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[207] ●リアル“神憑かり“体験談 Name:道開き Date:2014/11/22(土) 11:42 
お正月も近づいて来ていますので神様のお話を少しばかり記したいと思います。
一般に、高位の神様が直接的に降臨されて、この世で姿をお現わしになられるということはないとされています。それは高位の神様の世界とこの世では次元があまりにも違いすぎるからです。もし、神様がお姿を現わされたとしたならば、それはお使いの神様だったり、お使いの神様の更なるお使いだったりと、神様の世界には幾重にも段階があるようなのです。このことについては神道でもスピリチャリズムでも同じ様な内容の事が説かれています。

以下は、あるYさんという女性に憑依現象が起こり始め、その友人の霊能者Mさんと私との三人で、約2年間に渡った数百体に上る霊達にお祓いを修した際、突如として憑かってきた神様に関するお話となります。その部分のみ封印を解いてみる事に致します。




◆Yさん母親の実家のお祓い  〈2月24日〉

霊能者のMさんから連絡が入り、ここ最近、憑霊現象が始まっていたYさんのお母さんの実家の井戸の女神さまが、髪振り乱して、もの凄い形相で夢に現れて訴えて来ているということでした。Yさんのお母さんから話を伺うと、実家では全く神事も行わずに井戸を埋め、その上にアパートなどを建てており、家の中では様々な良くない事が起きてメチャクチャな状態になっているということでした。頑固で話を聞き入れようとしないお婆さんを何とか説得し、神事を執り行う日を2月24日に決める。

家の中の神棚の前に祭壇を設けて神事を執り行ない終えた後に、突如としてD家の氏神様系列の男神がYさんに憑かって来て、D家の人たちに向かって語り出した。

(神さま)
「お前達はいったいこれまでに何をしてきたのだ。・・・まとものなはこれ(Yさんの母親)だけだ。・・・・・・とにかくこの家を終わらせることに決めているのだから、もうすでに遅いのだ・・・」と。

回りには氏神のお使いのおキツネさんの姿もMさんの霊眼には見受けられたという。


(私)
「今回、縁あって県北の野蒜にある白鬚神社より参りまして、神さまとD家の方たちの間に入って神事を執り行いました神主でございます。何とぞ、これらの者たちに“神まつり”の仕方などを教えますので、今ここで断を下さずに、暫くの間ご猶予を賜るわけにはいかないものでしょうか」と繰り返し訴え続けた。

暫くの間、沈黙が続いた後、

(神さま)
「それでは今回だけは様子をうかがうこととする」と語られ、そのまま昇神(お帰り)なられて神憑かりは終わった。

その直後に今度は、一郎さんという、Yさんのお母さんのおじいさんにあたる霊が降りてg来て様々な事を語り始めた。この霊は、前回、白鬚神社にやってきた霊である。D家の人たちを戒め、生前、畑仕事をした眺めの良い場所にまた行ってみたい等と暫く話をした後に帰って行った。

それら一切の神(霊)憑りが終了した後、集まっていたD家の皆さんには神まつりの仕方の詳細を話して聞かせた。





◆Yさん母親の実家の神さまが神社に来られた 〈4月4日〉

霊能者Mさんから、「数日前から、Yさんのお母さんの実家の神さまが再度憑って来られて、全くD家の者たちの心が改まっていないので、Yさんも含めた一族の者たち総ての命を持っていくと語られているので、どうか再び神事を執り行って欲しい」との連絡が入った。私も、神さまの怒りは非常に恐ろしいので、「それでは白鬚神社の御神前で神事を執り行なうことに致しましょう」ということに決まった。

白鬚神社御神前での祝詞の奏上が終わると、D家の氏神系列の神様が憑かって来られて、Yさんの口を借りて「もう命を取り上げるしかない」と強く語られた。やはり、Yさんの命も持っていくというのだ。

(私)
「この白鬚神社においてYさんは、それは多くの迷える霊たちを救済しております。その善行も考慮していただきたい」と申し上げるも、ダメだと断られる。

今回はいくらお頼みしても、なかなか許しのお言葉は戴けず、沈黙の時間ばかりが経過して行った。もうどうすることもできないのだろうかと半分諦めの気持ちも出そうになる。

そうしている内に、「白鬚神社のより高いところにおられる、古代の髪型(両耳の所に髪を束ねて居られる)と服装をされた神さまが本殿の方からお姿を現され、そして、神さま同士で話し合いが持たれています」と、霊眼に映る様子をMさんが語り始めた。

これこそが「天の助け」、まさに“天佑神助”が得られているのだと思われた。

(ちなみにD家の氏神系列の神さまは、古代の戦支度の姿をされた武神らしく、Мさんがいくらご尊顔を拝しようとしても全く見ることができず、ただ眼だけがハッキリと見えていたということだ)

(私)
「Yさんには、毎日、神さま方のおまつりを怠ることなく行わせるので、何とか、せめて神さまに心を寄せようとする者たちだけでも命を助けていただけないものでしょうか」と申し上げた。

すると、その神さまは、ようやく静かに首を縦に振られた。

(私)
「ありがとうございます。・・・・・・・以上、これにてお帰り願い申し上げます」

と、こちらから申し上げて拍手を二度打つと、神憑かりは終わった。

神さまにお帰りいただいた後も、様々な霊達が憑かって来て多くのことを語って行った。





◆白鬚神社におけるD家の人たちのお祓い 〈4月14日〉

前回の白鬚神社における御祈祷の後、Yさんが家に帰って神社での出来事をお母さんにお話したらしく、翌日、お母さんから「何とかならないものでしょうか、D家の者たち皆をどうか宜しくお願いします」といった内容の電話が掛かってきた。

やはり、実の親兄弟と、自分の実家に関することなので、簡単には割り切ることが出来ないのは当然のことです。その後、Yさんからも「どうしたらよいでしょうか」との電話もあり、「それでは、後ろに白鬚神社の神様たちに控えていただかないと私の命も危ういと思われるので、本当のラストチャンスということで、今度はD家の一族の方達に白鬚神社まで来てもらって、神社で神事を執り行うことにいたしましょう」ということになった。

