NHKのBSでお盆近くになると放送される番組に、『最恐 ! 怪談夜話』というのがありました。そこで語られる、作家、文芸評論家、漫画家、俳優・・・といった方たちの生々しい霊体験談の中には、今回取り上げる話とかなり共通した“モノノケ”話もあったりして、「見える人には見えてるものなのだな〜」と考えさせられるところが多々あります。今年は放送されるのでしょうか?
◆狢(ムジナ)憑きの青年 〈平成某年7月〉
動物学上では、狸(たぬき)と狢(ムジナ)は同じイヌ科の動物とされているようです。西日本などでは、狢(ムジナ)はアナグマの別称とされているようですが、アナグマを狸(たぬき)といったり、狸のことをムジナと呼ぶ地域もあったりと、二重三重に混同されているのが実情のようです。
“キツネ憑き”はこれまでに幾度となく見てきているのですが、最近、初めて“狢(ムジナ)憑き”を経験しました。憑き物にも地域性があるみたいで、四国などでは憑き物といえば、“狸憑き”か“犬神憑き”が主流となるようです。
テレビの時代劇を見ていると、よく、“ムジナの○○”と呼ばれる人物が出てきます。一度取り付いたら、執拗なまでにとことん食らい付いていく気質の人物を形容する際に、この「ムジナ」の語が使われているように見受けられます。「どうして“狢(ムジナ)”という語が、執拗さをあらわすのに使われているのだろうか?」と、多少なりとも疑問に感じておりましたが、今回の経験で初めてその理由を知りました。本当にしつこい質(たち)なのです。
“キツネ憑き”の場合は、おキツネさんが怒り狂って、「どうしてあの様なことをしたのだ」と憑依する原因になった事柄を正すようにと主張してくるケースがほとんどです。ところが“ムジナ憑き”の場合はというと、怒りといったものも感じられず、どうするようにと言ってくるわけでもなく、一見、間が抜けた漫画チックな様子にも感じられるのですが、非常に質(たち)が悪いのです。まるで、人に憑いて弄(もてあそ)ぶことが目的であるかのようにも見受けられます。
三週間ほど前のこと、ある所からの紹介を受けたという二十代半ばの青年が神社にやって来ました。小太りで浅黒く、何となく汚らしい印象を受ける容姿の青年で、話を聞いてみると、だいぶ以前から何者かに憑かれているようだということでした。両脇の下と左右の腰に、背後からしがみ付かれており、背中に手をやるとその憑き物に触れることが出来、特にバイクに乗っている時に、体中(特に脇の下と尻の穴)を舐め回されたり、からかいの言葉を浴びせかけられたりするということでした。
更に、そのような状態にありながら、しきりに、女友だちに対する思いを話してきました。二人の女性との縁が結ばれるようにと、二つの絵馬に願いを記して掛けて行きました。
これは動物霊に憑かれている人に共通する典型的な特徴なのですが、異常なまでに異性を求めます。
話を聞いただけでも、おそらくは「モノノケ」の類ではなかろうかと思われましたが、先ずは、御神前にて御祈祷を執り行いました。
祈祷後、「どうか?」と青年に聞いてみると、「静かにしていますがまだ背中に憑いている」といいます。死霊だったら、神さまに導かれてあの世へと向かっていくはずなのに、そのまま憑いているということは、やはり、何らかの「モノノケ」の類に違いないと思われました。これは厄介なことになりそうだということもあって、その日はある程度の指導をするにとどめ、後日、再度来社するようにと話して聞かせました。なにせ、低級な「自然霊」というのは人間としての経験もないので、「情」といったものがなく、扱い方次第ではかなりの危険を伴うからです。
後日、ある霊能者Aさんにお願いして加わっていただき、憑き物の正体を確認してもらうことにしました。すると、その当日の朝方、Aさんは不思議な霊夢を見たといいます。その青年が、親と口論になり、家を飛び出して車を運転していた際に、かなり古い時代に、狸を食していた集落の人たちがその骨を捨てた場所があって、その“塚”のような所をタイヤで踏んでしまった情景が見えたということでした。そして、やたらと臭いニオイが残ったのが印象的だったそうです。さらに巨大な蟻たちが秩序正しく働く状況も見え、そのように人は勤勉でなければならないのだという教えの夢も見たということでした。
