川憲一、左とん平、中村勘九郎、江川卓
・・・・といった方たちです。

・実行力旺盛。明朗で、頭の切り替えも早く、人の話は上手に聞くので信用を得ます。自己顕示欲は強く、ユーモアで人を笑わせて喜ぶ面がある。自尊心も強く、仕事に対しては人一倍努力します。自信過剰になると失敗するおそれがあるので気をつけて行った方がよいです
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「二黒土星・巳(み)」月生まれの女性
〔今年は5月5日の17:51〜6月5日の21:59までの生まれの女性)

・美空ひばり、中尾ミエ、熊田曜子、梨花(りんか)・・・・といった方たちです。

・外見的には、頬から顎にかけてのふっくらとしたラインに特徴のある人が多いようです。
・明朗性と柔軟性をもったタイプの人が多く、冗談も上手に言える社交性を持っています。プライドが高く威張る面もあり、人を見下す側面も見られます。外出好きな人が多く、おだてに乗りやすいところもあります。金銭面では派手なようでも地味でケチくさい面も持っており、熱し易く冷めやすいところもあります。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「八白土星・申(さる)」月生まれの女性
〔今年は8月7日の18:01〜9月7日の20:58までの生まれの女性)

・アグネス・チャン、篠原涼子・・・・といった方たちです。

・正義感が強く、よく働く人が多く、善悪をハッキリさせたがるタイプです。倫理観も強く、自分と戦う人で、交際は広い方ではないが用心深く行動は慎重です。人の好き嫌いがハッキリしていて、お金には几帳面です。どちらかというと男性的な性格の人が多いようです。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「七赤金星・酉(とり)」月生まれの女性
〔今年は9月7日の20:58〜10月8日の12:40までの生まれの女性)

・三原じゅん子、吹石一恵、藤谷美紀、橋本聖子、大塚愛、大貫亜美、三船美佳・・・・といった方たちです。

・如才なく交際し、派手好みで体裁を飾るところがあります。勘は良く、理屈っぽいところがあり、打算的でもありますが、良いセンスを持った人でもあります。金銭面には関心高く貯蓄にも努力しますが、おだてに乗りやすい面もあるので用心が必要です。嫉妬深いところも注意した方がよいです。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「六白金星・戌(いぬ)」月生まれの男性
〔今年は10月8日の12:40〜11月7日の15:57までの生まれの男性)

・郷ひろみ、イチロー、金城武、菅直人、杉田二郎、堺雅人、チャック・ウィルソン、林家木久蔵、ラサール石井・・・・といった方たちです。

・思慮深く、働くことが好きな人が多く、努力していく人です。才能にも恵まれるが功を急ぐと軽挙妄動になりやすいです。自分の思い通りにならないと怒鳴りちらす欠点が見られる。金銭的には恵まれている方で、投機的な関心も高く、貯蓄は少ない傾向にあります。家庭にあっては亭主関白なところがあります。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「六白金星・戌(いぬ)」月生まれの女性
〔今年は10月8日の12:40〜11月7日の15:57までの生まれの男性)

・松島菜々子、麻丘めぐみ、夏川りみ、坂口良子、深田恭子、山口智子、倉木麻衣、向井亜紀、吉本多香美・・・・といった方たちです。

・外見的には、お顔のふっくらした方が多いようです。
・情にもろい所があり、人の話は良く聞くが行動的でない面も見られます。お人好しで、おだてに乗りやすい所もあって頼まれると何でも引き受けてしまうところもあります。虚栄心も強く、威張りたがる側面もみられ、威圧的な人には見下した態度で対応します。目先が利き、金儲けも上手ですが、苦労性な人が多いです。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「五黄土星・亥(い)」月生まれの女性
〔今年は11月7日の15:57〜12月7日の08:53までの生まれの女性)

・杉田かおる、二谷友里恵、倍賞美津子、土井たか子、大原麗子、麻木久仁子、幸田來未・・・・といった方たちです。

・表現力豊かで芸能関係に向いている人が多いです。正義感も強く、困った人を見ると損得を考えずに手助けをする。道徳観も強く、義理にも厚い人です。強情なところがあるので、人の忠告を素直に受け入れることはなかなかしない。人付き合いは上手にやるが片意地なところもあるので社交にむらがみられます。金銭面では高い関心をもちます。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「四緑木星・子(ね)」月生まれの男性
〔今年は12月7日の08:53〜翌年1月5日の20:09までの生まれの男性)

・反町隆史、高橋克典、鶴見辰吾、松山千春、小栗旬、平尾昌晃、世良公則、役所広司、渡辺裕之、高知東生、大友康平、榎本孝明、稲垣吾郎、中村梅雀、小堺一機、恵俊彰、相葉雅紀・・・・といった方たちです。

・外見的には、いわゆる“しょうゆ顔”の方が多いようで、目もとに共通点が見受けられるようにも思われます。
・正義感と勇気を持ち、人の話を良く聞き、言葉づかいに気を配る人が多く、人の心を読みとる勘を持っています。アイデアがあり計画立案も良く、責任ある仕事を頼まれると成し遂げることに努力します。自分の理に合わなかったり、馬鹿にされたりすると憤激し、問い質していくところがあります。曲がったこと、曖昧な態度を嫌います。金銭面より精神面を重視する方で、お金には無頓着になるところがあります。家庭では一切を妻に任せるタイプの人です。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・



●《九紫火星》年「三碧木星・丑(うし)」月生まれの男性
〔来年の1月5日の20:09〜2月4日の07:48までの生まれの男性)

・外見的には三つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】ジャイアント馬場、高田純次、岸部一徳
【Bタイプ】村田英雄、北野たけし、渡辺正行
【Cタイプ】田中裕二(爆笑問題)、鈴木健二、ムッシュかまやつ

・・・・といった方たちです。

・自尊心強く、負けず嫌いで、行動的です。闘志を燃やして働くので上司の受けはよいが、同年代からは嫌われ易いところがあります。言葉を飾らずにその事ズバリ言う面があるので損をする立場になるので注意が必要です。金銭運があり、女性関係には気をつけた方がよいです。家庭を大切にする人でもあります。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・

[61] ●和歌の伝統 Name:道開き Date:2009/01/28(水) 16:12 
「歌は世に連れ 世は歌に連れ」とはよく言ったものだと思う。

西洋で言えば古代ギリシアの「ホメロスの叙事詩」のように、中国で言えば「漢詩」、「唐詩」のように、日本には古来、「和歌」という“言霊”を反映させ、磨き上げてくれる、優れた文学が存在しました。

『万葉集』の中にある、数多くの詠み人知らずの歌に見られるように、ごくごく一般の民たちも、日常的に歌を詠み親しんでいたことがうかがえます。
そのような伝統が、近世の「俳句」につながり、明治以降の「唱歌」や、昭和の「歌謡曲」といったものにも継承されてきたようにも思われます。

昭和の「歌謡曲」の作詞者たちからは、非常に多くのことがメッセージとして伝えられました。ある種の「心の社会人教育」もしてくれたようにも思われます。柔らかで優しいメロディーがさらにその手助けをしてくれました。

最近の日本の歌はというと、歌詞といったものが軽視されているようでもあります。よって、何度も何度も歌詞を噛みしめながら聴ける曲が非常に少なくなり、ラップだとか、ヒップ・ホップだとかいって、リズムを楽しむことだけをひたすら追い求めているような曲が多くなっているようです。その歌詞はというと、貧弱で、無意味で、空虚なものにも思われます。そういった曲の方が、まるで格好良く捉えられているかのようでもあります。

若い方たちに、「和歌」や「俳句」を学べというのもなかなか難しいことでしょうから、せめて今後は、“言霊”の伝統を継承してくれる若きミュージシャンが一人でも多く現れて、名曲を生み出してくれること期待するしかないのでしょう。

何とか、カラオケでマイクを片手に自己陶酔にひたらせてくれる曲が無くなってしまわないことを切に願います。

[60] ●マイ・フェバレイト・ソングス Name:道開き Date:2009/01/12(月) 21:00 
新しい年も明けたので、今回は少しばかり楽しいお話をしたいと思います。

名所旧跡を紹介する“ザ・旅”番組といったものよりも、「小さな旅」「世界ふれあい街歩き」「ぶらり途中下車の旅」といった“プチ・旅”番組とでもいったものを見ている方が楽しいです。
島の景色や漁労生活、山村の四季、町で言えば商店街とか路地裏の風景、そして、町内会の取り組みなど、“そこで生活している人たちの営み”とか“土地柄”といったものが見えてくる番組がよいのです。

