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[264] ●「九星」− 三島由紀夫の場合 A Name:道開き Date:2016/08/10(水) 17:26 
幕末から明治期にかけて活躍した神道家・本田親徳の「霊学」において、霊媒に憑依している神霊、人霊、自然霊などの何らかのモノから話を聞き出す際には、審神者(サニワ)となる者が自分の身に神気を集めて、その神気を霊媒に注ぎ込まなければなりません。その時に称え続けられるのが、『古事記』の冒頭に出てくる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の御名となります。

自分の経験から言うと、“産土(うぶすな)の大神たち”でも、“八百万(やほよろず)の神々たち”でも、“○○神社の大神たち”でも同様の結果が得られるようにも思われます。何れも天御中主神から派生した神気であることには違いないからです。但し、微妙な使い分けが必要なのも確かなようです。

その際に最も問題としなければならないのは、審神者(サニワ)を務める神主の「信仰心だったり、学識だったり、どのような気持で行なっているか」だと考えられるのです。
最も恐れるべきなのは、力のない神主が、安易にそういったことを行なって、魔物化した憑依霊に振り回されて、手の施しようのない、どう仕様もない状態になってしまうことです。

だから憑依霊には出来るだけ話をさせたりしないで、ご神前における御祈祷によって、一切を神様に委ねた形でお祓いを行なった方が良いのです。初めから神霊や憑依霊に話をさせる目的で行なわれる「鎮魂帰神法」などは、危険極まりない“禁じ手”ということになります。「コックリ(狐狗狸)さん」や「ウィジャ盤」の危険性と同様なものがあります。

生まれながらの霊媒体質の方が、何らかの経緯で霊に憑依されたのとは異なり、そういった事を行なって呼び込んでしまった場合の霊というのは、危険極まりない凄まじいモノがやって来る恐れがあるからです。霊の世界では距離の遠近は全く関係ないのです。




ここからは、[258] ●「九星」− 三島由紀夫の場合 − Date:2016/06/03(金) 07:26
の続編です。合わせて「帰神法」の危険性についても記したいと思います。



●三島由紀夫 ( 大正14年 〈 西暦1925年 〉1月14日生まれ)

干支・九星術で見ると、《四緑木星》年「六白金星・丑(うし)」月生まれです。

今日の有名人には、三浦友和、坂本龍一、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)、吉村作治(先生)、長門裕之、山田雅人、ウド鈴木(キャイ〜ン)、東出昌大、賀集利樹 といった方たちがおられます。



※今回は、この中の三浦友和さんと三島由紀夫大人との間の「縁」「星の巡り」について取上げたいと思います。三浦さんは、かつて映画『226』(1989年、監督・五社英雄)において、二・二六事件に深く関わった皇道派の安藤輝三大尉役を演じました。

三島由紀夫大人は、二・二六事件を題材にした『憂国』『十日の菊』『英霊の聲(こえ)』という3つの作品を残しています。



以下に、インターネット上にある「三島由紀夫と二・二六事件について」の関連記事を記します。


1966年(三島由紀夫の割腹自決の四年前)に発表された『英霊の聲(こえ)』以後の三島由紀夫の作品は、それ以前とはあきらかに作風が変化した、と多くの評論家・友人らが指摘しています。
 この作品の内容ですが、「帰神(きしん)の会」〈降霊会〉に列席した主人公が、そのとき起こったことを記録したという体裁をとって、二・二六事件と神風特攻隊の兵士たちが次々と霊として下りて来て呪詛する模様が綴られていきます。
 
‥‥利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人を走らせ
もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪(よこしま)なる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)わず
いつわりの人間主義をたつき(=生計)の糧となし
偽善の団欒は世をおおい
‥‥魂は悉(ことごと)く腐食させられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおおいかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく‥‥
ただ金よ金よと思いめぐらせば
人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき‥‥
烈しきもの、雄々しき魂は地を払う‥‥
天翔るものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし


二・二六事件の際の天皇の振舞いと、終戦後の「人間宣言」で、天皇が「人間」になってしまったのを、兵士たちの霊が恨み、憤る言葉が語られ、そのあまりに強い怨念の霊の力を受け止めたために、霊媒師の青年・川崎重男が息をひき取るところで本作は終わります。

この作品自体の異様さは、今までの三島文学の「らしさ」が全然ないことです。他の仲間の文学者たちからも、「作品の死者たちの言葉が陳腐で定型的な文章であり、激烈な表現を用いながら、そこに文学者としての三島由紀夫の心が少しも入っていない。まるで、誰か他人に書かせられた“お筆先”という感じである」などの指摘があります。



★エピソード〔1〕

 何より作品を書き上げた直後に三島自身が、母に「夜中にこれを書いていると二・二六事件の兵士の肉声が書斎に聞こえてきて、筆が自分でも恐ろしくなるように大変な速さで滑っていって、止めようと思っても止まらないんだ」などと語り、それを聞いた母がぞっとしたとのこと。

 「 怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、公威(三島の本名)に何かが憑いている様な気がして、寒気を覚えた」と語っている。

(平岡倭文重『暴流のごとく―三島由紀夫七回忌に』(新潮 1976年12月号)



★エピソード〔2〕

さらにはこんな話も。
三島由紀夫の父、平岡梓氏の書いた『倅(せがれ)・三島由紀夫』によると、ある日自宅で開いたパーティーでのこと、美輪明宏さんが突然、「三島さんの背中のところに変な人影が見える、二・二六事件の関係者らしい」と言い出し、三島由紀夫がからかい半分にその関係者の名前を片っ端から十数人あげて、「この男か、この男か」とやつぎばやに尋ねても、「違う、違う」という返事。
そのうちに「磯部浅一」の名をあげると、美輪さんは「それだ!」と答えたので、瞬間、三島由紀夫の顔色がサッと変わって青ざめたという。


文芸評論家・多摩美術大学名誉教授の奥野健雄は、『英霊の聲』を読んだ時、三島が磯部浅一の霊に憑かれていたのではないかと感じたという。というのも、1959年(昭和34年)7月29日に三島宅に奥野夫妻、小説家の渋澤龍彦夫妻、藤野友一夫妻が招かれて、皆で「コックリさん」をやっていた時に、三島が「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と大真面目の呟いたことを述懐している。


1970年(昭和45年)1月1日に三島宅で行われた新年会で、丸山(美輪)明宏が「磯部浅一の霊が三島に憑いている」と言ったのを、女優で詩人の村松英子が聞いたという。



※磯部浅一という人物

二・二六事件の実質指導者で首謀者として銃殺刑を受けている人物。処刑の前、獄中での磯部は狂乱し、軍の幹部らを呪ったと言われている。

「余は死にたくない、も一度出てやり直したい、三宅坂(注・陸軍省のある場所)の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる、死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい」

「天皇陛下 何と云う御失政でありますか 何と云うザマです、皇祖皇宗に御あやまりなさりませ」などと、天皇はおろか明治天皇、皇祖神、天照大神にいたるまで叱り、呪っている。

「千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。死ぬる事は負ける事だ。成仏することは譲歩することだ。死ぬものか、成仏するものか‥‥。」「悪鬼となって所信を貫徹するのだ‥‥。予(よ)は祈りが日々に激しくなりつつある。予の祈りは成仏しない祈りだ。悪鬼になれるように祈っているのだ。‥‥必ず志をつらぬいて見せる。」

(「獄中手記」より)

この恨みは、日本の三大怨霊と言われた平将門、菅原道真、崇徳天皇をも彷彿させる。

映画『226』では怪優、竹中直人さんが磯部浅一役を演じていました。竹中さんは一生、行く先々の神社でお祓いを受け続けた方がよいと思います。



★エピソード〔3〕

三島由紀夫著『英霊の聲』の中には、帰神法を行う場面に岩笛(いわぶえ)の音に関する記述があります。ストーリーは、石笛を吹くと、盲目の青年が神懸りとなって二・二六事件で刑死した将校や、特攻隊の兵士が歌いだすという物語。
三島のこの帰神法に関する記述は、一時期、大本教に籍を置き、後に神道天行居(てんこうきょ)を創始した神道霊学家・友清歓真(ともきよよしざね)の『霊学筌蹄(せんてい)』を参考にしている。

以下抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・
岩笛の音は、聞いたことのないひとにはわかるまいが、心魂をゆるがすような神々しい響きを持っている。
清澄そのものかと思うと、その底に玉のような温かい不透明な澱みがある。肺腑を貫くようであって、同時に春風駘蕩たる風情に充ちている。
古代の湖の底をのぞいて、そこに魚族や藻草のすがたを透かし見るような心地がする。
又あるいは、千丈の井戸の奥底にきらめく清水に向かって声を発して戻ってきたこだまを聞くような心地がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・






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※参考   

●本田霊学

神伝により、幽冥には正神界と邪神界があり、上・中・下の品位がそれぞれにあるという。この【帰神法】は良質の神主と審神者が必要で、未熟だったり、自己の利益のために行うと、それに相応した低級霊が降りてくる。低級霊はもっともらしいことを言って騙すことが上手である。よほどの技量がないと憑ってきた神霊に振り回されることになる。

 多くの神道系教団も同様で、教団初期の段階では【帰神法】的なものを行っていたが、その弊害が出てしまうため、後には【鎮魂法】だけにとどめるようにしているところが多いとされる。



◆鎮魂法

鎮魂とは、

@ 「日常的な霊魂の訓練のようなもの」

A 「帰神=憑霊のための準備的行法」                        

B 「自他の霊魂を外部の物体に憑依集中させること」

C 「自己の霊魂が天御中主神のもとに至ることによる神人感応」

と説く。(Cの場合は憑霊よりもむしろ脱魂に近い。神が自分の霊魂を草木に付けることも鎮魂であるとしている)




★鎮魂石

直径5、6分くらいから1寸内外の活き石に自分の霊魂の集中することを凝念すること2、30分の鍛錬を行うとよい。鎮魂に力がついてくるという。




◆帰神法

◎自感法 ― 自分一人で神霊に感合する。

◎他感法 ― 審神者(サニワ)がいて、神主(霊媒)がいて、琴師がいる。 
(本田はこの琴師を略し、審神者が石笛を吹くをもって代用した)    