神事を行う当日、D家の親族達が集まる以前に、白鬚神社の拝殿前にはD家の神さまが先に来られてお待ちになられている姿がMさんには見えているということでした。

夕刻、Yさんのお母さんとお祖父さん、姉、末の弟、そして、叔母夫婦と従姉妹等が車数台に分乗して来社した。私の方からこれまでの経緯を話し、「私自身もどうなるか分からないのだが、出来るだけのことはやってみる」と伝えた。

祈祷後、Yさんに神憑かりが始まるも、神様は何も語ろうとはしませんでした。Mさんによると、もう既に決まっていることなので神さまは何も話さないでいるのだという。もう、断は下されており、前回、さらに上の神さまとお話しなされて決まってしまっていることらしい。Mさんの霊眼には、Yさんの母親の実家の家に、天から黒い竜巻のような、稲妻のようなものが落ちている状況が見えているという。

更に沈黙が続いた後、老齢で堪え性も無くなっているYさんの祖父が口を開き、「何で、神主さんとその女の人(Mさんのこと)だけが話しあって、Yは黙っているのですか?」と言葉激しく問い正してきました。
(D家の人たちは、私とMさんをペテン師だと疑っているようでした。それは至極当然なことで、誰だってそのように捉えるであろう状況下にあるとも思えたからです)

すると、それまで沈黙されていた神さまが、突然、「黙れ、まだ判らぬのか」とYさんの口を借りて祖父を強く叱責された。そして、Yさんの祖父と叔父に対し、「わしには心の底までも見えるのであるぞ。そもそも何で長男が来ていないのだ」とおっしゃられた。「もう始まっているのだぞ。長男の言葉に耳を傾けるなら、早く長男の家に越していった方がよいとも神様はおっしゃられてます」とMさんもいいます。

(神さま)
「もう決まっていることだ」、そして私に向かっても、「これはそちとも約束したことであるな」とも語られます。

(私)
「前回の祈祷の際に、心を寄せようとする者はお助け願いたいと申し上げましたところ、神さまは御首を縦に振ってくださいました。それも約束かと思われますので、心を寄せようとしない者に対しては断を下していただいて構いませんが、心寄せる者たちに対しましてはお許しをお与えください」とひらに申し上げた。

すると、ようやくのこと、神さまが静かにうなずかれた。

(私)
「ありがとうございます。本当に有り難うございます。・・・・・・・・・以上、これにてお帰り願い申し上げます」

と、大きく柏手を二度打って昇神していただき、神憑かりが終わった。

〈これ以降、この神様が憑かってくることはなかった。D家の方達は現在でも平穏に暮らしているらしい。〉


●その後、D家の二代前の先祖が憑ってきて、思念のみによってその思いを伝えてきているとМさんが語った。(おそらく以前からやって来ている一郎さんという霊だろう)

「今の家には四代前に越して来たのだ。前に住んでいた所でも不信心によると思われる障りがあった事に気づき、氏神社を祀ったりもしたのだが、しっかりとした神信仰を教えてこないでしまった。又、同じことになってしまった」と。


●次第に、YさんにD家とは関係のない霊が入ってくるようになったので、D家の皆さんには帰ってもらいました。数日前にМさんから電話で、「テレビで、フィリピン女性のバラバラ殺人事件のニュースを見ていたら気分が悪くなりました。何か、来られたりすることになるのでしょうか」という連絡があり、「沖縄戦で亡くなられた霊の方たちが大勢やってきたという事もあったばかりだし、距離は全く関係ないみたいなので、そういったことも十分に考えられるのではないでしょうか」と話し合っていたところ、どうやらその霊がYさんに憑かって来たようなのでした。

自らは話をしないで、思念のみを伝えてきているらしい。「おかあさん、おかあさん」と繰り返し叫んでおり、そして、「あの男は冷酷な人でなしで、バラバラ殺人を犯したことを何とも思っていない。その魂は何度も生まれ変わって同じようなことを繰り返している。何で私はこんな目に遭ってしまったのか」と語っているという。

(私)
「前世において、何らかの罪を犯しているはずです。それで今回のような事件に巻き込まれてしまったのでしょう。これでカルマは帳消しになった筈です。あとは神さまの元に向かって行き、よく学び、あの世からお母さんをお守りしなさい」と諭す。

その言葉に対し、その女性の霊は「国籍や信仰は関係ないのか」と問うているというので、「全く関係ないから大丈夫です」と話すと、安心してあの世へと向かって行ったということだ。


●次に、大変美人好きな男の霊が入った。「付き合っていたモデルの女性が芸能界に入ってしまった。大部貢いだのに。・・・それで当てつけの為に自殺した」と語っているという。「あの世にも美人は大勢いるから、安心して向かいなさい」と導いてやった。



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★霊媒の門番

欧米におけるスピリッチャリズムでは、霊たち(霊界)からの通信“媒体”となる役目を担う「霊媒(mediumまたはspirit medium)」たちの守護霊として、最も多いのがインディアン(ネイティブ・アメリカン)霊だとされている。よって、彼らは“霊媒の門番”とも呼ばれているらしい。

彼らは超自然の力についての知識が豊富で、さらに心霊の法則にも通じていたからだといわれている。
日本の霊媒たちの場合は、巫女、行者、陰陽師といった方たちの守護霊が多いのではなかろうかとも考えている。

“神さま”が憑かっているときの状況と“迷える霊”が憑かっている時の状況とでは、どの様に異なるのかをMさんに尋ねてみた。

「神さまが憑かっている時のYさんのオーラの内側は、まるで綺麗なキューティクルのようになり、その中に様々な映像が映し出されるのです。逆に、迷える死霊たちが憑いている時のオーラの状態はと言うと、まるで汚れたドブ水のようで、その中に様々な映像が映し出されるのだ」とのことでした。・・・・・・まるでテレビ画面の様です。

そういった話を聞くにつけ、「霊媒」というものは、まさにその呼び名の通り「“霊たちを映し出す媒体”“霊界を映し出す媒体”となるお役目の方たち」なのだと、深く感じ入るものがあります。

さらに、規模が大きな話になりますが、ラジオやテレビなどの“大衆伝達の手段、媒体”を意味する「マスメディア(mediaはmediumの複数形)」といったものは、この世に生きている人々の心霊事象・状況の伝達のみならず、あの世からの働きかけも受けやすい(いや、受けている)ものなのではなかろうかとも考えられます。