神社で、三人で会いましたところ、青年の背中に憑いているのは尾が二本もある「モノノケ化」した野狸だということでした。
更に驚きだったのは、前回にも増して青年の顔が狸のようになっていたということでした。両目の回りには輪のようなものができ、鼻先が尖って見えます。キツネ憑きになった人は、目がつり上がってキツネのようになりますが、それと同様です。
これまでに他の人たちにも憑いてきたのだろうか?どうしてこの青年に感応してきたのだろうか?・・・といった疑問も多々感じられ、青年にあれこれと問いただしてみました。すると、青年は山菜採りが好きだったらしく、ある山道の行き止まりになっている場所にバイクを止めて、山菜採りを始めた時から総てが始まったと言うことでした。(後日、その場所を清める為にお祓いに行きました。)
Aさんに害を及ぼしては申し訳が立たないので、当日は、そのまま帰ってもらい、後日、その青年と私の二人きりでお祓いの神事を執り行うことと致しました。
何冊かの関係書物に目を通し、様々な対応策を考えながら神事に臨みました。
「人になど憑いていないで、山に帰りなさい。故郷に帰りなさい。山の神さまの元に向かいなさい」と諭しながらお祓いを執り進めていきました。そうしている内に、青年は「取れました」と嬉しそうに言い、満面に笑みをたたえ、晴々とした様子で帰っていきました。あまりの嬉しさに、当方に対するお礼の言葉は忘れてしまったようでした。
ところが、その夜にまた青年から電話があり、「神主さんの姿が見えなくなったら、またどこからかやって来て憑いてきました」と言います。その憑きモノは結構な策士で、あれこれと欺いてくるみたいです。
「それでは毎晩、お風呂に入る際に、粗塩を身体に擦りつけて、身を清めてみなさい」と教えますと、数日後には、「その時には一端離れるのですが、またどこからか戻って来て、糞のような、カエルの腐ったような悪臭を身体に付けて逆襲して来るのです」と言います。
「そして、夜中になると、ピシィー、ピシィーと唄を歌っているような声を出してみたり、神主さんの上げる祝詞(のりと)の真似をしてからかったりします。私もたまりかねて、バカな真似をするなと叱りつけますと、顔を爪で激しく引っ掻いてきます。あまりの痛さに、おそらく顔が血まみれになっているだろうと思い、鏡で顔を見てみましても不思議なことに何ともないのです。・・・・本当につらいです」ということでした。
かなり辛そうなので、急遽、電話口でお祓いを施しますと、「ヤバイ、ヤバイと言って、その時はおとなしくなりますが、時間が経つとまたからかい始めます」という。
離れてから納まる場所がない為、いつまでも青年の身体に憑こうとしているのだろうかとも考えられましたので、「それでは、祠(ほこら)を設けて祀(まつ)ってあげるから、そちらに移るように伝えてみなさい」と話すも、それでも「絶対に離れない」と言い張っているという。本当に質(たち)の悪いムジナです。
※東京の浅草寺の伝法堂裏には鎮護堂という祠(ほこら)があり、「鎮護大使者」の称号を与えられ、多くの崇敬者たちに、火難・盗難防止、商売繁盛をもたらしてくれる“狸神”として信仰されているが、始めは寺の境内に住む狸の憑依からはじまったようです。徳島の青木藤太郎大明神だとか、讃岐の蓑山大明神だとか、阿波の太三郎狸だとか、“分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)”伝説で有名な群馬県館林市の守鶴和尚狸だとかも同様らしい。
これは長期戦になりそうだとも考えられ、青年の怠惰な生活に感応して憑いた節もあるので、「とにかく気持ちで負けないことが一番だから。自分自身がしっかりすることが大事なのだから」と話して聞かせました。親に対しても、この件については全く話していないということなので、まずは一切を話しなさいと伝えるも、かなり複雑な親子関係のようでした。青年はしきりに自殺を口にするようになりました。そして、ここ数日は連絡が無くなっており、こちらで電話してもつながりません。安否が気遣われました。