◎神感法 ― 人の意思にかかわらず神の意思で忽然と憑ってくる。

・この三法がさらに有形、無形、上中下に十八法に細分されるという。




★霊界の区分

・正神に181階級あり、邪神もまた同じ181階級あるという。

・「精神正しければ即ち正神に感合し、邪なれば即ち邪神に感合す。精神の正邪賢愚は直ちに幽冥界に応ず。最も戒慎すべし」としている。



★「審神者」の重要性

【帰神法】を一人で行うことは未熟な人の場合、邪霊などが憑ってくるので危険であり、そのため、その憑りきたるものの正邪高下などを判断し、場合によってはその霊を祓うことのできる力を持つ審神者がいて行う「他感法」を親徳は重視する。

「帰神に重要なるは審神者とす。其人に非ざれば即ち能わざる者なり」とし、審神者は「注意周到にして胆力あり、学識ありて、理非を明らかにするに速やかなる」人でなければならぬと記している。特に、神典 (『古事記』『日本書紀』)などを読んでいることが肝心だという。



●産土百首

本田親徳は又、和歌によって自己の神道説を展開しています。産土論を歌にした『産土百首』や、直霊(なおび)、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の「一霊四魂(いちれいしこん)」の働きについて詠んだ『霊魂百首』等が残されている。


○産土(うぶすな)に 生まれ出つつ 産土に 帰るこの身と 知らずやも人

○産土の 神祈りして その後に 天地の神は 祈るべきなり

○眼の前に 産土の神 立ちまして 魂の善し悪し 見たまふものぞ

○各々の 胸腹内に 産土の 神隠れます 恐れてよ人

○ただ頼め 産土神を ただ頼め ただ今の世も ただ未来の世も

○前の世も この世も後の 世のことも 産土神ぞ 主宰ります



◆参考図書

『本田親徳全集』 鈴木重道編 〔八幡書店〕

『鎮魂行法論』 津城寛文著 〔春秋社〕








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※参考   


★神憑りの歴史

●古典にみられる「帰神法」と「審神者」

先ずは、『神道事典』に載っている「審神者(サニワ)」の説明を記してみる。
「サニワ」は「清場(さにわ)」の訳で、本来、神を祭り託宣をうけたまわる為に忌み清めた場所「沙庭(さにわ)」を指す。
その斎場の意味から転じて、沙庭において神託をつかさどり、神意を判断する者、また斎場にあって琴を弾く者の意となった。転じて神楽で和琴を弾く人も「さにわ」と呼ばれた。

・『古事記』中巻の仲哀(ちゅうあい)天皇の条に、天皇が御琴を弾き、神功皇后(じんぐうこうごう)を神主(かんぬし・神の憑かられる台となる人)とし、武内宿禰(たけしうちのすくね)が沙庭(さにわ)となって神の命を請うたとある。

・『日本書紀』神功皇后摂政前紀には、皇后が神主となり、武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を喚して審神者としたことが載っている。


●中世の修験道における“神憑り”

修験者の「憑祈祷(よりぎとう)」と木曽御岳行者の「御座(おざ)立て」とは、ほぼ同じタイプのものであり、“修験者”や御岳教の“前座(まえざ)”者が、「精霊統御型のシャーマン」に当たり、“憑人(よりびと)”と御岳教の“中座(なかざ)”者が「霊媒型のシャーマン」となるのだろう。
天理教の中山みき、金光教の赤沢文治は、この「憑祈祷」が召命の契機となった。

しかし、かなり効率が悪かったらしく、やっと憑ってきた神や霊も、「ア〜」とか「ウ〜」とか唸る程度で、はっきりと物事を語りだすといったケースはかなり少なかったようだし、イカサマも多かったという。


●本田霊学における「帰神法」と「審神者」

古えの神典、古書に見られた「帰神法」を復興させたとされる、江戸期から明治期にかけて活躍した神道家で、某諏訪神社の宮司を務めていた本田親徳(ほんだちかあつ)。その“霊学”においては、「帰神法」を行った際に、憑ってくる神や霊の正邪を判断し、正しく教導する役目の者を「審神者」と定義する。

審神者は誰でもすぐになれるというものではなく、一定の修養を終え、体力気力ともに充実し、確固たる信仰心をもった霊的権威者でなければならない。
審神者は、記紀(古事記、日本書紀)などの日本の古典や神典はもちろん、諸仏典、さらに霊学の奥義に通暁していることが望ましいとされる。


●大本教における「鎮魂帰神法」と「審神者」

本田親徳には数百人の門人がいたという。その中でも法術の允可(いんか)を受けたのは、明治政府で大臣も務めた副島種臣、そして、三輪武、鈴木広道、長沢雄楯(かつたて)の四人である。大本教の出口王仁三郎はそのなかの一人、長沢雄楯から「帰神法」と「審神者学」を学んだ。

長沢雄楯は、静岡の浅間神社に設けられた中教院で国学と神道を修学した後、県社御穂神社の社掌に任ぜられた18歳の頃に本田親徳の門下となった。その後、長沢は、不二見村の月見里 (やまなし)神社も主管していたため(同社は別称を御笠稲荷神社といった)、この神社を本田霊学に基づく鎮魂帰神術の道場にしようと考え、静岡県の許可を得て、同社を総本部とする御笠稲荷神社講社を設立している。多いときには千数百人の門人をかかえたらしい。  

出口王仁三郎は、この長沢雄楯から学んだ本田霊学の「帰神法」を、誰でもが簡単に行えるように改良を加えて、その効率を高めた。今で言う一般人向けの「帰神法」のソフト化をはかったのだ。現在の神道系教団の多くは大本教の分派である。


★★★ 「鎮魂帰神法」の実際 ★★★

@審神者(サニワ・術者)は正座し、印(審神者の印)を結ぶ。〈よくテレビなどで、忍者が巻物を口に咥えて、指を組んで印を結んでいるシーンが観られるが、あの様な指の組み合わせとなる〉

Aその状態で、審神者(サニワ・術者)は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を念ずる。
そうしていると、審神者に神霊(神気)・・・天御中主神の稜威(みいづ)が集まってくる。
〈必要に応じていくらでも補給できる。〉

B審神者(サニワ・術者)の身に受けたる神霊を、被術者に向けて矢の如く放射する。審神者より霊を補充してやるのである。
〈この時、被術者も印を結んでいる。(神主の印)〉

Cこのことにより、被術者の霊が充実してくる。

D被術者の霊の充実により、憑依していた後天的憑霊が居たたまれず、表面に飛び出してくる。
〈守護霊というのは、憑いているというよりも、神様の命を受けて遠く近くで見守っていて下さる正しい霊のことであって、憑依霊というのは、その人の霊体内にリアルに入り込んでしまっている、ごくごく身近に存在している居場所を誤っている霊体のこと〉

E審神者は憑依霊を問い正し、除霊して、向かうべき処へとみちびいてやる。

★よくよく考えてみると、自分で自分に対して施術した場合を想定してみると、「鎮魂行」だったり、「自祓い」「禊(みそぎ)」なんかとも同じであると考えられる。われわれが日々行っている「お祓い」なんかは、他者に対する施術の場合とほぼ同じ原理に思えるのだが・・・・いかがなものか。

結局のところ、肝心なのは施術者の“鎮魂力”となるのであろう。


◆◆◆ 審神者の実際 ◆◆◆

“真の審神者(サニワ)”には「その背後に神力の助けがある」ので、どんな守護神をも発動させる特権が与えられているという。

よって、神や霊がどうしても帰順しなかったり、凶暴に振る舞ったり、強圧的な霊力で審神者に逆襲してきた場合、審神者は「正神界の神の守護を祈りながら」、権威を持って誘導したり、なだめすかしたり、叱責したり、霊縛したりするなどの救済の道を尽くすのであるが、それでも無理な場合は強制的に元に戻すこともある。

大本教の「鎮魂帰神法」は、慎重にさえ行えば、憑依している邪霊なども教化され、その結果、心身共に健全になるという。また、霊覚が開けたり、神通力のような力がついたり、予言的な言葉を吐くような場合も多々ある一方、神憑り状態でおかしくなるような者もあったという。

審神者役にしても、いったい誰がその大役を務めることができるのかという問題もあって、中止の運びにいたったと言われている。正しい神霊が憑依すれば正しい霊言を伝えるとされるが、邪神界系でも力を持った神であればあるほど、正神界の実相をも洞察する力があるため、ベテランの審神者ですら瞞着させられる場合があるという。


[263] ●「縄文・弥生」の言霊・・・ Part3  Name:道開き Date:2016/08/03(水) 16:52 
[261] [262] に続きます。
東日本大震災の半年前の当掲示板への書き込みです。


●当社で見られたという“精霊”の話〈平成22年8月〉

この夏(8月7日の夜)、白鬚神社の拝殿右脇に立っていた樹齢400年にもなる松の大木が倒れた。竜巻だとか、ダウンバーストなどによるものではなく、木の内部に洞(ほら)が開いていたことによる自然倒壊であった。
この木に関係していたと考えられる“精霊”の話を記します。だいぶ以前にも記した内容ではありますが、鎮魂の意味も込めて再度書き込みます。



◆第一話 「9人の人を殺めたと語る霊に憑かれた少年」     投稿日:2002/01/24(Thu) 08:32  

仙台の某神社から紹介されたという19才の少年から電話が入った。昨年の暮れから、自らが“9人の人を殺したと語りかけてくる霊”が、体の中に入り込みどうすることもできずにいるとのこと。少年の手を使用して文字を書いたりもするらしい(自動書記)。いろいろ話を聞いて、それなりの対処法を教えていたところ、突然、電話口にその男(霊?)が出て来てしゃべり出した。「俺はこいつから決して離れないからな」と、少年と全く別人格の口調で話す。こちらも突然だったので、一瞬たじろいでしまったが、直ちに “三種(みくさ)祓い詞”を唱えて対抗したところ、その霊らしきモノは大声を張り上げて藻掻き苦しみだした。