よって、マスメディア関係の方たちには、出来る限り、世の中を善き方へと導いて行く内容の番組(神さま視点の番組)を製作していただき、「霊媒の門番」として、ラジオ、テレビといったマス・レベルの“媒体”に映し出してもらいたいとも考えるのです。


因みに、Mさんはいつから霊眼が開けたのかというと、初めて白鬚神社にYさんの付き添いで足を運んだ際に、車から降りてきた私を見て「何で三人揃って来たのだろう?」と、私の側に寄り添っていた二人の守護霊の姿までも見えてしまったのが総ての始まりだったとの事です。


[206] ●「歳月人を待たず」・・・潮汐現象A Name:道開き Date:2014/11/08(土) 15:35 
「潮汐現象により、地球の自転は遅くなって、1日が少しずつ長くなっており、月は地球から遠ざかって行っている」ということをご存知でしょうか? 月は時間的に人を置き去りにしていくだけでなく、実際に、空間的にも人の住む地球から離れて行っているというのです。


潮汐現象により地球が変形するにはある程度の時間がかかりますが、その間にも地球は自転しているので、変形している方向は月よりも前を向く格好になります。結果的に、地球上にある物は地球の自転と反対方向に力を受けることになります。こうして、潮汐現象により地球の自転はだんだん遅くなっているとされているのです。

古生物の年輪から、4億年ほど前には、1年が400日であったということが知られています。つまり、昔は地球の自転が早かったので1日は短かったことになります。日食の観測記録などから、100年あたり2ミリ秒ほどの速さで1日は長くなっているらしいのです。

一方、月は公転方向に引っ張られる格好になり、加速していきます。そして、加速した月は地球の引力を振り切るように、次第に遠ざかっているとされています。遠ざかる速さは、最近の観測によると、1年間に3.8p程度だそうです。

つまり、千年で38m、一万年で380m、百万年で38qも遠ざかってしまうのです。更に遠ざかって行って、地球との引力バランスが崩れてしまった時には大変なことになってしまうのです。しかし、こんな事ばかり考えていると私の頭も大変なことになってしまいますので、これ以上は考えないで、「確かな今ある生を謳歌させることに全力を尽くすべき」なのでしょう。


昔から、日月の運行は変わらないものとされてきましたが、絶えることなく変化を続けていることは間違いないのです。結局、この世に不変な物など無いのです。地球が誕生して46億年とされていますが、人類が文明を築いて来た期間などは、たかがここ数千年のことです。「暦」の中の、年、月、日、時の概念などもやがては変化していくことになるのでしょう。


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〈※参考〉

●月の満ち欠けの周期

旧暦では、毎月の始まりを「朔(さく)」●といい、第一目日を「朔日(さくじつ)」(または単に「朔(さく)」)「ついたち」等と呼ぶ。「満月」を「望(ぼう)」○、毎月の最終日を「晦日(かいじつ)」「晦日(みそか)」「つごもり」等と呼んでいる。
「ついたち」は「月立ち」、つまり「月の旅立ち」を意味し、「つごもり」は「月籠もり」を意味している。

この「ついたち」の日に天にある月を「新月」と呼ぶ。月は地球の周りをまわる衛星で、太陽の光を反射することによって輝いて見えるが、月が太陽と同じ方向にあるときが「新月(朔(さく))」なので、太陽に照らされていない面が地球を向いているため、月を見ることができない。

月が公転により動いていくと、光っている部分が徐々に見えるようになってくる。第三日目の夕方には、西空に低く、細い「三日月」が見えてくる。そして一日、一日と日が経つに従って、月は満ち太りながら、夕方に見える月の位置は、東へ東へと移動していく。

毎日の月の出・入り、南中の時刻が、一日に平均50.47分ずつ遅くなってゆくのは、地球が太陽に対して一回自転したとき、月も同じく反時計回りに公転している為であり、その分だけ余計に自転をしないと追いつかなくなるからである。

第七〜第八日になると、夕方の月の出は真南になり、月の形は右側だけが光った「半月」となる。これを「上弦(じょうげん)の月」と呼ぶ。

第十五日〜十六日ごろになると、「満月」(暦では「望(ぼう)」○と記される)となり、夕方の月の出は真東になる。この日はまんまるな月の姿を終夜見ることができる。

「満月」を過ぎると、月の出は日に日に遅くなり、夕方には月の姿は見えなくなってくる。第二十三日目の右半分が欠けた「半月」の「下弦(かげん)の月」は真夜中の十二時頃に出る。それ以降は、月は太陽に近くなって行き、第二十九日〜第三十日にはほとんど姿は見えなくなる。これが「晦日(かいじつ)」(「月籠(つご)もり」)で、下界は闇夜となるが、月が再び天上を旅するための準備期ということにもなる。

この「新月→三日月→上弦→満月→下弦→新月」の周期である「朔望月(さくぼうげつ)」は約二九・五三日で、ここから一ヶ月という概念が生まれた。また、七日ほどで、「新月→上弦」のように月の形が大きく変化することが、一週間という概念の原型になったともされている。旧暦における各月の「月切り」は、この「朔望月」を基準にして行なわれる。




●月齢(げつれい)

月齢とは、「朔(さく)」●から経過した時間を日単位で表わしたもの。例えば、5月6日0時0分が「朔」だとすると、その瞬間が月齢0.0で、5月6日の12時0分は月齢0.5、5月7日の0時0分は月齢1.0、5月7日の12時0分は月齢1.5という具合に、月齢は一日ごとに一つずつ増えていき、「朔」がくると0.0に戻る。
月の見える時刻は毎日変わっていくので、暦に記載される月齢は、通常「正午月齢」が使われている。




●月の名称

「新月」、「二日月(ふつかづき)」、「三日月」、「上弦(じょうげん)の月」(七日月)、「十日余(とうかあまり)の月」(十一日月)、「十三夜月(じゅうさんやづき)」、「小望(こもち)月」(十四日月)、「望月(もちづき)」(満月)、「十六夜(いざよい)の月」、「立待月(たちまちづき)」(十七日月)、「居待月(いまちづき)」(十八日月)、「寝待月(ねまちづき)」(十九日月)、「更待月(ふけまちづき)」(宵闇月(よいやみづき)、二十日月)、「二十日余(はつかあまり)の月」、「下弦(かげん)の月」(二十三日月)、「三十日月(みそかづき)」