マンション街やニュータウンの画一化された景色とか、ショッピング・モールなどの綺麗で豪勢なディスプレイは非常に味気なくてつまらないです。いかにも極々一部の、特定の人たちによって創られた風景といった観が否めないから。年々、齢を重ねるごとにそういった傾向が強まっているようです。

歌もそうです。メガ・ヒットを飛ばした曲よりも、何となく、知る人ぞ知る隠れた名曲といったものがいいです。趣味で、ここ五、六年かけて歌謡曲集めをしていましたら、知らず知らずの内に数千曲を収集してしまいました。約10GB(ギガバイト)の容量にまで及んでいます。

それらの曲の中でも、車の運転をしながら、繰り返し繰り返し、何十回となく聴いても飽きない、“マイ・フェバレイト・ソングス”を選んでみました。

◎「好きにならずにいられない」  岩崎宏美
この一曲は外せない。理屈ぬきでいいワルツ風の名曲。

◎「真夜中のドア〜Stay With Me」  松原みき
おしゃれなジャズ風なのがいいです。

◎「ひとかけらの純情」  南沙織
「純潔」「思い出通り」「ともだち」といった曲もいいけれど、やはりこの曲。

◎「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」  岡崎友紀
最近では、ドラマ「カバチタレ」でも使われていました。

◎「京都慕情」  渚ゆう子
京都の情景が心に浮かんできます。かぐや姫「加茂の流れに」も同様。

◎「みんな夢の中」  高田恭子
恋のはかなさを綴った浜口庫之介さん作詞の歌詞がいいです。

◎「センチメンタル」  岩崎宏美
やたらと明るい青春ラブソング。

◎「恋する瞳」  伊藤ゆかり
イタリアのカンツォーネの金字塔とも言える名曲。

◎「雨の中の二人」  橋幸夫
“ザ・ぼんち”のおさむちゃんの持ち歌ではありません。

◎「知りたくないの」  菅原洋一
大人の女性の優しさが感じられていい、なかにし礼さん作詞の名曲。

◎「ふたりの日曜日」  天地真理
マイ・青春ソング。「恋する夏の日」よりもこの曲。

◎「夕涼み」  ユーミン
夏に暑い日が続くと聴きたくて仕方が無くなる名曲です。

◎「ダンディライオン〜遅咲きのタンポポ」  ユーミン
この曲には本当に勇気づけられました。20代、30代の頃の松任谷由実さんは、かなり、神憑り状態で曲を作っていたように思われます。自動書記、つまり、お筆先のようなもの。現在は、恋愛哲学者のようでもあります。

◎「ファイト!」  中島みゆき
この曲にも勇気づけられました。「空と君との間には」よりもこの曲。彼女もおそらくはシャーマンです。

◎「秋ラメきれないNight Movie」  山下久美子
「バスルームから愛をこめて」以来、悲しい女性の恋心を歌い続けている久美ちゃんの歌に対する姿勢がいい。つまり、実生活でもそのスタイルを貫いたところがご立派。

◎「雪の華」  中島美嘉
ここ数年の内では、この曲がダントツのお気に入りソングです。

◎「Unchanging Love〜君がいれば〜」  Gyongri(ジョンリ)
ここ数ヶ月はこの曲が一番です。

◎「河内おとこ節」  中村美津子
とにかく明るい。この不景気も吹っ飛ばしてくれそうな永遠の名曲です。

切りがないのでこの辺で終わりに致します。

[59] 「四字熟語」 Name:道開き Date:2008/10/20(月) 14:50 
現在の日本人の心の中に“儒教的精神”がどれだけ浸透しているのかを知るバロメーターになるものとして、「四字熟語」に代表されるような“故事成語”文化があるとも考えられる。我々の年代は、高校の「漢文」の授業の中で『論語』を教わったし、“故事成語”も学んでいます。

同様に、「古文」の授業で教わった『源氏物語』『枕草子』で“もののあわれ”を、『奥の細道』で俳句の“わび・さび”を、つまり、“日本人独特の感性”を学びました。

我々の高校時代は「古文・漢文」が必修科目であり、そういった古典にふれられるチャンスを学校教育の場で得られたわけです。はたして現在は、どの様になっているのだろうか?
よく、テレビのクイズ番組に出ている“おバカ・キャラ”のタレントたちの古典の問題に対する珍回答ぶりを見ていると、もしかしたら必修科目でなくなってから久しいのではなかろうかとも心配されます。

旧文部官僚たちが“改革”の名の下に、教科から「古文・漢文」などの古典科目を削ってしまったのであろうか?・・・ネットで調べてみたところ、そうでもないようなので幾分安心した。テレビにおける若手タレントの珍回答、迷回答ぶりは、全くの個々の“キャラ”のようです。

[58] “道理” Name:道開き Date:2008/10/03(金) 07:22 
朱子学は、《道学》とか《理学》と呼ばれていたように、今日我々が使用している言葉の中にもその名残をとどめます。
「それは道理に合う」「これは道理に合わない」
「それが道理だ」
「やっぱり、道理でそうなる訳だわ」
「それは理にかなった事だ」
「それは無理、無理」

[57] ●「審神者(サニワ)」と音楽 Name:道開き Date:2008/08/22(金) 21:49 
先ずは、以下に『神道事典』に載る「審神者(サニワ)」に関する説明から記してみます。
★★★
「サニワ」は「清場(さにわ)」の訳で、本来、神を祭り、託宣(たくせん)をうけたまわる為に忌み清めた場所「沙庭(さにわ)」を指す。
その斎場の意味から転じて、沙庭において神託をつかさどり、神意を判断する者、また斎場にあって琴を弾く者の意となった。転じて神楽(かぐら)で和琴を弾く人も「さにわ」と呼ばれた。

『古事記』中巻の仲哀(ちゅうあい)天皇の条に、天皇が御琴を弾き、神功皇后(じんぐうこうごう)を神主(かんぬし・憑代[よりしろ]、つまり、神の憑かられる台となる人)とし、武内宿禰(たけしうちのすくね)が沙庭(さにわ)となり、神の命を請うたとある。

『日本書紀』神功皇后(じんぐうこうごう)摂政前紀には、皇后が神主となり、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を喚して審神者(サニワ)としたとある。

★★★
かつての大本教などでは、“入神”状態をもたらすための「鎮魂帰神(ちんこんきしん)法」が行われる時には、決まって「石笛(いわぶえ)」が常用され、石笛の「ヒューーーーー」という音で、「ひ(一)、ふ(二)、み(三)、よ(四)、い(五)、む(六)、な(七)、や(八)、ここの(九)、たり(十)」と数がかぞえられた。

有名な古代ギリシャの“デルフィの神託”などは、現在でも行われているフーチとか、ダウジングのかなり高度なものであったらしく、ハープのような楽器が奏でられていたとも聞きます。

さらに、世界各地のシャーマニズム文化の担い手であるシャーマンたちの多くが、
トランス状態に入る際の必須アイテムとしているのが太鼓です。彼らは太鼓の音の持つ不思議な力によって神々や諸霊との交信をはかります。

つまり、天とか、神さまとか、高次元の場所からのインスピレーションを受ける際には、

《清浄な場所》+《清浄な音(特に音楽)》

は必要不可欠な絶対条件のようにも思えるのです。

★★★
最近、テレビの音楽番組を録画していて、Gyongri(ジョンリ)さんの「Unchanging Love〜君がいれば〜」という曲を初めて聴いた時のこと。
何か涙が止めどもなく流れだし、20回ほど続けて聴いてしまいました。「部屋の空気が変わっているな、何らかのインスピレーションが流入しているな」との感じを受け、いつも側に用意しているメモ帳に、ひたすらに思い浮かんできた事柄を書き記しました。このような時は止めどもなく独りでにペンが走りだします。

Gyongri(ジョンリ)さんは、若い頃の工藤夕貴さんのような容姿とお声の持ち主。
最近見た工藤さん出演の映画『ヒマラヤ杉に降る雪』の数々のシーンも頭の中をよぎりました。
以前、NHKの『英語でしゃべらナイト』に工藤夕貴さんがゲスト出演されていた際、「単身、アメリカに渡って苦労の末に身につけたという工藤さんの英語力による熱演にくらべたら、主演のイーサン・ホークはまったくのダイコンだった」という、司会者のパッくんの感想が気になって観た映画でした。

[56] ●映画『シックスセンス』の中でのセリフ Name:道開き Date:2008/07/31(木) 07:38 
久々に、この映画をDVDでジックリと観てみました。原作者はかなりのスピリッチャリストなのでしょう、映画の中のセリフが示唆に富んでいます。