その少年は、元からの霊媒体質で、ここのところあまり誉められた生活を送っていなかったらしい。一月ほど前に、遊び友達と「俺は、人を殺したヤツとも仲良くやっていける自信がある」などと話し合ったりした後、朝方の4時頃に帰宅した際、「オレは9人の人を殺したのだ」と語りかけてくる霊が、体の中に入り込んできたという。そうして暫くの間は、どういった霊に憑かれているのかも判らないままに、この霊と共に力を合わせて人助けをするのだくらいに考えて、高を括っていたらしい。是非ともお会いして、この憑いている霊の話を聞いて欲しいと云う。

翌日、その少年と直に会うことを承諾する。
何よりも神社の社殿を汚したりすることだけは嫌だったので、神社の鳥居の前にベンチを移動し、四方に御幣(ごへい)を立てて結界を作り、“白鬚さま”に御守護を強く祈願した後に“審神(サニワ)”を行った。

「出てきなさい」とその少年に憑いているという霊を呼びだしてみると、少年の顔の表情が突如として般若(はんにゃ)の顔に変わった。というよりも、歌手の泉谷しげるさんが「なんだ、この野郎!」と周りの人たちを脅かしている時の顔に似ていて、それほど恐ろしいものではなかった。あれこれ質問してみると、その霊は「地獄の苦しみに耐えられなくて、この少年に憑いて楽な思いをしているのだから、決して離れない」と言い張る。

「その様な行いは神様の道に反するものだから、速やかに出て行きなさい。さもなくば天罰が下るぞ。天罰は本当に恐ろしいものだぞ」と言って聞かせると、その霊は、キョトンとした表情で、「天罰が何なのか解らない」と言う。“天罰”という語の意味が理解できないというのだ。
この霊は、人霊ではなく何らかの“モノ(精霊)”だなということが、そういったやり取りをして行く内に直ぐに判ることが出来ました。以前にも、人に憑いたキツネと言葉を交わした経験が何度かあって、今回も同様にその言動には繊細な情が感じられず、非常に漫画チックで、アニメのキャラクターと話しているかの様な感じを受けたからだ。

「天罰とはこういうものだ」と、“三種(みくさ)祓い詞”「トホカミエミタメ トホカミエミタメ・・・祓い給い 清め給え」を唱えながら、指先から“神気”をその霊に向けて放射したところ、その霊は「苦しい、苦しい」と、ヨダレをダラダラ垂らして藻掻き苦しみ出しました。神気を浴びて苦しんでいるということは、やはり、あまり質(タチ)の良い“モノ”ではないなということが解ります。
そうして十分に天罰を与えた後、その霊に退くように命じて少年自身を呼び出したところ、直ちに元の少年に戻った。

その後、再び少年から話を聞きました。少年は、仙台にあるK小学校で教鞭を執る先生の御子息で、高校を卒業してからこの方、毎日遊び回っていたということでした。
本人は、「その霊を祓い出したくない。自分の心が成長していくのと同時に、その憑いている霊を改心させたい」と語ります。中学生の頃に読んだある宗教の本にそういった内容が書いてあったのだそうです。一刻も早くお祓いしてくれるよう懇願されるケースが普通なのですが・・・・・

取りあえず、祈祷した「お札」と「お守り」を渡しておきました。悪霊の仕業だったらこれで終息して行く筈です。多重人格症という場合も考えられたので、少年の父親に電話をし、精神科で一度診察してもらうようにと話しました。

その後、少年から電話が入り、お祓いを受けた3日後に、憑いていた霊が自ら進んで身体から離れていったという連絡を受けました。御守を受けた当時は、「この中にはお前を殺そうとしているものが入っている」と言って、御守袋の中の御神体の部分を投げ捨てるように言って聞かなかったそうです。
その内に諦めたようで、少年の父親に対し、「9人の人間を殺したというのはウソだった」と詫びて、自分から出て行ったのだそうです。今日まで連絡しなかったのは、また戻ってくるかもしれないので、そのことを確認してからと少年が考えたからだということでした。



◆第二話 後日談     投稿日:2003/06/04(Wed)15:59  

昨年の年の瀬も押し迫ったある日のこと、その少年から電話が入りました。「この1月以降、悪霊に体の中に入り込まれることはなくなったのだけれども、まだ身の周りにそいつがいるみたいで、今月に入ってから、ドアが勝手に開いたり、風呂場の蛇口が勝手に止まったりするといったポルタ−ガイスト現象が起こっている」とのことでした。
「以前の霊か?」と訊ねたところ、「まちがいなくあの霊です」とその少年は言います。
「お正月に白鬚神社にお参りしたいと思うのですが、もう一度、御神前でお祓いと御祈祷をしてください」とのことでしたので、とりあえず承諾しました。

そして、数日が過ぎ、正月の元朝の午前4時頃にその少年はやって来ました。つき合っているという彼女と一緒でした。今年は温かい元旦でしたが、それでも初日の出前の時間帯には−2、3度まで気温は下がっていた筈です。そんな寒さの中、仙台からバイクでやってきたそうです。彼女はミニスカ−トでしたので、バイクの後部座席でまともに風を受けてきたのでしょう、足がまるで風呂上がりのように真っ赤になっていました。若者だな〜と、ついつい思わずにはいられない二人の姿がそこにはありました。

「S君、無事に就職できて良かったな〜」と言葉を交わした後、すぐに御神前で「大祓詞」を唱え、御祈祷を執り行い、新たな御神符とお守りを渡しました。彼女にもかわいらしいピンクのお守を手渡してやりました。

それから三ヶ月ほどが過ぎたある日、こちらからその少年に電話をして近況を確かめてみました。元旦の祈祷を受けた後は、ポルタ−ガイスト現象は全く治まってしまったとのことでした。
ただし、他に多少の変化もあったようでした。霊に憑かれたりするということではないのだが、一緒に来た彼女が、お正月の祈祷を受けて以降、霊能が開けてしまったらしく様々なものが見えるようになってしまったというのです。たった一度、それも付き添いで御祈祷を受けただけなのに。

おそらくは、バイクに乗って寒気を浴びて来た状態が、ちょうど禊(みそぎ)をして来たのと同じ状態になり、そのままご神前に額ずいたことにより、霊道が開けてしまったのではなかろうかとも考えられます。・・・本当に、見えない世界は“不可解”な事が多いのです。



◆第三話 老木の恩返し〈参考〉   投稿日:2004/05/21(Fri) 09:50  

近々、境内にある樹齢400年になるかとも思われる松の老木の治療をする予定でいます。幹に傷がつき、そこに雨水が入って、長い年月の間に空洞を作ってしまいました。
治療方法はというと、空洞を“炭”でいっぱいに満たして、口をセメントと粘土を捏ねたもので塞ぐという、県内某大社の専任樹木医さんのアドバイスによるものです。

神道では、この世のすべてのものを神さまと見ます、又は、神さまの顕現されたお姿と見ます。つまり、典型的な“アニミズム信仰”なのです。
よって、我々が日々の神明奉仕において唱える『大祓詞(おおはらいし、おおはらへのことば)』の中の一節に、以下のようなくだりがあります。

「語問ひし  磐根  樹根立  草の片葉をも  語止めて・・・」
(こととひし いわね きねたち くさのかきはをも ことやめて)

岩も木も草も、コミュニケ−ションを取り合っているというのです。

以前、あるテレビ番組で見たのですが、樹木医と呼ばれる職業は日本で生まれたそうです。その先駆けとなった人物を特集したものでした。
その方の名前は忘れてしまいましたが、「自分が不健康なときは、以前に治療した樹齢数百年にもなる老木の葉っぱを“お守り”代わりに身に付けていると、遠くにあるその老木が治してくれるのだ」という語りが非常に印象に残りました。

この世の総てのものは繋がっているのだから、その方の思いに対し 、老木の精霊が以前の治療に対する御礼として、感応して守ってくれる 。遠隔治療をしてくれるというのです。木も樹齢100歳を越すと、樹木医である自分に夢や何かでコンタクトしてくるのだそうです。



◆「となりのトトロ」    投稿日:2005/02/26(Sat) 19:43

宮崎アニメの代表作と言っても過言ではないでしょう。“トトロ”って、樫の木の精霊なのでしょうか、ビデオを借りてきて確認の為に見てみましたが、恐らくはそうなのでしょう。古いお稲荷さんの祠(ほこら)の脇にある樫の大木に住んでいるようです。

例の少年、現在では県内でも有名な某ホテルの板前として、立派な社会人としての生活を送っているようです。
彼は、あのとき以来、様々なものが見えたり聞こえたりするようになっているとのことです。ある日の夕刻、黄昏時に、お寺で育てられたという、やはり生まれつき霊感の強いという、以前とは異なる彼女を伴って当社まで参拝に来たそうです。

薄暗くなっていて辺りの景色はハッキリとは見えなかったといいます。拝殿前の鈴を鳴らして手を合わせようとしたところ、お賽銭箱の前に、巨大な頭のキツネの様な、オオカミの様な“モノ”が居て、でっかい口を開けて二人を見ていたのだそうです。二人は驚いて、恐る恐る、そっと後ずさりをしながら、その場を離れたということでした。

車に戻ってから二人は、自分たちが目にした“モノ”のことを確認し合ったといいます。
「今、変なのが居たよナ!」「大きく開けた口の、右側の奥から二番目の歯から、血みたいのが出てたよな・・・」
「うん」・・・

二人はそのまま仙台のアパ-トに帰ったと言います。すると部屋の中まで、その大きな頭の“モノ”がやって来て、「デングリ返っこして遊ぼ!」と言いながら、二人に甘えてきかなかったそうです。二人がそのまま無視していると、やがてその大頭の“モノ”は諦めて帰って行ったということでした。

後日、二人で当社にお参りに来た際にその話が出ました。
「神主さん、あれはいったい何だったのでしょうか」
「恐らく、神社に住みついている精霊のようなものでしょう。もしかしたなら、この古い松の精霊かもしれませんね。昨年、大きく空いた洞(ほら)の治療をおこなったばかりです。二人が、自分の存在を知ってくれたので、嬉しくて仕方が無くて、アパ-トまで追いかけて行ったのかもしれませんね。でも、神様のお側にいる“モノ(精霊)”だから悪いものではないので、全く心配する必要はありませんよ」と話して聞かせました。