◆“狢(ムジナ)”憑きの青年、その後
その後、一月ほど経過し、ようやく青年から電話が入りました。親には打ち明けたということですが、家族は皆、神仏が嫌いな人たちらしく、なかなか話を信じてもらえず、病院に行くように言われているとのことでした。その後、本人は寺社回りをしていたそうですが、一向に問題は解決せず、また当方に電話をしてきたということでした。再度、神社においてお祓いの祈祷を執り行ないました。
(私)「それでは、前回、神社に来て御祈祷した際に、家でお祀りするようにと渡した御札とお守があるでしょう。お守よりも御札を身につけた方が遙かに効き目があるから、時代劇の旅装束に見られるように、風呂敷のような布に御札を巻いて、そのムジナとあなたの背中の間に、“白鬚神社”の文字がムジナに向くように身につけてみなさい。さらに、それに加えて入念に御神入れした御札を4体渡すから、両手両足に同じようなやり方で巻いてみなさい。そして、これまでに教えたことは、毎日きちんと実践し続けなさい」と話して聞かせました。
翌日、青年から電話があり、しばらくぶりで、ぐっすりと眠ることが出来たということでした。その後、また連絡が来なくなりました。
さらに数ヶ月が過ぎ、「また、お祓いをお願いしたい」と青年から連絡が入りました。その後の経過について聞いてみると、以前のように、映画『エイリアン』に出てくる、エイリアンの幼虫が顔にへばり付いたときの様な、強力な背中への貼り付きは無くなり、かなり緩く、弱くなってきているということでした。ただし、何か気に食わない事があるとすぐに、「このバカ、殺すぞ!」という言葉は、今でも吐いてくるし、夜中に歌う曲も、青年が普段から聴いている、ビーズやケミストリーのポップス曲に変わったということでした。
(私)「とにかく、その憑き物が、居心地の悪いような、波長が合わないような状況を作りだし、それを維持していくようにしてみなさい。そして、微弱になって消えていくのを、辛抱強く待ってみなさい」と話して聞かせました。
※少しでも浄化の時期を早めようと考え、「十種神宝(とくさのかんだから)」の御名を唱えて、鎮魂の術を施してみました。青年の話では、施術されている際には、憑き物の罵倒する声が微弱になり、遠くから聞こえているような感じになるのだそうです。間違いなく嫌がっているようで、効果はあるみたいです。
◆百鬼夜行??? −“ムジナ”憑きの青年、その後A
一年の時が過ぎ、青年に憑いているムジナもだいぶ弱まってきているらしい。「この野郎、殺すぞ!」といった暴言は今でも時々吐いてくるのだが、貼り付きはかなり緩くなって、背中にフワフワと漂っているだけのようになっているとのこと。
彼の場合、霊感が強いとされている人たちがよく見る、死霊といったものは全く見えないらしく、「モノノケ」「妖怪」といった類の“モノ”たちの姿はしょっちゅう見ているようなのです。
現在の彼は、未明の暗い内に家を出なければならない新聞配達のアルバイトに就いているということなのだが、ある時などは、仕事先に向かっていつものように原付バイクを走らせていると、小さな子供なのかなとも思われる数人の人影らしきものが、車道と歩道を分離するコンクリートの縁石に腰掛けて話し合いをしている姿が見えたのだそうだ。こんな夜中に変だなと思いながらもバイクを走らせ近づいていくと、その小人物たちもバイクに乗っている彼に気付いたらしく、彼の方をふり向くや否や、いっせいに立ち上がって、道路脇の用水路の中に飛び降り、その中をひたすら逃げ去って行ったということだ。
また、ある時には、男女の性別不明のミイラのような姿をした“モノ”が、髪を振り乱したまま、バイクに乗る彼の前方の道路を横切って行ったこともあったという。これらの“モノ”たちは、彼に憑いているムジナの仲間たちだったのだろうか。