(少年)
「お腹の奥がギュッと締めつけられる感じ、それが彼ら(霊)のいる証拠だ。首筋がゾクゾクすることはない? 腕の毛が逆立つようなことも? 彼らのせいだ。霊たちが出てくると寒気がする。」

※霊的感度の高い人は、このように感じるようです。

◯◯◯◯◯◯◯◯
(少年)
「あの人たちは死んだと思ってない。そして、あの人たちは見たい物だけが見える。」

※これは迷える霊たちの“執着心”の強さを言い現しています。生きている人も、死んでいる人(霊)同様に、一つのことに執着しすぎるのは余り良くないことのように思われます。

◯◯◯◯◯◯◯◯
(少年)
「彼らは助けを求めている?・・・どうやって?」

(ブルース・ウィルス〈霊〉)
「話を聞いてやるんだ。」

[55] ●ご近所のPさんの場合 Name:道開き Date:2008/07/17(木) 07:39 
ごく最近、近所に住むPさんが「夫のお姉さんの葬儀に古川まで行って来た帰りなのでお祓いて下さい」ということでお見えに成られました。かなり動転していらっしゃるご様子なので、その詳細について伺いましたところ、

葬儀が終って、喪家に親族が集まり話し合いをしていたところ、突然、亡くなられた本人らしき霊が実の娘さんに憑き、彼女の口を借りて「死にたくない・・・・」と話し始めたということでした。帰ろうとしていたPさんに抱きついて、「帰らないで・・・」と泣きながら、なかなか離そうとしなかったといいます。
Pさん、咄嗟の思いつきで、持っていた数珠をその娘さんに押し当てたところ、何とか手を離してくれたといいます。Pさんは怖くてすぐに外に出ましたが、Pさんの息子さんはそのまま家の中に残り、暫くの間そのやり取りを聞いていたと言うことでした。

その後、ようやく二人で車に乗り込んで帰路に就くも、二人とも身体が重くて、重くてどう仕様もなくなり、背中が重苦しくて何かを背負い込んでしまったようになったのだそうです。このままの状態では家にも帰れない、とにかくお祓いを受けてみようということでいらしたそうです。
「お祓いが始まるとすぐ、嘘のように体が軽くなった」と語られて、さっぱりとしたご様子でお帰りになられました。

旦那さんの親族は、霊媒体質の人が多く、以前にも、火葬場で亡くなった別の姉の骨拾いを親族で行っていたところ、一人の姪御さんに憑霊現象がはじまり大騒ぎになった事もあったということです。

[54] ●“シャ−マニズム”の大筋 Name:道開き Date:2008/05/22(木) 08:01 
何年か前に、「シャーマニズムの概要」について記しましたが、再度取り上げてみたいと思います。

まず、シャ−マンの通常の意識がその働きを鈍らせ、弱らせた【(A)トランス(心的分離状態)】時に、魂は自由に宿り場を遊離する【(B)エクスタシ−(脱魂)】か、逆に神や精霊が、その肉体をみずからの支配下におく【(C)ポゼッション(憑霊)】の現象が起こるとされています。

ちなみに、(Β)は“精霊の統御者型”のシャ−マン、(C)は“霊媒型”のシャ−マン、又は“予言者型”のシャ−マンなどのように表現されます。

以下は、特に“憑霊”現象について話を進めます。


        
◆◆憑霊における「三つの型」  
現在のところ「憑霊=神がかり」と見られる現象について、ほぼ次のような見通しを得るに至っている。

@神・精霊が当該人物の身体の中に入り、人格転換が行われ、シャ−マンは霊的存在として振る舞い「吾は某々の神であるぞ!」のように第一人称で語る。

A 神・精霊が当該人物の身体の中には入らないが、リアルに姿を見せ、直接身体に接触して、胸部を圧迫したり、手足をつかんで振り回したりし、神意を伝える。シャ−マンは、「神さま、しかじかのことについて、何とぞ教えて下さい」と願い、霊的存在の答えを「はい、はい、わかりました」などといって受け、これを依頼者に伝える。
この場合、当人には人格転換は起こらない。

B神・精霊が当該人物の身体に入ることもなく、またその身体に直接接触することもないが、シャ−マンの眼、耳、心を通じてその意志を伝える。「神さまに悟らせられる」とか「神さまにしゃべらせられる」という状況である。遠くから身体の悪い人が訪ねてくるとして、もしもその人が霊の影響を受けているとすると、悪いところの痛みが自分に現れるという。

@を“憑入型”、ABを“霊感型”とでも、呼ぶことが可能かもしれない。

@人格変換型、A復話型、B取次型 の三つに分類している研究者もいる。


@は、意識がすっかり別個の人格に専有されている状況で、「継続的二重人格」の場合であり、完全な“憑霊”である。

Aは憑依霊と本人とが同時に意識されることで、“神が私の腹の中にいる”などと表現されるものであり、「同時的二重人格」ともいえる。

Bは人格変換がなく、意識面が強くなり、目を閉じたまま神意を伝えるもので、普通の「直感」、「インスピレ−ション」ないし「連想」に近い。

「人格変換型」は、多く“シャ−マン化過程”や、突発的な“憑霊体験”に見られるもので、“職業化”すると「取次型」が多くなる。




◆◆セアンス(集団儀礼)   
超自然的存在の何たるかを見抜き、これに対処するための必要な知識と技術を具えた人物が“霊界の専門家”シャ−マンである。シャ−マンは、依頼者に憑依(ひょうい)した霊的存在の正体を突きとめ、最善の儀礼的処置を講ずる。この役割を果たすとき、シャ−マンは守護霊を呼び出してみずからに憑依させ“憑霊状態”を作りださなければならない。したがって一般に『セアンス』と称される。

シャ−マンと憑霊患者を中心とする集団儀礼においては、両者ともに憑霊状態におかれていることになる。この場合、シャ−マンも患者・依頼者も等しく霊に憑かれているのであるが、両者の憑霊の性格には著しい違いが三点ある。

@ シャ−マンはその役割をはたすのに不可欠の条件として、神や精霊(守護霊)を自発的、積極的に招き、みずからに憑依させる。憑霊患者の場合は、意図的に霊を呼び出してみずからに憑かせたわけではなく、それは不幸で偶然の出来事として受けとめられることが多い。研究者たちは“自発的憑霊”と“非自発的憑霊” に類別する。

A普通の(非自発的)憑霊においては、その人物の行動が、常に他人に対して何か特別なメッセ−ジを送るとは限らない。ところが、シャ−マンにあっては、“交通・交流”に強調点がおかれる。超自然的存在は単にみずからを表現するのみではなく、人々に対して何事かを伝えるものと見なされる。非自発的に憑霊された人物よりも、より高度に“統御(コントロ−ル)”されている。

B非自発的憑霊においては、憑霊する霊は一般に悪しき属性を有し、社会によっても異なるが、当該社会のパンテオン(神統)の下部に位置するものが多い。
これに対して、シャ−マンに憑依する守護霊は、総じてその社会において不幸、災害をもたらすような超自然的存在を駆逐し、排除できるほど強力でなければならない。



なおシャ−マンの中には、最初に“非自発的憑霊”を経験し、最後に“自発的憑霊”によって役割をはたす職能者になってゆく者が少なくない。

夢や幻覚、幻聴が続き、ときおり神が姿を現して話しかけたり、身体に触れたりする。こうした経験と並行して身体の調子が狂い、憂うつな日が続く。シャ−マンを訪ねて相談すると、神がその人物に“神に仕える者”になるよう勧めているのだから、神の道に入りなさいと忠告する。種々の事情から忠告に従わず、普通の生活に執着していると、心身異常は増幅し、命にかかわるといわれる状態にまで進む。

 シャ−マンの忠告をいれて神の道に入り、みずから神(守護霊)の憑依をうけるようになると、心身異常は消え、やがて超自然的存在と人間とのいろいろな関係を意図的に統御できるようになる。“召命型のシャ−マン”に見られる『シャ−マン化の過程』である。

[53] ●ジェロニモの戦い Name:道開き Date:2008/04/30(水) 14:43 
※(注)―今話題の演歌歌手ジェロとは特に関係ありません。

スペイン・ポルトガルを主体とする、香辛料、金銀を求めた新航路開拓時代、いわゆる「大航海時代」。それは、西欧の物質文明が、アジア、アフリカ、アメリカ大陸の霊性主体の文明を蹂躙し、それらの地に「暗黒の時代」をもたらした始まりでもあります。その後の、オランダ、イギリス、フランス等の欧米列強による“植民地主義”、“帝国主義”は第二次世界大戦が終焉するまで続きました。未だ、その後遺症とも言える貧困問題に苦しんでいる国は多いです。

