昨夜、ニュース番組を見ていたら、日系初のアメリカ連邦議員として日系人の地位向上に貢献し、日米の友好親善に尽力したダニエル・イノウエ上院議員の死去が報じられていました。そして、氏が東日本大震災からの復興を支援するために被災地を訪れた際の一枚の写真が取り上げられていました。
ダニエル・イノウエ氏と言えば、日系アメリカ人のみによって構成された、ヨーロッパ戦線で最高の殊勲を上げたアメリカ史上最強の陸軍部隊とされる、第442連隊の一員であったことが有名です。
そのテレビに映し出された写真をよくよく見ましたら、ダニエル・イノウエ氏の背景には駅のプラットホームが、さらにその奥の景色には見覚えのある家並みが見えます。「あれ、野蒜駅だ!」
おそらくは「トモダチ作戦」の一環として、昨年の4月21日から行なわれた、仙石線の野蒜駅・線路に流れ込んだ瓦礫の除去作業を行なった「ソウル・トレイン作戦」に、アメリカ陸軍に同行して当地までお越しになられたのでしょう。
ここから先は、あくまでも私が勝手に考えたことなので、「阿呆くさい書き込みをしている」とバカにされても仕方がないとは思われますが、敢えて書き記す事と致します。我慢しながら読んでみて下さい。
つまり、ダニエル・イノウエ氏と米軍に同行する形で、第442連隊戦闘団の“霊団”も被災地入りし、当野蒜の地まで来られたのではなかろうかとも考えられるのです。
以前、この掲示板に記した
[110] ●第442連隊戦闘団 Date:2011/03/06(日) 20:26
〈過去のメッセージはこちらですの【13】に掲載〉
[134] ●“トモダチ作戦” Date:2012/02/05(日) 18:56
[139] ●あれから一年@ Date:2012/03/04(日) 15:45
といった三つの過去の書き込みが、一枚の写真で一つに重なったと言うことにはならないでしょうか。
インターネットは世界に繋がっています。書き込みを行なったこの部屋のパソコンとダニエル・イノウエさんの身近にあるパソコンは繋がっているのです。そして、イノウエさんと、既にこの世を去っている第442連隊戦闘団員たちも繋がっています。よって、第442連隊戦闘団の“霊団”を始めとする日系人の方たちのミタマが、イノウエさんを仲介として(霊媒として)、自分たちの第2の祖国である日本の国難を心配して被災地までやって来たと考えても不思議ではないように思われます。
霊の世界では距離の遠近は全く関係ないのです。但し、神様や霊たちがこの世に関与する際には、「依り代(よりしろ)」が必要となります。人が「依り代」になる場合には「依り坐し(よりまし)」と言い、いわゆる「霊媒」になる人が必要となるのです。
以前にも、白鬚神社で偶然行なわれることになった“口寄せ”神事に、沖縄戦の犠牲者たち、中国のウイグル自治区の拷問でなくなった方たち、会津戦争で亡くなった方たちの霊の集団が、突然、“コンタクト”してきたということを書いたことがあります。それと同じことが起きたのではないでしょうか。
★参考 [114] ●会津の魂 Date:2011/06/04(土) 07:24
〈過去のメッセージはこちらですの【13】に掲載〉
★参考
[139] ●あれから一年@ Date:2012/03/04(日) 15:45
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・更には、震災の数日前にこの掲示板に記した「第442連隊戦闘団」についての書き込みについてです。まさか書き込んだ数日後に、自らが被災部隊となった多賀城連隊の人たちが、不明者捜索のために当地にやって来るとは考えても見ませんでした。
そして、緊急津波警報が発令されるたびに、ネットへの書き込みを行った2階の自分の部屋に、緊急避難の為に駆け上がって来たのでした。泥靴で、かなり部屋の中を汚されましたが、仕方のないことだと思っています。私も一人の日本人ですから、あらゆる協力を惜しむものではありません。
サイバー空間を移動して私の部屋までやって来た霊にも驚かされましたが、自衛隊の人たちが部屋までやって来たのにも非常に驚かされました。
★参考
[110] ●第442連隊戦闘団 Date:2011/03/06(日) 20:26
昨年の11月、日系アメリカ移民の三世代に渡る苦難の歴史を描いた大河ドラマが5夜連続で放映されました。ご覧になった方も多いかと思われます。
その中で、ヨーロッパ戦線に投入された、日系アメリカ人のみで編成された第442連隊戦闘団についても描かれていました。日系人部隊が存在したことは以前からおぼろげには知っていましたが、余りにも無知であったことが同胞として恥ずかしくさえ思われました。
アメリカ合衆国の歴史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名で、現在のアメリカ陸軍では、第442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっているそうです。
なお、部隊の合言葉であった"Go for broke!"(「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」)は、後に第442連隊戦闘団を描いたアメリカ映画の題名にもなっています。
442連隊の元兵士、ハワイ州選出上院議員ダニエル・イノウエの原作を元に、邦画として、渡辺謙監督 (現在ではハリウッド・スターとも言えそうで、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』では、硫黄島守備隊司令官、栗林忠道中将役で主演しています) での映画化の話が進行しているということです。
2010年製作の「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」(監督:すずきじゅんいち)は、元兵士の証言をまとめた日米合作のドキュメンタリー映画で、2010年の「第23回東京国際映画祭 日本映画・ある視点」に正式招待作品として上映後、日本公開が決定しているらしい。
以下に、インターネットで調べた第442連隊戦闘団の略歴を記します。
アメリカ本土とハワイ出身の日系二世の志願兵から成る連隊は、編成当初、背景事情の違いから対立は深刻だったらしく、そこで上層部は、双方の対立を解消すべく、ハワイ出身者に本土の日系人強制収容所を見学させることにした。彼らは当初「自分達と同年代の女の子達に会える」と喜んでいたものの、私財を没収された上、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、如何に本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった。
1943年イタリアに上陸した連隊は、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げた後、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍している。ローマへの進撃の途上で激戦地を突破し、ローマを目指したが、軍上層部の意向によってローマを目前にして停止命令が出され、後からやってきた白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。結局、部隊はローマに入ることを許されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた。
その後フランスに移動させられアルザス地方の山岳地帯での戦闘を行う。戦後のブリュイエールの街では、部隊の活躍を記念して、通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。1994年には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。
442連隊を最も有名にした、第34師団141連隊第1大隊(アメリカ陸軍の象徴とされた「テキサス大隊」)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。
ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。
フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。
1946年、トルーマン大統領は442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、'You fought not only the enemy, you fought prejudice---and you won.(諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。)'と言及し讃えている。
2010年(昨年)10月にオバマ大統領は、442連隊戦闘団と陸軍情報部にアメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。
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