といったように、月には実に様々な名称が付けられて呼ばれて来た。それは、日本人がいかに月に親しみを持ってきたのかということの現れであり、同時に、日本文化の繊細さも現していることになる。


◎十六夜(いざよい)の月
「いざよい」とは、「ためらう」という意味の古語「いざよふ」に由来する。満月の翌日で、月の出が40分〜1時間程度遅くなるので、そのことを月がためらっていると見立てて名付けられた名称。


◎立待(たちまち)の月
十七日目の夕方、月の出を立ったまま待つことができる月。


◎居待(いまち)の月
十八日目の夜、月の出が日没よりもだいぶ遅くなるので、座って月の出を待つことになるという月。


◎寝待(ねまち)の月
十九日目の夜、日没後4時間ほど経たないと月のでが望めないので、寝ながら待とうという月。


◎更待(ふけまち)の月
二十日月ともなると、月の出は午後九時半〜十時半頃になり、夜も更けてからようやく出るという月。


◎二十三夜月(下弦の月)
月の出は真夜中の十二時前後となる。昔は二十三夜の日に「月待ち」をする風習があった。これを「二十三夜待ち」という。

  


★「二十三夜月」以降の月に名称がないのは、「月待ち」をする人などいない深夜にようやく昇る月だからである。月の出が遅いと空に月が残ったまま夜が明ける。朝方の空に残る白っぽい月は、「残月(ざんげつ)」とか「有明(ありあけ)の月」とも呼ばれる。つまり、十六日以降に出る月は総て、朝まで月が残るのである。


[205] ●仮本殿 Name:道開き Date:2014/10/22(水) 14:22 
本日、神社本庁神社復興支援事業による、伊勢神宮の間伐檜(ひのき)材を使用した仮の本殿が建立されました。

竣工祭は11月5日 11時からの予定です。


[204] ●潮汐現象 Name:道開き Date:2014/10/20(月) 10:23 
鳴瀬川河口部と松島湾を結ぶ東名(とうな)運河は、民家からすぐ近くの所にあったこともあり、地域の子ども達の格好の釣り場となっていました。潮の干満(かんまん)の状況が顕著に現われ、干潮(かんちょう)の際には川の底が丸見えになり、満潮(まんちょう)の時には脇の県道に溢れんばかりに水かさが増して来ます。
干潮が極に達したとき、一時海水の流れが停滞しますが、一転して「上げ潮」になると、鳴瀬川河口部方面から松島湾に向かってものすごい勢いで海水が流れ込みます。この時こそが魚の釣れる時でした。今でもよく覚えています。

東日本大震災における大津波で運河の土手も破壊され、「どうせ、コンクリートで補修されてしまうのだろうなあ、昔からの景観が損なわれてしまうのだろうなあ」と半分諦めていましたが、旧来通りの稲井(いない)石を使った復旧工事が可能だという説明を受け、地元の住民たちは非常に喜んでいます。



◆「満潮」と「干潮」
潮汐(ちようせき)現象は、月と太陽との引力によって地球が「変形」させられることによって起こります。《ニュートンの万有引力の法則》によれば、「物体が物を引っ張る力はその質量に比例し、距離の2乗に反比例する」とされています。

太陽は月より400倍ほど大きいが、地球からの距離も400倍ほど離れているために、見かけ上は同じくらいの大きさに見えます。太陽の引力は月の引力の約180倍あるとされますが、月は太陽より小さくても距離的に地球に近いので、月の引力の方が約2倍ほど地球に対する影響力が大きくなります。特に海水は陸地よりも動きやすいので大きく変化します。

地球の中心から見て月に向かった側のA地点と、その裏側のB地点との起潮力の大きさは等しくなり、どちらも「満潮」となります。どうしてかというと、B地点は中心よりも月に引っ張られる力が弱いので、中心においていかれる格好になります。これは月の反対方向へと引っ張られるのと同じことで、B地点側でも満潮になるのです。

一日に「満潮」と「干潮」が2回ずつあり、およそ6時間12分おきに起こるのはその為です。なお、「潮」は「朝しお」、「汐」は「夕しお」の意です。



◆大潮と小潮
月と太陽が同一方向または正反対方向にある場合には、月による満潮と太陽による満潮が重なるので、満潮は高く、干潮は低くなる。これを「大潮(おおしお)」といいます。一方、月による満潮と太陽による干潮が重なると、満潮もそれほど高くならず、干潮もそれほど低くならない。これを「小潮(こしお)」といいます。

満潮と干潮の高さの差は、普通、朔(さく)(旧暦の一日)および望(ぼう)(旧暦の十五日)の1〜2日後に最も大きく、上弦(じようげん)(旧暦の八日)および下弦(かげん)(旧暦の二十三日)の1〜2日後に最も小さくなります。この一日と十五日を中心にした前後の計七日間が「大潮」で、八日と二十三日を中心とした前後の計七日間が「小潮」となります。


[203] ●暦の「2033年問題」 Name:道開き Date:2014/10/14(火) 09:57 
現在、日本において頒布されている暦の暦法は「天保暦」(江戸時代後期、1844年)に準拠しています。その「天保暦」は清朝の「時憲暦」(1645年制定)を参考に作成され、より優れたものになっています。
暦法の特徴としては、西洋天文学(ケプラーの法則)を導入し二十四節気の決め方が変わったことにあります。

ところが、2033年にはそのことによって問題が起きてしまいそうなのです。つまり、暦の上の1か月の中に、中気を2つ含む月が現われたり、中気を含まない月が2つ以上現われたりしても閏(うるう)とはならない月が生じたりして、暦を作ることが不可能な状態になってしまうのです。そういったことが続出してしまうのが2033年なのです。

「時憲暦」でも、1851〜1852年に同様のことが起こりました。しかし、このときに何も問題を起こさなかったのは、〈時憲暦ルール〉の「冬至から冬至までが13ヶ月ある場合は、中気を含まない最初の月を閏月とする」に従っていたからなのです。