[262] ●「縄文・弥生」の言霊・・・ Part2 Name:道開き Date:2016/07/23(土) 07:27 
以下は、大分前に、当サイトの「白鬚神社」メニューの「掲示板」に記したものです。



●[131] 「トホカミエミタメ」 投稿者:道開き 投稿日:2005/06/27(Mon) 15:26

どんな意味の言葉なのだろうか?
「遠つ神 笑み給え」という説もあるが、ちょっと信じ難い。

この「トホカミエミタメ」という言葉、古えの日本においては、
亀卜(きぼく)や鹿卜(ろくぼく)などの“占い”を行う際に唱えられた言葉とされている。
つまり、「神ながら」の状態(「鎮魂」状態・トランス)」に入境して、“占い”によって見えない世界からの情報を得ようとする時に唱えられた言葉なのである。

そもそも、禁厭(呪い・まじない)の「まじ」は、「交り・混じる」ことで、「是(これ)と彼(かれ)が入り合いて、同一になる」「甲の霊力が乙の霊界に入り合いて同化せしむる」意ともされている。

この言葉、「清め祓い」の儀式を行う際にも唱えられた。
古代より、天皇家の霊性を守り続けてきた「白川神祇伯王家(しらかわじんぎはくおうけ)」の神道・「伯家(はっけ)神道」に伝わってきた“三種祓詞(みくさばらいし)”がそれである。

「吐菩加身依美多女(とほかみえみため) 祓い給い 清め給え」

「トホカミエミタ」に続けて、
「寒言神尊利根陀見(かん・ごん・しん・そん・り・こん・だ・けん) 祓い給い 清め給え」

と唱えると“三種大祓(みくさ・おおはらえ)”となるが、
これは、易の八卦(はっけ、坎・艮・震・巽・離・坤・兌・乾)に基づくものなので、純粋な古神道を志向した復古神道系の神道家らは“三種大祓”を退け、“三種祓詞”のみを重視する。

やはり、「祓い」を行う際にも、「“神ながら”(鎮魂・トランス状態)」に入り込む必要性があると考えられたので「トホカミエミタメ」が唱えられたのであろう。

この「トホカミエミタメ」の唱え言葉、幕末期にはかなり広く世の中で唱えられたようである。当時の、「吐菩加身(とほかみ)神道」の創始者・井上正鐡(かね)などは、「トホカミエミタメ」を唱える“鎮魂行法”まで確立した。現在でも、多くの古神道系の教団では唱え続けられている。

私の場合も、この“三種祓詞(みくさ・ばらいし)”が好きで、なんとも表現できないくらい自分にマッチするので、毎朝の「鎮魂行」を行う際にも、「易占」を行う際にも、「祓い」を行う際にも唱えている。

特に、急激な“ギァ−・チェンジ”を要する場合の「憑き物落とし」の様な祈祷を行う際などには、本当に便利な「唱え言葉」である。一気に“トップ”まで持って行くことができるからだ。

つまり、「トホカミエミタメ」とは「鎮魂」状態に入るための言葉、と考えると理解しやすい。



●[136] 縁は異なもの・・ Part2  投稿者:道開き 投稿日:2005/10/23(Sun) 22:06  

・・・・・・・・・・・・・・・
これまでの経験から言っても、自分の人生を一変させてしまう程の影響力を持つような人、本、音楽、映画・・・との“出会い”といったものはやはりあると思う。よって、「アンテナはいつも高くしておきたい」ものだとも考えている。

例えば、“場所”との出会いだってある。本日、BSの番組を見ていたら、三宅島の小さな祠(ほこら)に手を合わせる山の学校から泊まりに来ていた子供たちの姿が映っていた。三宅島というと、数年前の火山噴火による島民の全島避難が思い起こされるのだが、島民の苦難は現在でも続いているようだ。

二十年以上前になるが、大学三年のとき、三宅島で少林寺拳法部の合宿が行われ、一週間ほど滞在したことがある。その時は、島中をランニングし、海岸で“突き”や“蹴り”の稽古をしたり、夜には“肝だめし”をしたりといったように、ごくごく一般的な大学の体育会の合宿生活を送っただけのように思えた。

ところが、時がたち、現在は東北の片田舎で神主をしている身ではあるのだが、毎朝行っている“言霊の鎮魂行”や“祓い”の際に唱えるようになった「トホカミエミタメ」という「言の葉」(私にとっては極めて重要な言葉)との出会いの下地は、案外、その頃に出来上がっていたのではなかろうかと思われる節もあるのである。

というのは、書き込み〔131〕にあるように、「吐菩加身(とほかみ)神道」の創始者は井上正鐡(かね)なのだが、彼は、江戸時代の度重なる飢饉の中で多くの人々が飢え、たくさんの子供たちが「間引かれ」て行くという社会状況を憂いた。「我一飯を残して 人の飢えを救わん」と発願し、“世直し”思想の布教活動を始めたが、寺社奉行に異端視されてしまい、三宅島に流され、その地で没している。

私的に考察してみると、もともと少林寺拳法というものは、中国の崇山(すうざん)少林寺のお坊さんたちが、易筋行(えっきんぎょう、静の座禅に対しての、動の“行”)として始めたものなのだ。
よって、どやら私、三宅島で少林寺拳法の鍛錬をしているうちに、井上正鐡(かね)のミタマと“シンクロ”してしまったような気がしてならないのだ・・・いかがなものか。


[261] ●「縄文・弥生」の言霊 Name:道開き Date:2016/07/08(金) 07:20 
下の書き込み [260] ●“古代祭祀”と「田の神祭り」 に続きます。

山は、神さまの聖域としてただただ清浄な所という訳ではありません。得体の知れないモノたちが宿っている場所でもあるのです。その為、縄文人は様々な祭祀(さいし)や禁厭(まじない)を発展させてきたと考えられます。

仏教、儒教、道教が伝来する以前の日本の姿を研究したのが江戸期の国学者達です。つまり、「縄文・弥生」の研究者ということにもなるのかもしれません(自分も、国学者の端くれのつもりでおります)。

彼等は、日本の古語(大和言葉)の研究を行いました。その中には「言霊(ことだま)」学者とも呼べる国学者達も多くおりました。そういった古語こそが、私など(ここは神主)が日々行っている様々なお祓いや祭祀にとっての、非常に有用な“力の根源”になっていると考えております。

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※参考@


●「神話」の力、「神名」の力

『古事記』の上巻、『日本書紀』の神代巻に書き伝えられてきた「日本神話」。その中の神々の「御神名」こそが“神道の力”の源なのだと考えられます。さらには、日本、日本人の精神性の根源であるとも言えそうです。
長年、神職をしてきて最近つくづく感じるのは、それらの神々に対し、大和言葉(やまとことば)で奏上する「祝詞(のりと)」の言霊(ことだま)こそが“神主の力”の源なのだということです。


★儒家神道

江戸期の多くの儒学者たちは、神道と儒教とは似たものと捉え、神道の研究もおこなっている。
江戸時代初期の儒者・山崎闇斎(あんさい)が提唱した神道【垂加(すいか)神道】では、朱子学における「理」を、わが国古来の神道の「天之御中主(あめのみなかぬし)神」に当たるとした。そして、その教えを『日本書紀』神代巻にある神々の働きに求めた。道は「日神(天照大神)」、教えは「猿田彦の導」くところだと説く。

彼はアマテラス大御神の御徳義と一体になるためには、一心不乱に神に祈り、微塵の曇りなき心身の清浄をたもたねばならないとし、そうすることではじめて神明に通ずるとした。
これがアマテラス大御神の神勅から採られた垂加神道で特に重んじられた「神垂祈祷(しんすいきとう)、冥加正直(みょうがせいちょく)」の意味。


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※参考A


[197] ●“最驚の憑き物”体験談 Name:道開き Date:2014/07/29(火) 19:51

NHKのBSでお盆近くになると放送される番組に、『最恐 ! 怪談夜話』というのがあります。そこで語られる、作家、文芸評論家、漫画家、俳優・・・といった方たちの生々しい霊体験談の中には、今回取り上げる話とかなり共通した“モノノケ”話もあったりして、「見える人には見えているものなのだな〜」と考えさせられるところが多々あります。今年も放送されるのだろうか?




◆狢(ムジナ)憑きの青年 〈平成某年7月〉

動物学上では、狸(たぬき)と狢(ムジナ)は同じイヌ科の動物とされているようです。西日本などでは、狢(ムジナ)はアナグマの別称とされているようですが、アナグマを狸(たぬき)といったり、狸のことをムジナと呼ぶ地域もあったりと、二重三重に混同されているのが実情のようです。

“キツネ憑き”はこれまでに幾度となく見てきているのですが、最近、初めて“狢(ムジナ)憑き”を経験しました。憑き物にも地域性があるみたいで、四国などでは憑き物といえば、“狸憑き”か“犬神憑き”が主流となるようです。

テレビの時代劇を見ていると、よく、“ムジナの○○”と呼ばれる人物が出てきます。一度取り付いたら、執拗なまでにとことん食らい付いていく気質の人物を形容する際に、この「ムジナ」の語が使われているように見受けられます。「どうして“狢(ムジナ)”という語が、執拗さをあらわすのに使われているのだろうか?」と、多少なりとも疑問に感じておりましたが、今回の経験で初めてその理由を知りました。本当にしつこい質(たち)なのです。

“キツネ憑き”の場合は、おキツネさんが怒り狂って、「どうしてあの様なことをしたのだ」と憑依する原因になった事柄を正すようにと主張してくるケースがほとんどです。ところが“ムジナ憑き”の場合はというと、怒りといったものも感じられず、どうするようにと言ってくるわけでもなく、一見、間が抜けた漫画チックな様子にも感じられるのですが、非常に質(たち)が悪いのです。まるで、人に憑いて弄(もてあそ)ぶことが目的であるかのようにも見受けられます。