かといって、欧米人が総てその様な人たちばかりであったかというと、もちろんそうではありません。
動物文学者であり博物学者、そして、画家でもあったアーネスト・シートン。日本では、『オオカミ王ロボ』等の『シートン動物記』で知られている。彼はまた、北米インディアンの研究家でもあり、『真実の北米インディアン』『レッドマンの心』等、数多くの著作を残しています。

晩年には「ウッドクラフト・インディアンズ」という少年団を創設し、シートンの提唱した“ウッドクラフト”(森林生活法)、つまり、「アメリカ先住民」の生活を理想とした素朴な“エコロジー”と“自然主義”を実践した。後のボーイスカウトの創始者ロバート・ベーデン・パウエルとも親交を重ね、ボーイスカウト発足に多大なる影響を与えた。


●ジェロニモの戦い
ジェロニモとは、ネイティブ・アメリカンのアパッチ族の酋長で、優れたシャーマンでもあり、何よりも戦略家として勇名を馳せた実在の人物の名です。
いわゆる「ジエロニモの戦い」と呼ばれる戦闘では、インディアンの勇士わずか35名で、多くの婦女子をかかえながら、当時のアメリカ合衆国政府軍兵員総数の 4分の1に相当する正規兵5,000人、外人部隊500人、それに国境警備隊を加えた大軍を相手に、実に一年半も戦い抜いたという。
〈正確には、1867年から10年間に、ジェロニモと彼の仲間たちは居留地から4回逃走したらしい。最終的にジェロニモが合衆国軍の軍門に下ったのは、1886年9月4日。ジェロニモも、当時60歳を越えていた。〉

この「ジェロニモの戦い」は、一個人の心の中でも常に起こっているようにも考えられます。“物質・利便性に対する欲求”と“精神性・霊性・自然を重んずる心”とのせめぎ合いです。

さらに、この「戦い」は、人類の存亡に関わる大問題となりつつある「地球環境問題」においても、“国家ごとの取り組み方の違い”(ブッシュ政権とEU諸国の取り組み方の相違のように)とか、“一個人の考え方、意識の違い”といった形で、今後とも繰り広げられ続けることにもなるのでしょう。

将来的に、どういった形で折り合いを付けて行くのか、今後、さらなる“叡智”が必要となりそうです。

この度、メイン・メニューの並びを新しく整理しました。メニュー「よもやま知識」の中の
「21世紀へのヒント  大和民族(日本人)とインディアン」
のところを御参照下さい。

[52] 運 勢  2008・・・・大部遅れてしまいました。 Name:道開き Date:2008/03/13(木) 20:58 
今年の立春は、2月4日の20:01頃が「節入り」となりました。

旧暦の「節切り」(二十四節気の)では、この日が一年の始めとされ、“年変わりの節気” と呼ばれています。 立春は雑節の基準日で、八十八夜、土用、二百十日などは立春から起算されます。
“運勢学”上の「干支」「九星」も、この時刻を境に【運勢盤】上を移動します。つまり、「年回り」が変わります。

今年は《一白水星》の年です。またまた「干支・九星術」の《一白水星》年生まれの方の月ごとの特徴を少しばかり上げてみます。


●《一白水星》年「七赤金星・卯(う)」月生まれの男性
〔今年は3月5日の13:59〜4月4日の18:46までの生まれの男性)

・甲本ヒロト、藤井隆、山崎裕太、熊川徹也(バレー)、肥後克広(ダチョウ倶楽部)・・・・といった方たちです。

・繊細な神経の持ち主の人が多く、如才なく、幅広い社交性を発揮する。
知的な話術で人を惹きつけ、不正や邪悪な考えは好まない。
落ち着きを欠く面があり、自尊心も薄いところがあって、人に惜しまず力を与え、損をする。苦労性の人が多く、根は努力型であるので生家を離れた方が成功する。女性相手の仕事か、教育的な仕事で成功する人が多い。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「七赤金星・卯(う)」月生まれの女性
〔今年は3月5日の13:59〜4月4日の18:46までの生まれの女性)

・吉永小百合、宮本信子、松田聖子、栗原小巻、真鍋かおり、UA、稲森いずみ、藤谷美和子・・・・といった方たちです。

・デリケートな神経の持ち主であるが、自分にすぐれた才能があるのにクヨクヨし、取り越し苦労する人が多い。情緒的感受性が強く、涙もろい。この生まれの人は不正を嫌いコツコツと働きます。精神的な面を好み、美的センスを発揮し、建設的な家庭を築き大事にする。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「五黄土星・巳(み)」月生まれの男性
〔今年は5月5日の12:03〜6月5日の16:12までの生まれの男性)

・二つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】中曽根康弘、ゴリ
【Bタイプ】浜田雅巧、唐沢寿明、いっこく堂
・・・・といった方たちです。

・実行力旺盛。頼まれ事はできるだけ引き受け、同情心も深く、目下の者の面倒もよく見る。喜怒哀楽を表面に出す。毒にも薬にもなる性格で、敵も味方も共に多い。組織力、統率力を持っているが、足下をさらわれたりしてどん底生活をおくるようになった場合は無能力者に変身する。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「四緑木星・午(うま)」月生まれの男性
〔今年は6月5日の16:12〜7月7日の02:27までの生まれの男性)

・長塚京三、関口知宏、清水アキラ・・・・といった方たちです。

・地味な考え方をし、他人を当てにせず、自分を鍛えながら、我が道を開拓する堅実な勤勉家です。神経質なところがあり、愚痴っぽい面もあるが、義侠心もあり、説得する力もあって、人から好かれる。縁の下の力持ちの役が好きで、人を世に出して共に喜ぶ性格の人です。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「四緑木星・午(うま)」月生まれの女性
〔今年は6月5日の16:12〜7月7日の02:27までの生まれの女性)

・南沙織、青江三奈、金井克子・・・・といった方たちです。

・保守的な考えが強く、まじめ過ぎて愛嬌が少ないが、内面はきめ細かな情愛を持っている。同情心あつく、人の面倒もよく見たり、草花を育てて楽しんだりする。宗教関係や病院勤めに向いている。一つの仕事や自分の決めた事に努力し婚期を逃す傾向もあるが、結婚すると家庭を大切にする。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「二黒土星・申(さる)」月生まれの男性
〔今年は8月7日の12:16〜9月7日の15:14までの生まれの男性)

・タモリ、中居正広、平沢勝栄、土田晃之、貴乃花・・・・といった方たちです。

・勤勉で心やさしい温厚な人が多い。好き嫌いを態度に現し、好きな人の頼みは無理してでもやってあげるが、嫌いな人には冷淡な態度をとる傾向がある。鋭い直感力があるので自分の考えを通した方がよいが、人を当てにしやすいのが欠点です。物を置き忘れたり、人のせいにする面もあり、腹を立てやすい。欲望を抑制する心に欠けるためすぐ欲しがるクセがある。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・


●《一白水星》年「八白土星・亥(い)」月生まれの男性
〔今年は11月7日の10:11〜12月7日の03:03までの生まれの男性)

・木村拓哉、古舘伊知郎、里見浩太朗、山崎努・・・・といった方たちです。

・頭脳明晰で機知に富んでおり、呑気で楽天的であるが、プライドと自負心は強く持っている。人の注目を集めたい野心を持ち、失敗しても泣き言を言わず、辛苦をなめても案外平気な態度をとる。一つの機運を見つけると熱中し、新しいアイディアやセンスを持って努力し、人からも好かれる。他人の欠点を探し口やかましく批判したり、ギャンブル好きな人もいる。お人好しで物を人に与えるのが好きで、若い時代は女性にモテる。
詳しい性格的、運勢的特徴はここではひかえさせていただきますが。・・・・

[51] 映画『シックスセンス』&『ゴースト ニューヨークの幻』 Name:道開き Date:2008/02/29(金) 11:05 
下の書き込み[49]、[50]に続きます。

映画『シックスセンス』と『ゴースト ニューヨークの幻』は本当に良く出来た映画のように思われます。おそらく、原作者や脚本家の方たちが、かなりのスピリッチャリズムに通じた方たちなのでしょう。

古い時代の霊たちは、態度も立派で、素直な人たちが多いように見受けられます。一方、最近、若くして亡くなった霊たちは、泣いたりわめいたりして大騒ぎする者が多いようです。やはり「生前の人格が、そのまま死後の霊格になるってことは、本当なんだな〜」ということをついつい思わざるをえません。

とにかく、迷える霊たちというのは、自分が死んでいるということが解らないでいる者が多い。(映画『シックス・センス』でブルース・ウィルスが演じていた霊の様に)
そして、向かうべき死後の世界があるということが解らないでいる。
生前に、この事を強くしっかりと認識しているか、いないかが、死後においては非常に重要なこととなるのです。