よって、〈時憲暦ルール〉を採用すれば何とか乗り越えることが出来そうなので、「日本カレンダー暦文化振興協会」などの主要団体が、民間業者などを集めてコンセンサスを形成するしか今のところはないのです。


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〈天保暦のルール〉
・春分は二月、夏至は五月、秋分は八月、冬至は十一月とする。

〈時憲暦のルール〉
・冬至は十一月とする。
・冬至から冬至までが13ヶ月ある場合は、中気を含まない最初の月を閏月とする。


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★ケプラーの法則

〈第1法則〉
・惑星の公転軌道は楕円(だえん)である。 

〈第2法則〉
・軌道を進む時間は経路長ではなく、経路と太陽でつくられる扇形の面積に比例する。


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●二十四節気の「節切り」と置閏(ちじゅん)法

古い時代には年末に閏(うるう)月を置いたが、二十四節気が用いられるようになると、中気を含まない月を閏月とした。


◆平(恒)気法
単に一太陽年を、冬至から始めて時間的に二十四等分し、その分点に二十四節気を配した。これを「恒(平)気法」という。この方法だと、地球の公転軌道が楕円であり、運行する速度も一様ではないことから、春分・夏至・秋分・冬至は、天文学上の実際と一致しなくなる。

「平気法」では、「節」から次の「節」まで、「中」から次の「中」までの日数は、15.218日と各気の間隔はいつも同じで、「節月」(30.44日)が「暦月」(30日、又は29日)より長くなるため、中気を含まない月が生じることになる。この月を閏(うるう)月とした。


◆定気法
明代末以降、中国に西洋天文学・暦学が紹介されるようになると、清朝の時憲(じけん)暦からはケプラーの法則が採り入れられ、太陽の黄道上の春分点から、黄経(春分点と太陽との角度)を十五度ずつの二十四等分に分け、太陽がこれらの分点を通過する瞬間を二十四節気に配するようにした。これを「定気法」という。この定気法では、各節気間の時間は等しくないが、暦面上の春分・夏至・秋分・冬至と正しく一致することになる。

「定気法」では、1節気の間隔は約14.72日から15.73日の間を移動するようになり(近日点〈一月二日頃〉に近い頃は間隔が短く、遠日点〈七月六日頃〉に近い頃は間隔が長くなる)、暦の上の1か月の中に、中気が2つ入ったり、中気がなくても閏(うるう)とはならない月が生じたりする。


[202] ●「心霊現象」の重要さA Name:道開き Date:2014/09/16(火) 11:42 
下の書き込み[201]に続きます。

自分の場合、若い頃から興味を持っていたこともあって、よく当たるという拝み屋さんのところに足を運んだことがありました。身上も明かさず、ただその人の前に座っていたところ、頻りに首をかしげていました。
「あなたの家の後ろにずいぶんと古いお墓がたくさん並んでいるようだけど、これはどういった訳なのか?・・・・皆さん位の高い方達ばかりのようですがどういった方達なのですか?・・・」と。

確かに我が家の裏手は墓所になっていて、遠いご先祖様達が眠っている場所になります。拝み屋さんには先ずはその光景が見えたようでした。頻りにご先祖様達のお話ばかりをしてきて、その日の会話はそれで終わってしまいました。この野蒜地区は勿論のこと、東松島市内でも、我が家のようにご先祖様のお墓が家の裏手にいっぱい並んでいる家など心当たりがありません。「よくも当てたな」というのがその時に持った感想でした。

そのお墓に眠っているご先祖様の初代は、京都の天台宗本山派修験の総本山・聖護院から当地に招かれた方だということです。父親と二人で海路遙か船でやってこられたらしく、二人でこの地域を散策した後、「お前はこの地に根を張って暮らしていくように」と言い残して、父親は息子を残して京都に帰って行ったそうです。恥ずかしながらその話は氏子の方から教えてもらいました。

更にそれから数年後のこと、母方の親戚達が石巻でもよく当たるという拝み屋さんの所に行くというので、興味もあってそれに加わらせてもらいました。その時も、その拝み屋さんが、大勢の中の端っこに座っていた私に対して首をかしげていました。やはり、以前の拝み屋さんと同様に「お宅の家の後ろにいっぱい並んでいる古いお墓は何ですか?」と不思議そうな面持ちで問いただしてきました。

別々の時に、異なる拝み屋さんから、家の後ろにあるお墓の話をされるということは、一つの心霊現象と考えてよいように思われます。まさか二人の拝み屋さんがタッグを組んで私をペテンに掛けて陥れようとしても、得られるものなど大したことないのですから。


さらにその数年後、スピリッチャリズムに興味を持っていた当時の私は、東京の目黒駅のすぐ側にあるM会館で開催されたフォーラムに参加することにしました。集会が始まる前の待ち時間に廊下にいたところ、後ろから「お祓いをなさっているのですね」とスーツ姿の私に声を掛けてくる人がいました。振り返ってみると、巨大な体格の人物が微笑んでいました。江原さんでした。まだその当時はテレビに出て有名になる以前の頃でしたので、自己紹介を受け、私の守護霊である行者さんからのメッセージだと様々なこと伝えられても、今一つ信用することが出来ませんでした。もしかしたらペテン師なのかなとも思っていました。「霊能者の方に合うと、家の後ろにあるお墓の話しをされるのですが、あなたにもそれが見えたのですか?」といった話をしたことなどを覚えています。

ただその中で、江原さんが「第3頸椎と第4頸椎の辺りがズレかかっているので、しっかりと治療を受けるように伝えてくれ、と守護霊さんがおっしゃってますよ」と語った言葉が、後々の、信じてみるのに値する人だという気持ちに繋がりました。その当時は風邪を引いたりした際に頸椎にちょっとした違和感を覚える程度でしたが、2、3年が経過すると頸を回せなくなり、横を向くことも困難になったからです。「そういえば、あの方、今のこの状態を言い当てていたよな〜」と思われたからです。