三週間ほど前のこと、ある所からの紹介を受けたという二十代半ばの青年が神社にやって来ました。小太りで浅黒く、何となく汚らしい印象を受ける容姿の青年で、話を聞いてみると、だいぶ以前から何者かに憑かれているようだということでした。両脇の下と左右の腰に、背後からしがみ付かれており、背中に手をやるとその憑き物に触れることが出来、特にバイクに乗っている時に、体中(特に脇の下と尻の穴)を舐め回されたり、からかいの言葉を浴びせかけられたりするということでした。

更に、そのような状態にありながら、しきりに、女友だちに対する思いを話してきました。二人の女性との縁が結ばれるようにと、二つの絵馬に願いを記して掛けて行きました。
これは動物霊に憑かれている人に共通する典型的な特徴なのですが、異常なまでに異性を求めます。

話を聞いただけでも、おそらくは「モノノケ」の類ではなかろうかと思われましたが、先ずは、御神前にて御祈祷を執り行いました。
祈祷後、「どうか?」と青年に聞いてみると、「静かにしていますがまだ背中に憑いている」といいます。死霊だったら、神さまに導かれてあの世へと向かっていくはずなのに、そのまま憑いているということは、やはり、何らかの「モノノケ」の類に違いないと思われました。これは厄介なことになりそうだということもあって、その日はある程度の指導をするにとどめ、後日、再度来社するようにと話して聞かせました。なにせ、低級な「自然霊」というのは人間としての経験もないので、「情」といったものがなく、扱い方次第ではかなりの危険を伴うからです。

後日、ある霊能者Aさんにお願いして加わっていただき、憑き物の正体を確認してもらうことにしました。すると、その当日の朝方、Aさんは不思議な霊夢を見たといいます。その青年が、親と口論になり、家を飛び出して車を運転していた際に、かなり古い時代に、狸を食していた集落の人たちがその骨を捨てた場所があって、その“塚”のような所をタイヤで踏んでしまった情景が見えたということでした。そして、やたらと臭いニオイが残ったのが印象的だったそうです。さらに巨大な蟻たちが秩序正しく働く状況も見え、そのように人は勤勉でなければならないのだという教えの夢も見たということでした。


神社で、三人で会いましたところ、青年の背中に憑いているのは尾が二本もある「モノノケ化」した野狸だということでした。
更に驚きだったのは、前回にも増して青年の顔が狸のようになっていたということでした。両目の回りには輪のようなものができ、鼻先が尖って見えます。キツネ憑きになった人は、目がつり上がってキツネのようになりますが、それと同様です。

これまでに他の人たちにも憑いてきたのだろうか?どうしてこの青年に感応してきたのだろうか?・・・といった疑問も多々感じられ、青年にあれこれと問いただしてみました。すると、青年は山菜採りが好きだったらしく、ある山道の行き止まりになっている場所にバイクを止めて、山菜採りを始めた時から総てが始まったと言うことでした。(後日、その場所を清める為にお祓いに行きました。)

Aさんに害を及ぼしては申し訳が立たないので、当日は、そのまま帰ってもらい、後日、その青年と私の二人きりでお祓いの神事を執り行うことと致しました。


何冊かの関係書物に目を通し、様々な対応策を考えながら神事に臨みました。
「人になど憑いていないで、山に帰りなさい。故郷に帰りなさい。山の神さまの元に向かいなさい」と諭しながらお祓いを執り進めていきました。そうしている内に、青年は「取れました」と嬉しそうに言い、満面に笑みをたたえ、晴々とした様子で帰っていきました。あまりの嬉しさに、当方に対するお礼の言葉は忘れてしまったようでした。

ところが、その夜にまた青年から電話があり、「神主さんの姿が見えなくなったら、またどこからかやって来て憑いてきました」と言います。その憑きモノは結構な策士で、あれこれと欺いてくるみたいです。

「それでは毎晩、お風呂に入る際に、粗塩を身体に擦りつけて、身を清めてみなさい」と教えますと、数日後には、「その時には一端離れるのですが、またどこからか戻って来て、糞のような、カエルの腐ったような悪臭を身体に付けて逆襲して来るのです」と言います。

「そして、夜中になると、ピシィー、ピシィーと唄を歌っているような声を出してみたり、神主さんの上げる祝詞(のりと)の真似をしてからかったりします。私もたまりかねて、バカな真似をするなと叱りつけますと、顔を爪で激しく引っ掻いてきます。あまりの痛さに、おそらく顔が血まみれになっているだろうと思い、鏡で顔を見てみましても不思議なことに何ともないのです。・・・・本当につらいです」ということでした。

かなり辛そうなので、急遽、電話口でお祓いを施しますと、「ヤバイ、ヤバイと言って、その時はおとなしくなりますが、時間が経つとまたからかい始めます」という。

離れてから納まる場所がない為、いつまでも青年の身体に憑こうとしているのだろうかとも考えられましたので、「それでは、祠(ほこら)を設けて祀(まつ)ってあげるから、そちらに移るように伝えてみなさい」と話すも、それでも「絶対に離れない」と言い張っているという。本当に質(たち)の悪いムジナです。



※東京の浅草寺の伝法堂裏には鎮護堂という祠(ほこら)があり、「鎮護大使者」の称号を与えられ、多くの崇敬者たちに、火難・盗難防止、商売繁盛をもたらしてくれる“狸神”として信仰されているが、始めは寺の境内に住む狸の憑依からはじまったようです。徳島の青木藤太郎大明神だとか、讃岐の蓑山大明神だとか、阿波の太三郎狸だとか、“分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)”伝説で有名な群馬県館林市の守鶴和尚狸だとかも同様らしい。


これは長期戦になりそうだとも考えられ、青年の怠惰な生活に感応して憑いた節もあるので、「とにかく気持ちで負けないことが一番だから。自分自身がしっかりすることが大事なのだから」と話して聞かせました。親に対しても、この件については全く話していないということなので、まずは一切を話しなさいと伝えるも、かなり複雑な親子関係のようでした。青年はしきりに自殺を口にするようになりました。そして、ここ数日は連絡が無くなっており、こちらで電話してもつながりません。安否が気遣われました。




◆“狢(ムジナ)”憑きの青年、その後 

その後、一月ほど経過し、ようやく青年から電話が入りました。親には打ち明けたということですが、家族は皆、神仏が嫌いな人たちらしく、なかなか話を信じてもらえず、病院に行くように言われているとのことでした。その後、本人は寺社回りをしていたそうですが、一向に問題は解決せず、また当方に電話をしてきたということでした。再度、神社においてお祓いの祈祷を執り行ないました。

(私)「それでは、前回、神社に来て御祈祷した際に、家でお祀りするようにと渡した御札とお守があるでしょう。お守よりも御札を身につけた方が遙かに効き目があるから、時代劇の旅装束に見られるように、風呂敷のような布に御札を巻いて、そのムジナとあなたの背中の間に、“白鬚神社”の文字がムジナに向くように身につけてみなさい。さらに、それに加えて入念に御神入れした御札を4体渡すから、両手両足に同じようなやり方で巻いてみなさい。そして、これまでに教えたことは、毎日きちんと実践し続けなさい」と話して聞かせました。

翌日、青年から電話があり、しばらくぶりで、ぐっすりと眠ることが出来たということでした。その後、また連絡が来なくなりました。


さらに数ヶ月が過ぎ、「また、お祓いをお願いしたい」と青年から連絡が入りました。その後の経過について聞いてみると、以前のように、映画『エイリアン』に出てくる、エイリアンの幼虫が顔にへばり付いたときの様な、強力な背中への貼り付きは無くなり、かなり緩く、弱くなってきているということでした。ただし、何か気に食わない事があるとすぐに、「このバカ、殺すぞ!」という言葉は、今でも吐いてくるし、夜中に歌う曲も、青年が普段から聴いている、ビーズやケミストリーのポップス曲に変わったということでした。


(私)「とにかく、その憑き物が、居心地の悪いような、波長が合わないような状況を作りだし、それを維持していくようにしてみなさい。そして、微弱になって消えていくのを、辛抱強く待ってみなさい」と話して聞かせました。

※少しでも浄化の時期を早めようと考え、「十種神宝(とくさのかんだから)」の御名を唱えて、鎮魂の術を施してみました。青年の話では、施術されている際には、憑き物の罵倒する声が微弱になり、遠くから聞こえているような感じになるのだそうです。間違いなく嫌がっているようで、効果はあるみたいです。




◆百鬼夜行??? −“ムジナ”憑きの青年、その後A 

一年の時が過ぎ、青年に憑いているムジナもだいぶ弱まってきているらしい。「この野郎、殺すぞ!」といった暴言は今でも時々吐いてくるのだが、貼り付きはかなり緩くなって、背中にフワフワと漂っているだけのようになっているとのこと。  

彼の場合、霊感が強いとされている人たちがよく見る、死霊といったものは全く見えないらしく、「モノノケ」「妖怪」といった類の“モノ”たちの姿はしょっちゅう見ているようなのです。

現在の彼は、未明の暗い内に家を出なければならない新聞配達のアルバイトに就いているということなのだが、ある時などは、仕事先に向かっていつものように原付バイクを走らせていると、小さな子供なのかなとも思われる数人の人影らしきものが、車道と歩道を分離するコンクリートの縁石に腰掛けて話し合いをしている姿が見えたのだそうだ。こんな夜中に変だなと思いながらもバイクを走らせ近づいていくと、その小人物たちもバイクに乗っている彼に気付いたらしく、彼の方をふり向くや否や、いっせいに立ち上がって、道路脇の用水路の中に飛び降り、その中をひたすら逃げ去って行ったということだ。

また、ある時には、男女の性別不明のミイラのような姿をした“モノ”が、髪を振り乱したまま、バイクに乗る彼の前方の道路を横切って行ったこともあったという。これらの“モノ”たちは、彼に憑いているムジナの仲間たちだったのだろうか。
彼の場合、そういった“モノ”にチャンネルが合ってしまっている状態のようです。(おそらくは、彼の目が、背中に憑いているムジナの視覚をも兼ねて働いているからなのでしょう。)