彼の場合、そういった“モノ”にチャンネルが合ってしまっている状態のようです。(おそらくは、彼の目が、背中に憑いているムジナの視覚をも兼ねて働いているからなのでしょう。)
彼とは別な人物の話になりますが、山を開発して分譲された、新興のニュータウンに住んでいる方なのですが、夜中に、巨大な目玉のバケモノが道路を歩いている姿を見てしまったそうです。特定の人たちに、こういったお化けの様な姿で可視化されて見えるのは、恐らくは「山のモノ(精霊)」たちではなかろうかとも考えられます。特別の場合を除いては、見た人に害を及ぼすことは無いようです。
『陰陽師』等の漫画や映画に描かれている平安期の京都の夜の闇の様子は、まさに「百鬼夜行」といった観があります。当時の人たちは現代人に較べて、「見える」人たちの数が多かったのではなかろうかとも考えられますし、当時の政治や文化といったものが微妙に関係して、“疑心暗鬼”的に様々なモノを見させていたようにも思われます。江戸時代中期の儒学者で政治家でもあった新井白石などは、本気で“鬼”の存在を信じていたようです。
現代の沖縄でも、“キジムナー”の名で呼ばれる、「真っ赤っか」なガジュマルの古木の精霊の姿が、あちらこちらの神社の境内や「ウダキ」と呼ばれる斎場で、「見える人には見えている」ようです。
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※《参考》
●スピリッチャリズムにおける「高級霊と低級霊」
一般によく“狐憑き“と言われるものがあります。これは動物霊ではなく、現世に姿を現したことのない低級自然霊、または低級自然霊と化してしまったものによることが多い。自然霊とは、この世に肉体を持って姿を現したことのない霊です。いわゆる稲荷、天狗、龍神、たぬき等です。本当に絵で見られる姿をしているわけではなく、そのような性質を持つ“エネルギ−体”と考えて下さい。
自然霊にも低俗なものから超高級なものまであります。まず頂点に立つ“神”、“高級自然霊”、“妖精(フェアリ−)”があります。自然霊には、天候など、自然界を司る働きがあります。
特に人間に良い影響を与えているのは、背後霊のなかの自然霊です。もともと人間の始祖は自然霊であり、人間の背後霊を調べてみるとよく龍神、天狗、稲荷等、神の予備軍とも言える自然霊が支配霊としてつかさどっていることが見受けられます。これらはまだ、霊界における新しい魂の自然霊であるから、まず、現世において人間をつかさどって守ることにより、神となる修行をしていくと言われています。
背後にいる霊の系統(霊系)が、人間の個性として強く現れます。龍神霊系の人、天狗霊系の人、稲荷霊系の人。
問題となるのは中級より低い自然霊です。“神の使い”である霊であることが多く、人の生業を見てくれたりもします。ところがこれらの霊は大変に俗っぽく、与えた分の見返りは必ず得ようとする性質があります。最初のうちだけ熱心に詣でていても、感謝の心を忘れたりすると、怒り狂います。霊障によって知らせようとしたりします。おろそかにされているうちに、人間の子供のようにグレて低級化していく傾向があります。
自然霊は子供を産むように分霊し、消えていきます。
このような自然霊に対する説得はなかなか難しく、人霊と違って情がありません。肉の家族を持ったことがないので情けというものがないのです。情に訴えることができないのです。だから自然霊は慎重にあつかうべきで、常に敬意を払い、簡単に呼び出そうなどとしてはいけません。
霊界について中途半端な知識を持ち、このような低級霊を呼び込んでしまい惑わされてしまう人は以外に多い。憑依状態が長く続けば続くほど、憑依霊は居心地が良くなる。憑依とは憑く霊ばかりが悪いのではなく、呼び込む自分が一番悪い。「神は人に悩みなど与えていない。神は問題のみを与えているのだ」という。
『自分のための「霊学」のすすめ』より 江原啓之 著
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