こういった有史以来の原初的なやり方が案外、あの世を考える上での極めて有用な情報をもたらすことにもなり得ると思われるからです。「何だ、ただペテンに引っかかっているだけではないか」「ちょっとばかり頭がおかしいのではないか」と思われる方も多々いらっしゃるでしょうが、そういった方は「虎穴に入らずんば 虎子を得ず」「アウト・オン・ア・リム」で、自分なりに探ってみればよいだけのことだと思います。但し、大槻教授のようなアプローチ法では、物事をややこしくするだけだとも思われますが。教授の場合、宮城県角田市が生んだ偉大なる「心霊ボードビリアン」とも呼ばれているようです。


[201] ●「心霊現象」の重要さ@ Name:道開き Date:2014/09/15(月) 08:00 
昨日のNHKスペシャルを見ていて、臨死体験、神秘体験といったものを、総て脳科学から解き明かそうとしても無理があるように思われました。確かに脳はそういったことに対して重要な働きを担っているのには間違いないのでしょうが。

名だたるノーベル賞クラスの科学者たちが様々な実験を重ねて得た知見よりも、たった一人のシャーマン(呼称は霊媒でも、拝み屋さんでも、スピリチャルカウンセラーでも何でもいい)の一言が真理に近づく糸口となることだって十分にあると思われます。

「今、あなたのすぐ側に、こういった方がいらしてますよ。お母さんじゃないでしょうか。あなたが子どもの頃に、こういったことがあったようですけれども、それはこれこれの理由だったのだとあなたに伝えて欲しいとおっしゃってますよ」といった内容のことを、あれこれといっぱい聞かされたとします。亡くなった母親と自分にしか分からないことを悉く言い当てられてしまったのなら、それは脳科学の問題ではなく、心霊現象として霊の存在を考えてみなければならなくなることでしょう。(但し、ペテンには十分に配慮して)

立花隆さんは、一度、江原さんのような方にでもお会いしてみて、臨死体験、神秘体験の話をしてみるべきだと思いました。それだとNHKスペシャルでは扱えなくなり、民放のバラエテイー番組で扱われてしまうことになりそうですが、真理を手に入れることができるのならそれもよいのではないでしょうか。

脳科学によるアプローチも重要なことなのでしょうが、シャーマニズム、アニミズム、スピリチャリズムといった文化人類学的なアプローチがないと、死と向き合った人の魂の救済は難しいように思われます。有史以来の極めて原初的な方法を試してみるのも一つの手かと思われます。


[200] ●「二十四節気」はエレガントな科学 Name:道開き Date:2014/09/08(月) 07:20 
「旧暦」文化に関する話になります。 


秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる 


藤原敏行が「秋立つ日によめる」、『古今和歌集』の中の余りにも有名な歌である。
日本に暦が伝わってから約350年後の、当時の教養人が「暦の上の季節」と「実際の季節」との微妙なズレ感を美しく歌に詠み上げたものです。

この時代から1000年以上が経過した現在でも、同じ内容のことがテレビ画面上で毎年繰り返し発せられているようでもあります。
「暦の上では今日から春なのに、まだまだ寒い日が続いています」「暦の上では秋なのに、日本列島は酷暑の真っ只中にあります」と、立春や立秋の日に必ずと言っていいほどに発せられるコメントは、まるで慣用句のようになっている感もあります。


東日本大震災が起きた2011年の5月に、日本気象協会が「日本版の二十四節気をつくります」と、言語学者文化人、気象関係者からなる専門委員会を設け、一般からも意見を募って検討を始めたそうだ。これに対し、俳句界や日本語研究者、暦研究者などからは「歴史的、文化的意義を無視するな」という猛烈な反発の声があがり、一年ほどで「季節のことばの公募」という形に方針転換したらしい。

私の様な暦に関わる端くれ者にさえ、「何で、畑違いの一つの財団法人にすぎない日本気象協会が、何千年も続いている旧暦の根幹を成す二十四節気を作り替えなければならないのか」と思われたほどですから、暦に深く関わる専門家たちの反発たるや、いかばかりのものであったかは容易に推察されます。

この件について強く憤られた「暦の会」の石原幸男氏などは、翌2012年の1月10日には、早くもPHP研究所から『暦はエレガントな科学 −二十四節気と日本人』といった著書を出された程です。


恐らくは、昨今の暦ブームの火付け役となった冲方丁(うぶかたとう)氏の『天地明察』の主人公で、初の大和暦「貞享暦」の編纂者・渋川春海(安井算哲)が、「本朝七十二候」を作成しているので、安易な考えから、同じように「日本版二十四節気」を作ろうとなったのではなかろうかと思われます。これは「二十四節気」が如何なるものなのかを知らない人たちの発想だと思います。

「二十四節気」の中の、冬至、夏至、春分、秋分の「二至二分」については、誰もが科学的に理解していることでしょう。「冬至は一年で最も昼が短く、夜が長い日」「夏至はその逆」「春分、秋分は昼と夜の長さが同じ日」と学校で習っているからです。

問題とされているのは、立春、立夏、立秋、立冬の「四立(しりゅう)」や他の節気の名称のようです。それは中国発祥の陰陽五行説的観念思想に過ぎないだとか、中国といった大陸的気候による名称だとか受け取られ、だから実際の日本の季節感とズレてしまうのだと思われている節があるのです。


実際のところは、「四立」も同様に科学的なもので、「二至二分」によって決まる天文学的概念なのです。「太陽南中高度」や「昼の長さ」を計算すればすぐに解ることなのですが、「四立」は「光の季節」区分の良い指標といえるものなのです。

では、どうして実際の季節感との間にズレを生じるのか、といった疑問を持たれる方も多くおられることでしょう。それは「気温の季節」は「光の季節」よりも少し遅れるというところにあります。特に四方を海に囲まれている日本列島は、大陸に比して海水の熱容量が大きいため、熱しにくく冷めにくいのです。これが「光の季節」である二十四節気と実際の「気温の季節」との間にズレ感を生じてしまうのです。