この事をしっかりと認識していないと、下手をすると何十年も、何百年も、死んだ時の思念のままの状態で亡くなった場所に留まっていたり、生きていた家にもどって生者と共に生活を送っていたり、職場にいたりもするようです。とにかく、自分が死んでいることが解らないでいるようなのです。

そういった状態でいるということは、お迎えの霊たち(高級霊、つまり、神さまの元で学んで浄化されている霊たち)が来ても受け入れることが出来ないことになります。(つまり、映画『ゴースト ニューヨークの幻』のラストのシーンのようにはなりにくい状態)

さらに、生きている人の磁気オーラの中に入ってしまったりしたものなら(いわゆる、人に憑いている状態)、お迎えの霊たちから見ると、全くの行方不明の状態になってしまうみたいなのです。

他に何体かの霊たちと共に、一人の人物に憑いている場合などは、出られない部屋の中で(つまり、生者のオーラの中で)、生者と霊たちが共に生活している状態とも言えます。そして、憑いている相手を攻撃したりして何らかの形で関与し、想念的影響下に置いて苦しめ続けることとなる。

とにかく、死んだ後に迷わないで済むようにする為には、自分が死んだら、“向かうべき世界”があり、“向上の道”が開けているのだということを、生前から強く心に留めておくことこそが最重要となります。

「死刑制度」の是非について論議されたりもしているようですが、凶悪犯などは、時間を掛けて十分に改心させ、真人間(まにんげん)にしてから極刑に処さないと、死後も人に取り憑いて悪を繰り返してしまうといったケースもかなり多いようなので、慎重に対処して行くべきだとも考えられます。

また、誤った、偏狭な宗教の教義にしばられて、あの世に行けないでいる霊もかなり多いようです。

それにつけても、テレビで、美輪さんと江原さんが、あの世の話をいっぱいいっぱいして下さると、あの世もこの世も、非常に良くなるものと思われますので、お二方には、とてもとても期待するものが大なのです。

[50] 新たなる「地方の時代」へ Name:道開き Date:2008/01/15(火) 14:45 
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

今年のNHKの大河ドラマ『篤姫』は、“幕末・明治維新もの”のようです。
明治維新が成功したのは、地方が(つまり、藩が)健全で、自律したシッカリとした力を持っていたから、だと考えられます。

江戸時代の“幕藩体制”というものは、かなりの「地方分権」体制だったようです。それぞれの藩には、異なる多様な文化が育ち、根付いていました。
中央政府によって画一化されてしまった今日の日本の「地方」とはかなり異なります。
(現在でも見受けられる、日本の地方の多様性は、江戸時代の置きみやげです。)


幕末期の動乱の際には、徳川家直属の代々の家来であった「旗本(はたもと)」たちなどは、二百年以上も続いた太平の世に、ただただ安易に禄(ろく)をむさぼってきたため、堕落し、腐敗が進み、サムライというよりも官僚化してしまっていたため、ただただ保身に終始し
、現実的対応が全くできなかったようです。
薩長を中心とした官軍が、江戸に近づいてくるや、まだ幼い子どもに家督を譲り、早々に隠居してしまった者も数多くいたらしい。

一方、地方の藩はというと、藩内教育に力が注がれ、かなり健全に、サムライとしての伝統が守り続けられていたようです。


しかし、明治維新後の日本はというと、ひたすらに「中央集権」化への道を突き進みました。
薩摩藩出身の切れ者・大久保利通卿が中心となり、内務省に代表されるような巨大な官僚機構を築き上げました。NHK大河ドラマ『篤姫』でも、重要な登場人物の一人として出てくるはずです。

しかし、明治時代の頃までは、サムライたちが生き残っていたこともあり、それなりにバランス良く機能していた“官”でしたが、大正、昭和と時代が進につれ、サムライたちもいなくなり、多くの場所で欠陥が出てきました。

例えば、軍隊でも、日露戦争の頃までは指導者層も元サムライで占められていましたので良かったのですが、少しづつ、少しづつ、官僚化が進んでしまったように思われます。
作戦の劣悪さが原因で破れた太平洋戦争における数々の戦闘でも、結局は、現場の指揮官に腹を切らせて事を納め、自分はまったく責任を取らなかった高級参謀たちが多数存在しました。こういった人たちは、銃後において戦後まで生き残ったようです。

こういった日本の組織の体質は、現在でも、“社会保険庁問題”や、“特殊法人(独立行政法人)問題”に見受けられるように、なかなか改まりません。

さらに、民間でも、あらゆる分野で“官”主導の“護送船団方式”が作られて行き、日本人全体が官僚化してしまったと言っても過言ではないのかもしれません。何でもかんでも“官”任せで、“官”に依存してしまう。
“リスク”といったものを自分自らがシッカリと背負い、果敢に物事に取り組んで行く“サムライ精神”が衰退してしまいました。この“サムライ精神”とは、“官僚意識”の対極にあるものだとも考えられます。

平時には、有能な“官僚的”事務処理を行い、一端事が起こったら、“サムライ的”に事に当たれるといったバランスが取れている状態こそが理想的です。
とにかく、「リスクを負わない、責任の所在が不鮮明な」社会・組織・人は、諸外国からはバカにされるだけです。


対して、日本に開国を求めたアメリカはというと、常に「地方分散主義」と「中央集権主義」の間を行ったり来たりして動いてきました。国においては“連邦政府”と“州政府”、企業にあっては本社と各事業所の対立構造にそれを見ることができます。
そのどちらにも長所と短所があるゆえに、二つの間を動いてきたということです。

アメリカの地球温暖化に対する取り組みを見ても、共和党の大統領ブッシュが押し進める中央政府の方針はかなりいい加減であっても、カリフォルニア州のように、同じ共和党の知事シュワルツネッガー氏のように、積極的にしっかりとした対応をしている州もあります。
“格差”対策でも、NHKで、年末に放送されていた『ワーキングプアV』なんか見てみると、州政府によっては、かなり強力に、雇用政策として、バイオの人材育成を推し進めている州もあるようです。


いま日本では、地方分権の必要性がかなり強く叫ばれているが、明治維新以来の強大なる“官”の中央集権体制が、その実現を阻んでいるようです。
それは、地方自治の強化を中央政府の指導で行うという矛盾をはらんだ政治構造を作り出しています。

歴史的に、中央集権化が進んだ一つの大きな要因として、「情報の中央集積」があったことは明らかで、これも今日のITの進歩によりかなり緩和されて行くそうです。

[49] ●陰徳(いんとく)を積む PartU Name:道開き Date:2007/12/12(水) 20:56 
師走に入り、毎年のことではあるが氏子の家々を、来る日も来る日も「お正月様配り」に歩き回っている。そして、年の瀬も押し詰まっていくに連れて、必ずといっていい程に思い出すのが、日本昔話の『笠地蔵(かさじぞう)』です。

この話により、昔の日本人は、たとえその日暮らしのどんなに貧しい人たちであっても、無事にお正月を迎えることを何よりも楽しみにしていたのだ、ということをうかがい知ることが出来きる。それにつけ、何が何でも今年も無事に、各家々に「お正月様」を配らなければいけないものと、改めて自らの任務の重要さを自覚する。

更には、この昔話は、「陰徳を積むことの大切さ」といったものを、日本の子どもたちの心にシッカリと刻み続けて来てくれました。つまり、我々にとって、とてもとても大切な「宝物」のような昔話なのだとも考えられるのです。

現在の日本社会の、腐敗、堕落、混乱の原因の元の元とはいったい何なのかを突き詰めて考えていくと、結局は、この「陰徳を積む」という心の希薄化に行き着くものと考えられます。

そして、この「陰徳」といった感性は、幕末期、黒船来航の「国難」に際し(現代史的には、「国難」というよりも、重要なエポックを告げる世界史的出来事と考えられるのだが、当時の日本人たちにとっては、天地がひっくり返るほどの国難以外の何ものでもなかったようです)、私心を棄てて、命さえ投げ打って、国事に奔走した“尊皇の志士たち”の持ち合わせていた「天(てん)」とか、「公(おおやけ)」とかいった概念にも通じるものと考えられます。

坂本龍馬、西郷隆盛、中岡慎太郎・・・とか、後世に名を残した人たちの陰に実在していた、数多くの無名の志士たちの存在も忘れてはいけないと思う。
そのような無名の草莽(そうもう・在野)の志士たちに思いを馳せると時、必ずといって思い起こされてならないのが、吉田松陰の従者の某(なにがし)のこと。ハッキリとした名は知りませんが。