彼とは別な人物の話になりますが、山を開発して分譲された、新興のニュータウンに住んでいる方なのですが、夜中に、巨大な目玉のバケモノが道路を歩いている姿を見てしまったそうです。特定の人たちに、こういったお化けの様な姿で可視化されて見えるのは、恐らくは「山のモノ(精霊)」たちではなかろうかとも考えられます。特別の場合を除いては、見た人に害を及ぼすことは無いようです。

『陰陽師』等の漫画や映画に描かれている平安期の京都の夜の闇の様子は、まさに「百鬼夜行」といった観があります。当時の人たちは現代人に較べて、「見える」人たちの数が多かったのではなかろうかとも考えられますし、当時の政治や文化といったものが微妙に関係して、“疑心暗鬼”的に様々なモノを見させていたようにも思われます。江戸時代中期の儒学者で政治家でもあった新井白石などは、本気で“鬼”の存在を信じていたようです。
現代の沖縄でも、“キジムナー”の名で呼ばれる、「真っ赤っか」なガジュマルの古木の精霊の姿が、あちらこちらの神社の境内や「ウダキ」と呼ばれる斎場で、「見える人には見えている」ようです。



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※《参考》

●スピリッチャリズムにおける「高級霊と低級霊」

一般によく“狐憑き“と言われるものがあります。これは動物霊ではなく、現世に姿を現したことのない低級自然霊、または低級自然霊と化してしまったものによることが多い。自然霊とは、この世に肉体を持って姿を現したことのない霊です。いわゆる稲荷、天狗、龍神、たぬき等です。本当に絵で見られる姿をしているわけではなく、そのような性質を持つ“エネルギ−体”と考えて下さい。

自然霊にも低俗なものから超高級なものまであります。まず頂点に立つ“神”、“高級自然霊”、“妖精(フェアリ−)”があります。自然霊には、天候など、自然界を司る働きがあります。
特に人間に良い影響を与えているのは、背後霊のなかの自然霊です。もともと人間の始祖は自然霊であり、人間の背後霊を調べてみるとよく龍神、天狗、稲荷等、神の予備軍とも言える自然霊が支配霊としてつかさどっていることが見受けられます。これらはまだ、霊界における新しい魂の自然霊であるから、まず、現世において人間をつかさどって守ることにより、神となる修行をしていくと言われています。
背後にいる霊の系統(霊系)が、人間の個性として強く現れます。龍神霊系の人、天狗霊系の人、稲荷霊系の人。

問題となるのは中級より低い自然霊です。“神の使い”である霊であることが多く、人の生業を見てくれたりもします。ところがこれらの霊は大変に俗っぽく、与えた分の見返りは必ず得ようとする性質があります。最初のうちだけ熱心に詣でていても、感謝の心を忘れたりすると、怒り狂います。霊障によって知らせようとしたりします。おろそかにされているうちに、人間の子供のようにグレて低級化していく傾向があります。
自然霊は子供を産むように分霊し、消えていきます。

このような自然霊に対する説得はなかなか難しく、人霊と違って情がありません。肉の家族を持ったことがないので情けというものがないのです。情に訴えることができないのです。だから自然霊は慎重にあつかうべきで、常に敬意を払い、簡単に呼び出そうなどとしてはいけません。
霊界について中途半端な知識を持ち、このような低級霊を呼び込んでしまい惑わされてしまう人は以外に多い。憑依状態が長く続けば続くほど、憑依霊は居心地が良くなる。憑依とは憑く霊ばかりが悪いのではなく、呼び込む自分が一番悪い。「神は人に悩みなど与えていない。神は問題のみを与えているのだ」という。

『自分のための「霊学」のすすめ』より  江原啓之 著


[260] ●“古代祭祀”と「田の神祭り」 Name:道開き Date:2016/06/27(月) 19:58 
若い頃は、日本史と言えば、戦国時代や明治維新といった動乱期の本ばかり読んでいました。それが今では、日本人が日本人たり得る“根幹部分”を形成した時期、つまり縄文時代や弥生時代といった古代、特に縄文時代に興味が引かれてしまいます。
そして、武士や志士たちの活躍から、無名の民衆たちの日常的な生活状況といったものに興味が移ってしまったようなのです。

何故そうなったのかは全く解lりません。やはり人は年を重ねていると、心が自ずから“原初”へと向かってしまうものなのだろうかとも考えています。

そう言った訳で、昨夜のNHKスペシャル『御柱・古代史の謎』は、自分にとってはたまらなく面白い番組に思われました。

縄文時代の「山の文化」と弥生時代の「稲作文化」が交差した“祭りの形態”は、今日でも身近な様々な所で見受けられます。




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※参考

●“サ”クラの語源と「田の神祭り」



山里に花が咲く頃、日本の古え人たちは豊穣をもたらす山の神が里へ降りてきたと考えました。そして、田の神となって米作りの手助けをしてくれると信じました。

そもそも「サクラ」という名称そのものが、“サ”が「山から下りてきた田の神」のことを意味し、“クラ”は「座」で、「山の神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。よって山の花々も、山の神の依代(よりしろ)と考えられていたようです。

日本古来の「山遊び」・「花摘み」・「天道花(てんとうばな)」といった旧“卯月八日(うづきようか)”の民俗行事はこのことに由来しています。



★山の神の性格

@山中を領有(うしは)く神

A里に水をもたらす「稲作の神(稲魂)」

B豊穣と多産をもたらす「お産の神」

C先祖の魂が籠もる山から迎え祀ることから、子孫の営む稲作を守る「祖先神」



★「田の神祭り」には日本古来の祭りの古い形態が残されています。


@ 水口祭り ( 苗代祭り・種蒔き祝い )

苗代(なわしろ)に稲種(いなだね)を播(ま)いた日に、苗代田の水口(みなくち)や畦(あぜ)に田の神の依代(よりしろ)となる柳(やなぎ)・栗・松・茅(かや)などの木の枝や茎(くき)、あるいは山吹(やまぶき)・躑躅(つつじ)などの季節の花、小正月の「削り掛け」などを刺し、焼米、洗米を供える。



A サオリ ( サビラキ・サイケ・ナエタテ・初田植え・田の神下ろし )

田の神である“サ”が下りてくるのを迎える儀礼。
水口祭り同様に、水口や畦に柳・栗・松・茅・空木(うつぎ)などの木の枝や茎を立て、餅や赤飯を供えたり、家の中の神棚や床の間・土間などに苗を三把(さんわ)と餅や赤飯を供えたりする。この場合、苗も田の神の依代と考えられる。



B サナブリ ( サノボリ・田祭り・田植え祭り・田植え休み・農休み )

“サ”が上(のぼ)るのを祝い送る儀礼。
田植えを終えた水田の水口や畦に朴(ほお)・栗・柿などの木の葉や枡(ます)を置き、餅・赤飯・五目飯・豆・昆布。御神酒などを供えたり、家の神棚や竈・土間などに稲苗三把と餅・赤飯・五目飯などを供える。そして、田植えを手伝ってくれた人たちを家に招き祝いの宴を催す。


旧暦の五月は「田植え月」であり、五月を「サツキ」と呼ぶのは“サ”の月という意味合いがあるらしい。新しい仕事着に帯・襷(たすき)をして着飾った、田植えをする女性は早乙女(“サ”オトメ)と呼ばれた。
「昼間(ひるま)」と呼ばれる、握り飯に黄粉(きなこ)をまぶした特別な食物が、「オナリ」とか「ヒルマモチ」と呼ばれる女性によって田に運ばれ、田の神に供えると同時に、田植えをする人たちにも振る舞われました。



●「太田植え」 ( 花田植え・囃し田・勇み田・牛供養 )

大地主や庄屋の田、神社にゆかりのある田でおこなわれる田植えは「太田植え」と呼ばれました。村中の人が集まって、花鞍(くら)を付けた「飾り牛」が十数頭も一枚の田に入り、「サンバイ」とか「歌大工」などと呼ばれる音頭取りのもとで、着飾った「早乙女」たちと鉦(かね)・太鼓・笛の囃子(はやし)方が一体となって、「田植え唄」が披露された。これが「田楽」を生み、やがては「能楽」へと繋がっていきます。

映画『七人の侍』のラストのシーンで描かれているのが、この「太田植え」の様子となります。


[259] ●白鬚神社・上棟祭  Name:道開き Date:2016/06/22(水) 19:26 
〈日時〉 7月10日(日)   午前11時より

〈場所〉 新境内地(東松島市野蒜字亀岡38−10)

〈日程〉  
    神 事  午前11時より(約30分)

    餅撒き  神事終了後



◆協力  復興支援団体 プラスネオ 
 

  

※注意点

◎駐車場は「野蒜地区センター西側(旧保育所跡地)周辺」をご利用下さい。
◎小学生以下の方は保護者同伴でお願いします。
◎基本的には雨天決行ですが、各種警報が発令された場合は変更とさせていただきます。


●お問い合わせは
    白鬚神社 祢宜 亀廼井雅文 まで
    
TEL 0225(88)2327


[258] ●「九星」 − 三島由紀夫の場合 − Name:道開き Date:2016/06/03(金) 07:26 
ノーベル賞最有力候補作家の“腹切り”といった行為が余りにも衝撃的過ぎて、未だ歴史的評価が定まらないところはあるようですが、三島由紀夫 ≒ 吉田松陰 といった図式も十分に考えられます。実際に、三島由紀夫はかなり松陰を意識していたと思われます。

吉田松陰だって当時は、ペリーの黒船に小舟で乗り込んでアメリカへの密航を願い出たり、獄中で老中の暗殺を弟子達に命じたりと、桁外れの“超”過激分子の一面がありました。

三島由紀夫の場合、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊員にクーデターを呼びかけたのはあくまでもパフォーマンスであって、“割腹”する行為と「檄文」によって世に問いかけようとしたのが本筋だと思われます。松陰が、井伊直弼に直に会って国政の成り行きを説かんが為、助かる筈の自らの命を進んで刑場に捨てたのと同じだと思います。

戦後、経済至上主義でやってきた日本人ですが、バブル崩壊後、長いあいだ置き去りにしてきた「日本的精神性」について、漸く振り返って考えるようになりました。それが、三島事件の再検証がなされるようになったターニング・ポイントのようにも思われます。