さらには、誰もが暦の季節に違和感を持つ理由がもう一つあります。
子どもの頃、「何でお正月番組なのに〈新春!スター隠し芸大会〉なのか?」「どうして年賀ハガキに“初春”“迎春”の文字が入るのか?」「冬の真っ只中で、雪の季節はこれからが本番なのに、“春”の到来はさらにその先のことなのに」・・・・と思われた方は多いと思います。「桃が咲くまでにまだ一月はあるのに、何で3月3日を〈桃の節句〉というのか」「七夕が何で、天の河が見えにくい梅雨の7月7日の時期なのか」・・・・と、取り上げたらきりがありません。

こういった暦の季節に対する違和感は、偏に明治政府のあまりにも性急な近代化政策がもたらしたものなのです。日本はアジアで最初にグレゴリー暦を採用したのですが、旧暦を禁じ、これまでの年中行事を総て新暦の日付にしてしまったことによる弊害がこれなのです。それが暦の季節感を複雑でややこしいものにしてしまっているのです。

新旧の暦の併用こそがベストだったのだと思われます。現在、正月や節句を西洋暦で祝っているのは、アジアでは日本だけのようです。中国などは旧暦を「農事暦」として大切に扱っています。アジアとの関係をより強め、相互理解を深めていくためにも、旧暦を重視する政策を、国策として行っていった方がよいように思われるのです。暦は契約社会の重要なインフラなので、より真剣に考えた方が良いと思われます。


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※参考  

◆二十四節気

暦日と季節の推移との間にずれが生ずるという太陰暦の欠点を、太陽暦の要素を加えることによって補ったのが太陰太陽暦となる。中国暦の場合、二十四節気がそれに当たる。
二十四節気とは、気候の推移を示すための黄道上の二十四の基準点のことをいい、それぞれに季節にふさわしい名称をつけたもの。

二十四節気は、ある時期、突然に発明されたものではなく、段階的に整備されてきたものであり、「二至二分(二分二至ともいう)」などはかなり古くから認識されていたと考えられる。殷の時代(BC16世紀〜BC11世紀)には既に、素朴なかたちの太陰太陽暦が使われていた。

戦国時代末期(BC3世紀頃)の『呂氏春秋』から「四立(しりゅう)」である立春・立夏・立秋・立冬の語が使われ始めていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。二十四節気の全名称は前漢の『淮南子(えなんじ)』において出揃っており、「八節」をさらに三分割したのは、月と対応させるためであったとされている。



●「節(せつ)」と「中(ちゅう)」

     《節》         《中》
春  
正月  立春(りっしゅん)  雨水(うすい) 
二月  啓蟄(けいちつ)   春分(しゅんぶん)
三月  清明(せいめい)   穀雨(こくう)

夏  
四月  立夏(りっか)    小満(しょうまん) 
五月  芒種(ぼうしゅ)   夏至(げし)
六月  小暑(しょうしょ)  大暑(たいしょ)

秋  
七月  立秋(りっしゅう)    処暑(しょしょ)
八月  白露(はくろ)     秋分(しゅうぶん)
九月  寒路(かんろ)     霜降(そうこう)

冬  
十月   立冬(りっとう)    小雪(しょうせつ)
十一月 大雪(たいせつ)   冬至(とうじ)
十二月 小寒(しょうかん)   大寒(だいかん)


二十四節気の内、第一段に属するものを「節(せつ)」(又は「節気(せっき)」)といい、第二段に属するものを「中(ちゅう)」(又は「中気(ちゅうき)」)と称し、正月節・立春、正月中・雨水、二月節・啓蟄(けいちつ)、二月中・春分というようにした。
特に、二分(春分・秋分)・二至(冬至・夏至)・四立(立春・立夏・立秋・立冬)の「八節」が暦上では重要な節気の位置を占めている。

立春から奇数番の十二節気である「節(せつ)」は、四立(りゅう)を含んでいて、季節の指標を示したり、各月の始めを意味するものである。偶数番の十二節気である「中(ちゅう)」は、二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)を含むことでも理解できるように、月の名称や位置〈月序〉を決める(「正月中」「二月中」のその通りに、その存在によって「正月」「二月」などになる)。したがって、もし中気を含まない月が生じた場合には、月名を付けることができなくなるため、その月は閏(うるう)月とされた。


※「月切り」と「閏(うるう)月」について

●月の大小
月の地球に対する公転の長さは平均29.530489日(朔望(さくぼう)月)なので、約0.5日の端数が生じる。この端数を処理するためには、29日の「小の月」と30日の「大の月」とを繰り返せばほぼ満足できるのだが、33.3か月ごとに一日分の誤差が生じてしまう。そこで、「大小大小大小・・・・・」という組み合わせを33か月(2年と9か月)続け、それに一回の「大の月」を重ねることでほぼ解消できる。
つまり、この周期の終わりに「大大」と二か月「大の月」を重ねる方法を「連大(れんだい)」といい、実際の月の朔望(さくぼう)に暦月を合わせるための調節を行った。このやり方を「平朔(へいさく)法」といって、中国では唐の時代まで用いられた。


◆定朔(ていさく)法
しかしながら、実際の月の運動は不規則で、秋から冬にかけては遅く、春から夏にかけては速いため、「平朔法」では、朔(さく)や望(ぼう)などがずれることが起き、日食が月の1日ではなく、月食が月の15日か16日でない日に起こったりもすることになる。その後、天文学の発達とともに、暦月の大小の組み合わせを複雑にすることによって、月の実際の朔望に暦を正確に合わせる「定朔(ていさく)法」が取られるようになる。


●置閏(ちじゅん)法
太陰暦の一朔望(さくぼう)月は平均29.530589日であるから、その12か月である1年は354.367068日となる。この日数は1太陽年(365.2422日)に比して約11日(10.8752日)短い。いいかえれば毎年約11日ずつ暦日が進むことになる。つまり、11日ずつお正月が早くやって来ることになり、16、7年も経つと真夏に新年を迎えることになってしまう。このようでは農耕その他の社会生活に不便を生じてしまうことになる為、ほぼ3年毎に閏月(うるうづき)を設けて、暦と季節とのずれを補正した。


◆十九年七閏法
紀元前六世紀頃の中国では、19年に7回の閏月を置く「十九年七閏法」が発見され、19年を1章としたところから「章(しょう)法」と呼ばれた。ギリシアでは、西暦前5世紀のアテネの天文学者メトンが提唱したとされて「メトン法」と呼ばれた。
中国では、「章法」が正確に運用されている証として、章の始めの11月朔(1日)が冬至と重なる「朔旦(さくたん)冬至」という現象が起きることになっていて、宮廷において祝賀の行事が催された。日本では、桓武天皇の延暦三年(784)以降にその記録がある。