向学心旺盛な吉田松陰が、ペリーの乗った黒船に近づき、国禁を破って海外渡航を計ろうとした際に、只一人、松陰に従って小舟に同乗した者がいました。松陰は罪人となっても士族待遇で取り扱われましたが、この人物には武士としての身分がなかったらしいのです。
よって、まるで家畜同様の扱いを受け、糞尿まみれになって異臭を放ちながら、遠丸駕籠(とおまるかご)に乗せられたままの状態で、一月ほどかかって長州藩まで送られたということです。

このような行動を取った吉田松陰のような人物の存在も世界史的に見て稀(まれ)ですが、それに従ったこの人物も同様に思われます。だからこそ、世界史上の奇跡といわれるような「明治維新」の大改革が、この日本で成功したのでしょう。その為の人材的下地は十分に整っていたのです。


こういった無名の、草莽(そうもう・在野)の志士たちが数多く存在していた社会というのは、何と言ったらいいのか、「善意とか・良心とかの“層の厚い”社会」とでも言ったらいいのか、「道徳的に底力のある社会」だったのだと思われます。

良い例えになるかどうかわからないが、サッカーでいったなら、「中盤に、いよいよのところで球際に強い選手が多くいるチーム」とでもいったらいいのか・・・。
はたまた、先日の野球の北京オリンピック・アジア予選に参加した日本代表のように、「ああいった満塁の場面で、しっかりとスクイズを決められる強さ」をもったチームとでもいったらいいのか・・・・。
とにかく、「目立たないところでしっかりとした仕事のおこなえる人が多く存在している強さ」を持った社会とでも言ったらいいのでしょうか・・・・・・・  

かなり、話が脇に逸れそうなので、元に戻しますが、

◆◆◆
子どもの頃には、この時期になると、NHKでも、民放各局でも、必ずと言っていいほどに、テレビでこの『笠地蔵』を取り上げていたと記憶しているのだが、現在はどうなのだろうか。せっかく、このような素晴らしい昔話が伝わり残されているのであるから、決して風化させることの無いよう、この時期が来たら必ず、テレビ、ラジオで繰り返し放送され続けていってほしいと考えるのです。◆◆◆

毎年、年の瀬になると、決まってテレビ放映される『忠臣蔵』のように、そして、街角から流れる『クリスマス・ソング』のように。・・・・・・・・



★下記は、ちょうど三年前の、当掲示板への書き込みです。

[305] 「陰徳を積む」 − 「昔話」の“いましめ” 投稿者:道開き 投稿日:2004/12/09(Thu) 07:59

「陰険」「陰湿」「陰鬱」・・・・と言った様に“陰”の字が使用される熟語は数多くありますが、余り良くない場合に使われることの方が多いようです。
但し、「陰徳」だけは別です。その意味する範囲は、人の見ていない所で道端のゴミを拾ったり、家の中に迷ってきた蝶を外に出してやったりといったちょっとした事から、自然保護、地球環境、そして、様々な“人助け”のボランティア活動にまで及ぶかとも考えられます。

人知れず誰も見ていない所で行われた、一切の結果や見返りを求めない“善行”は、おこなったその人自身の魂をキレイにします。
それは何故かというと、その本人が自分自身の中に実在している神仏とのみ向き合った行いとなるからです。
さらに、その善行は、死ぬまで、いや、死後においても、他の何人にも知られることのないものであったのならば全くのベストです。

以前までは、こういった「陰徳」といったものの考え方は、ごくごく一般の人たちの心の中にも至極当然のこととしてあったように思われます。
「陰徳」といった様な、あまり難しい言葉は使われなくとも、「昔話」の中に組み込まれたりして、年寄りや親たちが、子どもに対して“寝物語”として自然に伝えた「教え」です。
「笠地蔵」「乞食のくれた手ぬぐい」「花咲爺さん」・・・・といった陰徳を教え伝える昔話がたくさんあります。


まずは「笠地蔵」の話。

ある老夫婦がおりました。もうすぐお正月を迎えるというのに、お供えするお餅や昆布がない。焼いた炭を売ってなんとかお正月を迎えたいと考え、お爺さんは炭を担いで出かけます。途中、六体の地蔵さんが雪をかぶって立っていました。
何とも寒そうに見受けられたお爺さんは、炭を売ったお金で餅を買わずに笠を買い、お地蔵さんにかぶせました。笠は五つしか買えなかったので自分のかぶっていた笠もかぶせました。家に帰って、そのことを言い出しにくかったお爺さんでしたが、お婆さんは、それは良いことをしたと言ってくれました。
年取りの大晦日の晩、そのままご馳走も食べずに早めに布団にもぐっていた二人に、ヨイショヨイショと重い物を運ぶ数名の声がしました。声が遠のいた後、外に出てみると餅やお酒、大判小判が山のように置いてありました。お地蔵様が笠の御礼に置いていった物でした。

次に「乞食のくれた手ぬぐい」の話。  (中略)


こういった“善行”といったものは、神さまの御心に叶った、神さまの代行とも言えるような「尊い行い」です。よって、神さまがその行った人の魂を清めてくださったり、なんとも言いようのない至福感を味わわせて下さったりするのだとも考えられます。
世の中、何でもかんでも効率性のみを追求してみたり、経済至上主義であったり、欲・欲・欲のみで動いてしまったのなら、何の潤いもない、非情な世の中、いわゆる“弱肉強食”社会になってしまいます。

つまり、“陰徳を積む”行いとは、「人の世をぎくしゃくさせない為の、圧迫感を回避させる為の“安全弁”とも、“潤滑油”ともなる、神さまの代行となる神聖なる行い」ということにもなるのでしょう。

今の日本社会、この“陰徳”といった観念が薄らいでしまっているから、どうもしっくりしなくなっているように思われてなりません。皆が皆それぞれに、老若男女を問わず、ひどい圧迫感にさいなまれているようです。 まるで“遊び”の全く無い、効きすぎるブレ−キのような危険な社会。気の休まらない世の中です。

かといって、あまり神さまを意識しすぎたり、神さまに見返りを求めてしまっている善行であっては、それは「陰徳」とは呼ばれなくなってしまうのではとも考えられます。

[48] ●「韓信(かんしん)の股くぐり」 Name:道開き Date:2007/12/04(火) 07:43 
韓信というのは、紀元前3〜2世紀にかけての前漢の時代に、劉邦(りゅうほう)に使えた名将で、常勝将軍と称えられた実在の人物です。

最近では、福田首相が、自らが宰相を務める新内閣のことを、韓信のとった戦術にちなんで“背水の陣”内閣と命名したり、現在の自分の立場を、「私はまさに“韓信の股くぐり”だ。」と語ったりしていて、ここのところ一躍脚光を浴びている韓信である。

私にとっても、この「韓信(かんしん)の股くぐり」という語は、幼かった頃の記憶に深く残っている。小学校一年生の時、初めて東京へ家族旅行に行った際に、一つ年上の姉と私と、それぞれに、かなり分厚い、子どもにとっては重いとさえ感じられた、『童話集』の様なものを買ってもらった。

小学校時代は、マンガはよく読んだが、しっかりとした読書といったものはこの二冊の本以外は余り記憶がないのだが、ただし、この二冊の本は、繰り返し、繰り返し、何度も読み返しました。

一冊は、確か『グリム寓話集』であった。もう一冊の名はしっかりとした記憶がないが、中国の故事なども載っていた。その中に「韓信の股くぐり」もあり、どういう訳か、その物語と題名が強く記憶に焼き付いたのでした。

「大きな志を持った者は、ささいな恥辱を意に介さない」という意味の教訓となっている
が、子どもながらに、その言わんとしていることがそれなりに理解はできました。

それにしても「故事成語」といったものは、本当に短い言葉であるが、一言でその時々の状況、物事の本質といったものを端的に言い表してしまう。本当に便利なものである。

「童話集」、「寓話集」だって同じ。内容的には、子どもにも理解できるものであって、かなり、人とか、人生の本質みたいなことを短い物語の中に教訓として教えてくれる。


●●●『グリム童話』について
グリム童話が出版された時代、ドイツではシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生し、ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠いものとなっていた。そのため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始めた。

・ヘンゼルとグレーテル
・灰かぶり(シンデレラ)
・雪しろ姫(白雪姫)
・ブレーメンの音楽隊


●●●『イソップ寓話』について
ヘロドトスの『歴史』によると、紀元前6世紀に奴隷のアイソーポス(イソップ)が作ったとされる動物寓話を中心とする寓話集。すべての寓話に教訓が含まれている。
すべてがアイソーポスの創作ではなく、それ以前から伝えられていた寓話、後世に創作された寓話、アイソーポスの出身地(小アジア)の民話を基にしたものも多数含まれていると見られる。