●三島由紀夫

大正14年 (西暦1925年) 1月14日生まれ。           
干支・九星術で見ると、《四緑木星》年「六白金星・丑(うし)」月生まれの人です。

今日の有名人には、

・三浦友和、坂本龍一、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)、吉村作治(先生)、長門裕之、山田雅人、ウド鈴木(キャイ〜ン)、東出昌大、賀集利樹

といった方たちがおられます。



◎特徴

・思慮も深く現実的なタイプで、いい加減な事が大嫌いで、物事の白黒をはっきりさせたい性格の人である。
・合理的な考えを持ち、指導的立場に立つことを考える支配欲は強い方である。
・人に頭を下げることが嫌いで、ごまかしたりする人を軽蔑する。
・根は優しいところがあるので困った人には手を貸します。
・組織の中に入って活動することは好まないタイプなので、独立自営の道に進めば成功する。
・家庭では妻の自由を認めてやれるタイプの人が多い。





映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で三島由紀夫役を演じた井浦新さんは、以前にも取り上げましたが、吉田松陰、高杉晋作、大久保利通と同じ星の生まれの方です。

三島と同じ星を待つ東出昌大さんが、NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』で演じたのは、松陰の門弟の一人で、後に実妹の夫となる久坂玄瑞の役でした。

映画の中で、三島と共に割腹自決を行った「盾の会」の森田必勝役を演じた満島真之介さんは、当時、三島と深遠な関係にあった美輪明宏さんと同じ星の生まれの方です。顔も似ておられます。

私個人としては、“世界一‼ 頬(ほお)かぶりの似合う芸人”とされている 上島竜兵ちゃんと三島由紀夫大人が同じ星の生まれであることが、何とも微笑ましく思えてならないです。

さらに、三「島」、満「島」、上「島」で、三人は「島」つながりなのだ。





いつも同じことを言うようですが、見えない世界というのは、「縁」だとか、「星の巡り」によって、全くの無関係にしか思えない人物達に、時空を超えた関連性を持たせて動いて行っているようなのです。本当に不思議です。


[257] ●「雑節(ざっせつ)」 Name:道開き Date:2016/05/21(土) 07:27 
『二十四節気』『五節句』を捕足して、季節の移ろいをより適確に把握し、伝えるために用いられた。

「節分」「彼岸」「社日(しゃにち)」「八十八夜」「入梅」「半夏生(はんげしょう)」「土用」「二百十日」「二百二十日」の九つ。

〈「初午(はつうま)」「中元」「盂蘭盆(うらぼん)」「大祓(おおはらえ)」を入れる場合もある〉

雑節の中には、「土用」や「社日」のように中国に起源をもつものと、「八十八夜」「二百十日」のように日本独自のものとがあるが、いずれも農業や日常生活の目安として暦に定着している。


※参考

以下に、これから秋にかけての「雑節」を取り上げてみます。


◆八十八夜 

立春から数えて八十八日目のことで、新暦の五月二日頃にあたり、三日後に「立夏」となる。「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の毒霜」という言い伝えが残されているように、遅霜の時期でもあり、農事上の重要な節目と考えられ、茶摘み・苗代の籾蒔きなどの目安とされてきた。
1,656年の伊勢暦には既に八十八夜の記載があり、その後、渋川春海によって官暦(貞享暦)に正式な雑節として取り入れられた。



◆入梅   

「つゆいり」「ついり」ともいい、梅雨の季節に入る一定の目安となる日をいう。現在の暦法では、太陽が黄経80度を通過した日を「入梅」としており、新暦六月十一日頃にあたる。これはあくまでも暦の上でのことで、気象庁が出す「梅雨入り宣言」とは直接の関係はなく、実際にこの日から梅雨が始まるとは限らない。

旧暦では、「梅雨入り」を二十四節気の五月節・芒種(ぼうしゅ)の後の最初の壬(みずのえ)の日とし、「梅雨明け」を小暑の後の最初の壬の日とする(『本草綱目』)としていたが、異説もある。
「入梅」の語源は、梅の実が熟する頃に雨季に入るところからきている。



◆半夏生  

七十二候でいうと、夏至の末候「半夏生(はんげしょうず)」の初日にあたり、雑節の一つにも数えられるようになった。太陽が黄経100度を通過した日で、夏至から11日目、新暦の七月二日頃になる。梅雨の終期にもあたり、農家では、遅くともこの日までには田植えを済ませる目安の日とされた。

「半夏半作」といって、この日以後に田植えをしても収穫が少ないという意味の諺もある。その他、畑の作物の播種期の終わりとする地方も多く、この日に畑に入るのを禁じたりする慎みの日でもあった。

「半夏」とは、もともとは仏教用語で、90日に渡る僧侶たちの夏行である夏安居(げあんご)の中間、45日目の呼称であったのが、この時期に畑地に生える「からすびしゃく」という薬草の別称としても用いられるようになった。つまり「半夏生」とは、半夏が生える時期ということになる。



◆土用   

中国暦は「陰陽五行説」によって成り立っており、四季にも五行が配当されている。春は「木」、夏は「火」、秋は「金」、冬は「水」となり、「土」は各季節に入る前の「土用」に配当された。つまり、365日を五等分すると73日ずつとなり、73を4で割ると18日強となる。これを四季のそれぞれの終わりに配当して「土用」としたのである。

土用の字義は、「土旺用事」「土王用事」といって、「土の気が旺になり事を用いる」意からきている。つまり、用は「はたらき」ということで、土気には、元来、物を変化させる作用があるとされ、その土気が最も働く期間が土用ということになるので、春夏秋冬の四季をも推移させると考えられた。

現在では、夏の土用(新暦七月二十日頃から立秋の前日・八月七日頃までの18日間)が一般的に「土用」として知られている。この期間を「暑中」と呼んで、暑中見舞いを出す習慣や、食養生の習わしから、「土用鰻(うなぎ)」「土用餅」「土用蜆(しじみ)」「土用卵」が食された。

土用の期間中は、陰陽道で土を司(つかさど)るとされている土公神(どこうじん)が支配を強めているので、土を動かすことを忌むべきとされている。但し、四日に一回の割合で「間日」が設けられており、この日には、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の計らいで、土公神すべてが清涼山(せいりょうざん)に集められるので、土を動かしても祟りがないとされている。


●〔土用の間日〕
春の土用・・・巳・午・酉の日
夏の土用・・・卯・辰・申の日
秋の土用・・・未・酉・亥の日
冬の土用・・・寅・卯・巳の日



◆二百十日 

立春から数えて二百十日目の日で、新暦の九月一日頃にあたる。稲の開花期に当たり、台風の襲来を警戒すべき厄日とされている 。二百十日が暦に初めて記載されたのは明暦二年(1,656)の伊勢暦からで、官暦に記載されるようになったのは渋川春海が編纂した貞享暦(1,684)からである。

この時期には全国各地で、「風祭り」「風日待ち」「風祈祷」「風鎮め」といった神事が執り行われる。『越中おわら節』で有名な富山県八尾町の「風の盆」も風祭りの一種である。



◆二百二十日 

立春から数えて二百二十日目の日で、新暦の九月十一日頃にあたる。二百十日同様、台風の襲来を警戒すべき荒れ日とされ、「風祭り」等が行なわれる。統計的には、二百十日よりむしろ二百二十日の方を警戒するべきともされている。


[256] ●「真の“国際化”は大歓迎」 Name:道開き Date:2016/05/03(火) 11:02 
戦後の日本軽視・蔑視の教育を受けて育った世代の人たちが、海外に出掛けて、様々な分野での世界標準なるものを学ぼうとした時期がありました。そういった人たちの多くは、逆に、日本の伝統文化の奥深さを自覚させられて帰国することになったそうです。外の世界に触れることで、自分たちの育った日本がどれだけ素晴らしい国であったのかを知ることが出来たということらしい。

更なる国際化が進み、より多くの外国人が日本を訪れるようになると、その逆のパターンも起こり得るとも考えられます。インバウンドの外国人たちは、日本国内にある西洋的なものには全く興味が無く、日本的な古いものに対して興味を示します。彼等に接した日本の一般市民たちが、余りにも日常的過ぎて、何とも思っていなかった身の回りの風景や自らの伝統的文化に対して誇りを感じ始め、未来に伝え残していかなければ、という気持ちを持ち始めるかもしれません。

つまり、日本に居たままの状態で余り国際化していなかった人たちが、ただただ海外のものにあこがれを抱き、日本の伝統文化を軽視し、むやみやたらに海外のものを取り入れようとして来た流れに歯止めが掛かると思われるのです。近年流行り始めているハロウィンなどは、どう見たって日本的なアニメのコスプレ集会が、ハロウィンの名を借りて街頭に進出して来た社会化現象にしか思えません。あまりにも軽すぎます。


[255] ●「人は見かけによらぬもの」 Name:道開き Date:2016/04/27(水) 14:34 
モデルでタレントの押切もえさんが、ピースの又吉さんに続けとばかりに、小説の大賞候補にノミネートされているらしい。人は見かけによらないものだ。

ところが「九星」で見てみると、結構、芸能人の中では賢い人が多い生まれなのです。東大出の方が二人もいます。


●《三碧木星》年「四禄木星・子(ね)」月生まれの女性

加賀まりこ、吉川ひなの、和久井映見、西村知美、雨宮塔子(女子アナ)、伍代夏子、高梨臨、
加藤登紀子、高田万由子、中越典子

・・・・といった方たちと同じ生まれです。


・苦労をいとわずよく働くタイプで、地味に見えるが派手好きで、交際面では人好みをするが、上手な人つき合いをする如才のない面を持っている。
・片意地を張り、わがままなところもあるが、根は迷いがちな気の弱い一面も持っている。
・他人の為には本気で尽くしていくが、自分自身のことになると気迷いを見せて中々決断の出来ないところがある。
・家庭婦人になれば、計画的に物事を要領よく運び、家計を助ける人となる。


加藤登紀子さんには、統合してリニューアル中の母校の小学校と中学校、その両方の校歌を作って戴いたので感謝です。二十年以上前に、多賀城市で開かれたコンサートを聴かせてもらいに行ったことがあります。何かの縁があったのでしょうか・・・・