◆破章法
一九太陽年=二三五朔望月=一章とする「章法」が、中国では約一〇〇〇年間にわたって用いられた。但し、章法では端数が無視されているために、冬至や春分といった暦象は一九年ごとに二時間ずつずれていくことになる。よって、章法に従わない暦法、すなわち一九太陽年と二三五朔望月を等しいとみなさない暦法である「破(は)章法」が南北朝時代から唐の時代にかけて採用され、一年の長さを少しずつ実際に近づけていきました。




●「平気法」と「定気法」

◆平(恒)気法
単に一太陽年を、冬至から始めて時間的に二十四等分し、その分点に二十四節気を配した。これを「恒(平)気法」という。この方法だと、地球の公転軌道が楕円であり、運行する速度も一様ではないことから、春分・夏至・秋分・冬至は、天文学上の実際と一致しなくなる。

◆定気法
明代末以降、中国に西洋天文学・暦学が紹介されるようになると、清朝の時憲(じけん)暦からはケプラーの法則が採り入れられ、太陽の黄道上の春分点から、黄経(春分点と太陽との角度)を十五度ずつの二十四等分に分け、太陽がこれらの分点を通過する瞬間を二十四節気に配するようにした。これを「定気法」という。この定気法では、各節気間の時間は等しくないが、暦面上の春分・夏至・秋分・冬至と正しく一致することになる。


※「節切り」と「閏(うるう)月」(置閏(ちじゅん)法)について 
古い時代には年末に閏月を置いたが、二十四節気が用いられるようになると、中気を含まない月を閏月とした。

「平気法」では、「節」から次の「節」まで、「中」から次の「中」までの日数は、15.218日と各気の間隔はいつも同じで、「節月」(30.44日)が「暦月」(30日、又は29日)より長くなるため、中気を含まない月が生じることになる。この月を閏(うるう)月とした。

「定気法」では、1節気の間隔は約14.72日から15.73日の間を移動するようになり(近日点〈一月二日頃〉に近い頃は間隔が短く、遠日点〈七月六日頃〉に近い頃は間隔が長くなる)、暦の上の1か月の中に、中気が2つ入ったり、中気がなくても閏(うるう)とはならない月が生じたりする。

そこで、現行の暦法(天保暦)では、春分は必ず二月に、夏至は五月、秋分は八月、冬至は十一月に配されるようになっていて、閏(うるう)月はこの規定に反しないように挿入される。


[199] ●『柔道一直線』の奥松島ロケ Name:道開き Date:2014/09/02(火) 07:45 
下の書き込み[198] ●「風祭(かざまつ)り」に続きます。

そう言えば、よくよく思い出してみると、『柔道一直線』のロケが当地で敢行されたことがありました。第何話だったかは分かりませんが、櫻木健一さん演じる一条直也と“みちのくのハリケーン”こと陸奥高校柔道部の某(名前は忘れた)との間で、「月浜海岸の決闘」が行われた回です。

野蒜海岸にもロケ隊がきて、ミキっぺ役の吉沢京子さんや弟の三平役の子役さんと地元の子ども達との間で交流がもたれたということでした。後でその話を聞いて、非常に羨ましい思いをしたことを記憶しています。

覆面レスラーのような外人柔道家が出て来たり、ピアノの上で「猫ふんじゃった」を足のつま先で演奏する柔道家がいたり、毛布一枚を身にまとって神社の階段を転げ落ちる「地獄車」の練習をしたり、投げられてもブーメランのように返ってきたり・・・・つくづく凄い番組だったな〜と思います。ほとんど仮面ライダーの走りをいっていた観があります。


[198] ●「風祭(かざまつ)り」 Name:道開き Date:2014/08/21(木) 10:59 
子どもの頃に夢中になって見たスポ根・青春ドラマ『柔道一直線』の中に、大豪寺虎男や、近藤雅臣さんが演じた結城真吾ほどは有名ではないが、風祭右京という人物も登場していた。役を演じた佐々木剛さんは後に仮面ライダー2号役も演じている。
このドラマで初めて「カ・ザ・マ・ツ・リ」の語を知ったような気がする。それ以降はあまり耳にした記憶がないので、気象観測技術の著しい進歩もあってのことなのか、かなり死語になりつつあるようにも思われる。




●二百十日(にひゃくとうか) 

立春から数えて二百十日目の日で、新暦の9月1日頃。
稲の開花期に当たり、台風の襲来を警戒すべき厄日とされている 。「二百十日」が暦に初めて記載されたのは明暦二年〈1656年〉の伊勢暦からで、官暦に記載されるようになったのは渋川春海が編纂した貞享(じょうきょう)暦〈1684年〉からとなる。

この時期には全国各地で、「風祭(かざまつ)り」「風日待(ひま)ち」「風祈祷(きとう)」「風鎮(しず)め」といった神事が執り行われる。「越中おわら節」で有名な富山県八尾町の「風の盆」も風祭りの一種である。



●二百二十日(にひゃくはつか) 

立春から数えて二百二十日目の日で、新暦の9月11日頃。
「二百十日」と同様に、台風の襲来を警戒すべき荒れ日とされ、風祭りが行なわれる。「二百十日」よりむしろ「二百二十日」の方を警戒する必要があるとしている気象学者もいる。




※参考

◆雑節

「二十四節気」「五節句」を捕足して、季節の移ろいをより適確に把握し、伝えるために用いられた。「節分」「彼岸」「社日(しゃにち)」「八十八夜」「入梅」「半夏生(はんげしょう)」「土用」「二百十日」「二百二十日」の九つがある。(「初午(はつうま)」「中元」「盂蘭盆(うらぼんえ)」「大祓(おおはらえ)」を入れる場合もある)

雑節の中には、「土用」や「社日」のように中国に起源をもつものと、「八十八夜」「二百十日」のように日本独自のものとがある。いずれも農業や日常生活の目安として暦に定着している。

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