・アリとキリギリス
・ウサギとカメ
・北風と太陽
・金の斧
・すっぱいブドウ

※韓国が対北朝鮮にとっている「太陽政策」というのは、この「北風と太陽」の物語からつけられた命名なのだと言うことが解ります。


●●●『アンデルセン童話』について
19世紀のデンマークの童話作家・詩人ハンス・クリスチャン・アンデルセンの創作童話であり、『グリム寓話』の様に民俗説話からの影響は少なく、初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくない。

・みにくいアヒルの子
・人魚姫
・マッチ売りの少女
・裸の王様
・親指姫

※ 様々な偽装事件において、「今の日本の会社の社長というものは“裸の王様”なんだ」とテレビで評論家がコメントしている場合、『アンデルセン童話』からの引用なのだということ誰にでもすぐに解る。そして、この一言でだいたいの状況が理解できてしまう。「共通認識」を得るのに非常に便利である。


★ とにかく、童話でも何でも、安易に「ポッと出の新しい物」ばかりを良きものとして教えようとせず、「古典」といったものこそをしっかりと教えてもらいたい。何百年、何千年という、長い年月を乗り越えて現在に伝えられている物なのだから、間違いなく“本物”なのだと思われる。こういったものは、人類にとっての“宝物”なのだとも思われます。

[47] ミッション・インポッシブル Name:道開き Date:2007/11/19(月) 21:06 
他にも、「ボーン・シリーズ」、「24シリーズ」、古いところでは「007シリーズ」と、どうしてスパイ物はやたら面白いのでしょう。

やはり、デジタル&アナログのあらゆる知識、技術を身につけたエージェント〈特殊工作員〉が、組織からの命を受け、全くの自己責任において、ひとり(又はチームで)敵地に乗り込み、到底不可能と思われるミッションを遂行していくのがたまらなくかっこいいからなのでしょう。

そして、どうしようもない窮地に追い込まれたときに使用するアイテム〈最新兵器〉によるどんでん返しもいいです。

[46] 異なる“視点” Name:道開き Date:2007/10/05(金) 22:15 
HV特集『今村昌平に捧ぐ 〜スコッセッシが語る映像哲学〜』。

アメリカの社会と人の心の闇を描いた名作『タクシ・ドライバー』や、今年のアカデミー作品賞、監督賞を受賞した『ディバーテッド』等で、押しも押されもしないハリウッドを代表する名監督となったマーチン・スコッセッシ。彼が、自分の“師匠”だと仰いでいる人物が、何と、日本の今村昌平監督なのだそうです。
スピルバーグ、ルーカス、コッポラ、キャメロン等の、現代アメリカ映画を代表する監督たちが、黒澤明監督を神と仰いでいることは知っていましたが、このことは始めて知りました。

今村監督と言えば、
『豚と軍艦』、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』、『復讐するは我にあり』、『黒い雨』、『楢山節考(ならやまぶしこう)』、『うなぎ』、『カンゾー先生』等の代表作があり、カンヌ映画祭では、『楢山節考』、『うなぎ』で、二度のグランプリを獲得しています。

常に、社会の「常識」とか「モラル」といったものに疑いを持ち、「美醜善悪(びしゅうぜんあく)を越えた人間の生々しい存在を徹底的に見つめ」、這い上がろうとしている人間、社会の底辺にいる人間をひたすらに描こうとしたそうです。

スコッセッシ監督が大学で映画を学んでいた頃、『にっぽん昆虫記』を見て、これまでに味わったことのない感動を得て、まるで強烈な平手打ちを食らったようで、「人として生きのびることの意味」を強く考えさせられたような気がしたという。それ以来、今村作品をひたすらに見て、学び続けているのだとのことです。

そう言えば、私も、二人の監督の作品のほとんどを見てきましたが、確かに共通するものが多いように思われます。

その今村監督、若い頃、小津安二郎監督の助監督をしていた時期があったといいます。
小津監督と言えば、『東京物語』、『晩春』、『秋刀魚の味』等の作品があり、“日本の美風”を描き続けた、世界的にも有名な名監督です。

ところが、今村監督に言わせると、「その演出により、役者たちから生き生きとしたものが消えていくのを見て疑問を感じ」て、小津監督の元を去ったのだとのこと。

そして、今村監督初期の頃の作品『豚と軍艦』のシナリオを書いている頃、小津監督から、「汝等(なんじら)、何を好んでウジ虫ばかり描く」と言われたのを機に、

「その時決定、俺は死ぬまでウジ虫ばかり描く」と決意したとのことです。

全く視点の異なる二人の巨匠の出会い、ある意味、この出会いはかなり運命的なものだったのでしょう。

[45] 『孫子』と『戦争論』 Name:道開き Date:2007/09/29(土) 20:36 
東洋と西洋の考え方の違いは、「医学」とか、「政治・経済」にとどまらず、「戦争の仕方」にまで表れて来るようです。
中国の古典兵法書『孫子(そんし)』の根底に流れているのは、「陰陽五行思想」であり、東洋の「多神教の原理」です。それに対し、プロイセンの戦略家クラウゼヴィッツの名著『戦争論』の根底にあるものはキリスト教的「一神教の原理」です。
この二つの原理は、それぞれに、あらゆる分野に派生し、顕現しています。その違いを比較してみるのが、実に面白いのです。

今年のNHK大河ドラマの題名にもなっている「風林火山」という語、『孫子』の有名な一節に由来するということは、多くの人たちが知るところのものです。「風林火山」を旗印に掲げた武田信玄のみならず、他の多くの戦国武将たち、江戸時代の儒学者たち、そして、幕末期の、吉田松陰などの尊皇の志士たちも、『孫子』を愛読し、研究したとされています。

ところが、明治時代に入り、その『孫子』、政府の「西洋化政策」により、軍の将校養成機関ですら、正規の教育計画に採り上げなくなってしまったといいます。とにかく当時は、「新しいもの、つまり、西洋のものこそが重要」であるとされました。
特に、陸軍では、当時、ヨーロッパを風靡していたクラウゼヴィッツの著『戦争論』の“決戦戦争”“殲滅(せんめつ)戦原理”に傾倒して行きます。

さらに、昭和に入ると、この“殲滅(せんめつ)戦原理”に、「指揮統帥の卓越」(・・・現場の状況など一切考慮に入れない)とか、「精神力の優越」といった要素が加わることとなり、世界に類のない、日本陸軍独特の「白兵銃剣突撃主義」戦術が形成されます。
そして、寡弱な兵力・装備をもって大国ロシアと戦わざるを得なかった日露戦争の原体験と、劣弱な中国軍に対する連戦連勝がもたらす優越感とがないまぜになって、ゆがんだ戦争観、作戦観が醸成されていったということです。

国と国とが戦争をする以上、敵の国力や、どのような戦略、戦術、戦闘方法をとるのかについては、戦争開始前に研究すべき問題であるのに、当時の日本軍は、対戦相手の世界の超大国アメリカの情報すら、まともに研究・分析していなかったとされています。そして、只ひたすらに、“精神力至上主義”が叫ばれました。
『孫子』の兵法では、“情報”をこそ最重要視しているのにもかかわらず・・・

クラウゼヴィッツの『戦争論』では、「戦争とは政治的交渉の継続である」とし、戦争は、その政治的交渉の姿・形を変えたものだと規定する。その上で、「ひとたび戦火を交えることとなれば、相手を徹底的に殲滅し、自分の意志を相手に強要しなければならない」とした。さらに、「敵の戦力を殲滅するために一切の戦力を集中する大会戦が、戦いの雌雄を決する」という「絶対戦争」の概念を創出している。

これに対し、『孫子の兵法』の根底に流れる思想とは、「敵国軍の撃破よりも、自国の生き残り」にある。「戦争とは国家の命運を決する一大事であり、国の存亡をかけたものになるのだから、慎重に考えるべきだ」というのである。「危うきに非ざれば戦わず」を基本とし、敵から攻撃をしかけられた際にやむを得ない抵抗手段として戦争を肯定するという考え方をとっている。さらに、「観念主義を排した実利的な思想」でもある。

20世紀の西洋社会で繰り広げられた数々の戦争において、戦略や戦術の基礎となっていたのはフランスのジョミニの兵学であったとされるが、クラウゼヴィッツの“決戦戦争”“殲滅(せんめつ)戦原理”が、すべての戦争の中心課題となっていたという。
ところが、二度に渡る世界大戦で、武器の威力と精度が飛躍的に向上したこともあり、勝敗に関係なく、多くの人命が失われ、国土はひどく荒廃しました。
その原因は軍事力の正面衝突にのみ戦略を求め、柔軟に戦争を遂行できなかったからではないかという疑問が、軍人たちの間にも生まれ始めました。

こうした風潮のなかで、イギリスの軍事批評家リデル・ハートは、クラウゼヴィッツ以来の西欧近代兵学を批判する立場を取り、そして、明らかに『孫子』に影響を受けたと思われる理論を提示しました。アメリカでも、ベトナム戦争での挫折以降、『孫子の兵法』が注目され、盛んに研究されるようになり、湾岸戦争やイラク戦争にも活用されているとも言われています。

★★★過去数千年に渡り、西洋と東洋は、“衝突”と“融合”を繰り返してきましたが、現代は、衝突し合った東西両文明が、融合し始めている時代とも言えます。つまり、「一神教の原理」と「多神教の原理」が衝突し合った後に、お互いを補完し合い始めている時代に入っているようです。
但し、今の世界情勢を見るにつけ、キリスト教とイスラム教の一神教同士の衝突こそが、きわめて不安に思われます。ユダヤ教から生まれた二つの宗教の兄弟喧嘩が心配なのです。この三つの宗教は、同じ神を崇拝し、同じ旧約聖書を教典としているのですが、本当に仲が悪いです。★★★

[44] BS『世界“里山”紀行』を見て Name:道開き Date:2007/08/17(金) 23:37 
その土地に、海、川、山、湖沼、森・・・があると、自然そのものが豊かであり、そこの風土に合った多種多様な“植物”が繁茂し、多くの“動物”たちが生息することになります。
人間も、それらを頼りに「衣食住」を得、それら自然のものたちと「共生」した形の、その土地土地に合った文化を形成してゆきます。それが何百年、何千年と続くと伝統文化となります。

そういった世界各地の「里山文化」と、日本の「里山文化」との共通点や相違点といったものを確認してみることが、何ものにも代え難い程に、たまらなく楽しいのです。

今回は、中国雲南地方の竹林文化、北欧フィンランドの森林文化、そして東欧ポーランドの湖沼文化を紹介してくれました。

こういったものは、今後、人類が、地球と共生した形の新たなる文明を構築して行く上でも、極めて参考とすべき重要なことに思われるからです。なにせ、否応なしに「地球温暖化」といった大問題が、私たちのすぐ目の前に突きつけられているのですから。

今回は特に、「フィンランドの森林文化」には驚かされました。我が国の古くからの信仰(神ながら)文化との共通点があまりにも多かったからです。


いくつか例をあげてみます。

@ サウナ小屋
フィンランドの人たちとサウナ風呂は切っても切れない関係にあるのだそうです。人々は、新しい土地に移ると、家よりも先にサウナ小屋を作ったと言われます。

サウナ小屋には“精霊トントゥウ”が住みつくようになります。そして、人がいない時でも小屋を守っていてくれるとのこと。「サウナは精霊がいてはじめてサウナとなる。精霊はサウナの“おへそ”のようなもの」だという。

フィンランドの人たちは、サウナでお産をして産湯を使い、病気の治療をおこない、亡くなるとそこで清めてきたのだそうです。

日本でも、酒蔵や味噌蔵とかの“蔵”や、“厩(うまや)”等の建物にも似たようなアニミズムの信仰文化が見受けられるようにも思われます。

A夏至(げし)祭
この祭は、北欧全般に亘っておこなわれており、冬のクリスマスに並ぶお祭りなのだそうです。別名「白樺(しらかば)祭」とも呼ばれています。家やサウナ小屋などを白樺でいっぱいに飾り付けます。床には白樺の葉を敷きつめます。白樺からはキシリトールが採れ、殺菌効果に優れています。

フィンランドの人たちにとって、森は「教会」なのだそうです。しかし、こういった森と関係するお祭は、キリスト教とは全く関連性のないお祭です。キリスト教が北欧に伝搬する以前のアニミズム信仰が、様々なお祭りとして今日まで伝えられているのです。
これと同様なことが、地中海諸国でも、ドイツやフランスでも、東欧や西の果てのアイルランドなどでも、よく見受けられます。・・・・実に、極めて興味深いことです。これは本当に面白いものです。

B妖精
ムーミンのふるさとだけあって、様々な妖精伝説が残っています。

C熊送り
フィンランドの人たちにとって、「熊」は畏(おそ)れ敬うべき存在。肉という贈り物を持って天国から使わされた使者。
今でも、熊猟に出かける前の夜は、身を清めるため断食をしながら森の中で過ごします。自然と一体になることを心掛けて夜を過ごすのだそうです。

猟後は、「熊よ、旅の目的地へ行け。熊の天国に帰ってくれ」といった歌がうたわれ、熊の霊を天国に送る儀式が行われます。
北海道のアイヌの熊祭(イオマンテ)とも極めて共通しています。

[43] ●不朽の青春映画『エデンの東』 Name:道開き Date:2007/07/23(月) 22:02 
私の中学、高校の頃には、よくテレビで、『旧作映画の名場面集』という特番が放送されていました。そういったものを参考に、「よし、この映画は必ず見なければいけないな」「出来るだけ早くに見てやるぞ」といったようにして、必見作品のターゲットを特定したものでした。しかし、ここ最近はそういった番組はほとんど放送されてないです。

古い名作映画は、舞台劇の影響をまだまだ色濃く残しているようで、セリフの内容に重みがあり、シーンの一つ一つもシンプルで頭の中に強く、深く染み込んで行くような気がします。

どうも、この私、何といったらいいのか、映画の“名場面フェチ”とでも言ったらいいのか、映画の名シーンが大好物です。もしも、世の中からこれらが無くなってしまったものなら、おそらく、生きている喜びの半分以上は無くなってしまうような気もします。

最近、BSで『エデンの東』が放送されました。
『エデンの東』と言えば、何といってもジェームス・ディーンです。この映画を初めて見たのは中学生の頃なのですが、おかげで高校時代には、彼のリーゼント・ヘアーやアイビールックを、ただただひたすらに真似ることになってしまいました。
当時は、ジェームス・ディーンもアブラ役のジューン・アリスンも、ティーン・エイジャーを演じるのにはかなり無理があるかな〜とも思いましたが、今回見ても、特にジューン・アリスンにはそのことを感じました。でも、その当時には、「森田健作さんもテレビドラマ『俺は男だ!』では、23、4才で高校生役をしているし、近藤正臣さんも30才で『柔道一直線』で高校生の柔道家の役をやってたしな〜」とも考えたものでした。おそらくは実際のティーン・エイジャーの配役ではこのような重厚な作品には仕上がらなかったことでしょう。

しかし、この年になって久々に見直してみると、つくづく良い映画だな〜と思えてなりません。そのストーリーは普遍性を持ち、極めて深遠なものです。それもそのはず、
原作は旧約聖書の「カインとアベル」の物語に材を得た、ジョン・スタインべック(代表作に『怒りの葡萄(ぶどう)』『廿日鼠(はつかねずみ)と人間』あり)の名作です。
特に、昔は、「何となくそんなものなのかな〜」といった程度にしか思わなかったラストのシーンには深く感銘を受けました。

そのストーリーのあらましはというと、子どもの頃からナイーブで目先が利き、社会の仕組みや人の心がわかりすぎるがゆえに悪さばかりしてきたキャル(ジェームス・ディーンが演じる)が、父の愛を一心に受けていた善良な双子の兄アロンに、嫉妬の余り、亡くなっていると教えられてきた母親が生きているという秘密を話してしまいます。アロンは自暴自棄になり兵役を志願し、列車に飛び乗り故郷を後にしたのでした。そのショックから、父親のアダムが脳卒中で倒れます。
以下は、そのベッドの上で横たわる父のアダムに対して、子どもの頃に同じような体験を持つ、ジューン・アリスン演じる女友達(・・・?)のアブラが、とつとつと話しかけるラストのシーンでのセリフです。

「愛されないのは最悪の悲劇です。
私はそれをよく知っています。
それは人を獣に変えてしまう。
キャルは寂しかったんです。
あなたは愛したつもりでも十分ではなかった。
彼に対して何も求めようとはしなかった。

彼は去るつもりです。その前に許してあげろとは言いません。
でも、愛情を示さないと 彼は生きてはいけません。
罪悪感と寂しさを引きずったままです。
どうか救いを。

私は彼を愛しています。
彼に自信を与えてください。努力してみて下さい。
何かほしいと 彼に求めれば 愛が伝わるはずです。
どうか真心を・・・・・・」
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