[254] ●五節句 Name:道開き Date:2016/04/24(日) 06:57 
「年中行事」という語は日本で作られたもので、平安時代頃から使われるようになり、宮廷儀礼〈節会(せちえ)〉として公家の公務の中でも重要な位置を占めるようになった。中世以降は、鎌倉幕府や室町幕府の公式行事として武家社会にも引き継がれ、江戸時代には、急速に庶民の間にまで広まった。

「五節句」とは、江戸幕府によって特に重要と定められた五つの式日のことである。「節句」という語も日本で作られたもので、江戸時代の初期までは「節供」と書かれ、節日(せつじつ)の供物(くもつ)の意味であったのが、次第にそのような供物をする日そのものを指すようになった。

年中行事の大目的は神との交歓にあり、四季折々の食べ物が供物として神に捧げられ、同時にそれを人々も戴いて「神人共食(しんじんきょうしょく)」した。式日には農作業などの仕事を集落全体で休む習慣もあった。

年中行事の日取りの中で、月の数と日の数が同じ日に行われるものは、暦の導入にともなう中国伝来の行事が多い。


・人日(じんじつ)   正月七日
・上巳(じょうし)   三月三日
・端午(たんご)    五月五日
・七夕(しちせき)   七月七日
・重陽(ちょうよう)  九月九日




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●人日(じんじつ)

中国では人勝節ともいう。一月七日の朝に七種の菜で羹(あつもの)(熱い吸い物)を作って無病息災を祈る習慣が中国から伝わり、やがて「七草粥(ななくさがゆ)」を食べる「七草の節句」として、江戸幕府が定めた公式行事「五節句」の一つに数えられるようになった。

かつては一家の主人が俎板の上でトントンと七草を刻みながら、「七草なずな、唐土の鳥が、日本の国へ渡らぬ先に、七草たたく、すとんとんすとんとん」と唱えた(囃し言葉は地方によって異なる)。

※【春の七草】
芹(せり)、薺(なずな〈゠ペンペン草〉)、御形(ごぎょう〈゠母子草〉)、繁縷(はこべら〈゠はこべ〉)、仏座(ほとけのざ〈゠こおにたびらこ〉)、菘(すずな〈゠かぶ〉)、蘿蔔(すずしろ〈゠大根〉)


「人日(じんじつ)」とは、文字どおり「人(ひと)の日」を意味する語である。古来、中国では、正月一日を「鶏(にわとり)」、二日を「狗(いぬ)」、三日を「猪(いのしし)」、四日を「羊(ひつじ)」、五日を「牛(うし)」、六日を「馬(うま)」、そして七日を「人(ひと)」の日とする風習があり、それぞれの日には、その動物の占いが行なわれ、殺さないようにした。よって、七日の日には、犯罪者に対する刑罰を行なわないことになっていた。


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●上巳(じょうし)

「元巳(げんし)」「上巳(じょうみ)」ともいう。現在は三月三日に固定されているが、古代中国では旧暦三月の上旬の最初の巳の日に行事が行われた。桃花酒を飲み蓬(よもぎ)の草餅を食べて邪気を払おうとした。魏(220〜265)の時代に、三月三日を「上巳」とするようになった。

古代中国では、この日に川で身を清めて不浄を祓い、招魂して飲食するという行事が行われた。本格的な農耕に先立って、水をまつることがこの日の起源となっている。これが平安時代に取り入れられ、宮中では「曲水の宴」が催されるようになった。この宴は、川辺に並んで座り、酒を入れた盃が流れつくまでの間に漢詩や和歌を詠まないと、罰としてその盃の酒を飲まなければならないというものだった。

また、この日、紙で作った人形(ひとかた)にケガレを撫(な)で付けて、川や海に流して不浄を祓う「巳(み)の日の祓(はらえ)」(「上巳(じょうし)の祓(はらえ)」)という行事もおこなわれた。これが「流し雛(びな)」の習慣として今も各地に残っている。

さらに、室町時代から江戸時代にかけて、愛玩用の人形を飾る風習が次第に盛んになり、「雛(ひな)人形」が飾られるようになる。江戸時代半ば過ぎには、雛人形はさらに立派なものとなって、雛壇に飾られるようになり、今日の「雛(ひな)祭」の形ができあがった。

「雛祭」は特に「女児の節句」とされ、この日の飾り物が桃の花であることから「桃の節句」とも呼ばれ、菱餅(ひしもち)や白酒が供えられた。この頃は草餅の材料になる蓬(よもぎ)の若芽が出る時期でもあり、蓬の持つ強い臭気が邪気を祓うとされたことから「草餅の節句」とも呼ばれた。また、日本古来の「浜遊び」「山遊び」などの神祭りの行事とも習合(しゅうごう)した。


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●端午(たんご)

「端午」の端は、「初め」の意。つまり端午は、もともと「月の初めの午(うま)の日」のことをいい、午(ご)は「五」と同音で同じとされ、「毎月の上旬の五日」をも意味するようになり、五月以外の月の五日にも使われるようになった。

立春正月が定着する漢代以前の周の時代においては、冬至を含む月が年初とされた為、後の旧暦の十一月に十二支の最初の子(ね)が配当された。よって旧暦五月は午(うま)の月となった。したがって、五月の端午は、午が重なるめでたい日であり、午(ご)は「五」に通じるために、月と日の数が重なる日を祝日にする風がある中国では、五月五日を「端午」として祝うようになった。

古代中国では五月を「悪月(あしげつ)」と考え、この日に薬草を摘んで薬猟(くすりがり)をしたり、臭気の強い 菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)で作った人形を家の戸口に掛けたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気を払おうとする行事がおこなわれた。これが平安時代に日本へ伝わり、民間へと普及し、菖蒲や蓬を軒に吊したり、菖蒲湯に入ったりするようになった。

日本では古くから五月を「斎月(いみづき)」、「つつしみ月」などと呼び、「五月忌(さつきいみ)」と称して、田植えが始まるこの時期に、女性たちが早乙女(さおとめ)として家に籠(こも)って身を清め、田の神を迎え祀(まつ)る神事がおこなわれていた。これには成女戒を受けるという意味もあり、「女の家」「女の宿」の習俗として今日まで残っている。つまり、五月の節句は、日本古来の「五月忌(さつきいみ)」と、中国伝来の「端午の節句」が習合したものということになる。

江戸時代以降は五節句の一つとして重んじられ、菖蒲と「尚武(しょうぶ)」が同音であることなどから「尚武の節句」「男児の節句」とされ、雛人形にならって「武者(むしゃ)人形(五月人形)」などが飾られ、「鯉のぼり」を立てるようになった。「鯉のぼり」は、中国の故事「鯉は竜門の滝を登ぼって竜となる」(「登竜門(とうりゅうもん)」)に由来し、立身出世を祈ることから来ており、 粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べてお祝いした(主に東日本では柏餅が、西日本では粽が好んで食されている)。


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●七夕(しちせき)

旧暦の七月七日の夜のことで、「七夕祭(たなばたまつり)」「星祭(ほしまつり)」ともいう。現在、新暦の七月七日に行っているところが多いが、地方によっては一月遅れの八月七日に行う所もある。

七夕の行事には幾つかの流れがあり、それらが合わさって七夕の習慣ができあがったとされている。一つは中国伝来の牽牛星(けんぎゅうせい)(アルタイル)と織女星(しょくじょせい)(ヴェガ)の「星祭」伝説で、一年に一度、七月七日の夜にだけ織姫〈織女〉と彦星〈牽牛〉が天の川をはさんで出会うという伝説の日に星を祭る行事が行われた。同じ夜に、女子が織女星に瓜(うり)や花などの供え物をし、竿(さお)の先に五色の糸を掛けて手芸の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」という行事も行われたのである。

この中国伝来の「星祭」と「乞巧奠」行事が奈良時代には宮中に取り入れられ、日本古来の「棚機(たなばた)つ女(め)」(水辺に張り出した仮小屋の中に棚を作り、そこで神の来訪を待って神衣を織る聖女)信仰とも習合した。笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いて、手習い事の上達を願うようになったのは、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことである。

もう一つの流れは、日本古来の「先祖祭」につながるもので、旧暦七月のお盆の前に行われた穢(けが)れを祓い清めるための様々な水に関わる伝承である。七夕の日には「ねむり流し」「ねぶた流し」「ねむ流し」などといった水浴びや墓掃除(はかそうじ)、井戸さらいが行われ、女性が髪を洗う日と決められたりしていた。

青森の「ねぶた祭」も、本来は穢れを水に流す禊(みそぎ)の行事で、飾り物は身体の穢れを移し祓う「撫(な)で物」としての人形(ひとかた)の発展したものとされている。「ねぶた(ねぷた)」の語意は「眠たさ」のことで、夏場の農作業の妨げをなす睡魔を流し去ろうとする行事でもあった。町を練り歩いた人形や灯籠は、川や海に流され、これを「七夕流し」とか「七夕送り」と呼んだ。秋田の「竿灯(かんとう)祭」も同じで、独自の発展を遂げたものとされている。

またこの日には、茄子(なす)や胡瓜(きゆうり)などを霊前に供え、馬や牛を麦藁(むぎわら)や真菰(まこも)で作って「七夕馬(たなばたうま)」とし、門口に立てたりする地方もある。これは「七日盆」とも呼ばれ、先祖の霊を馬や牛に乗せて迎えるという、盆の行事と習合したものである。さらに、七夕といえば、盆と同様に素麺(そうめん)がつきものとされている。


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●重陽(ちょうよう)

旧暦九月九日の節句で、「九月節句」「重九(ちょうく)」「菊の節句」ともいう。易では奇数を陽の数としており、「九」は陽の極数となる。九月九日はそれが二つ重なることから、大変に目出たい日とされた。中国の古俗では、登高(とうこう)といって、この日に香気の強い茱萸(しゅゆ)〈ハジカミ。山椒、生姜の一種〉の入った袋を身に付けて高い丘などに登り、菊花酒を飲み、飲食すると邪気が払われて長寿になるとされていた。これが平安初期の日本に伝わって宮中儀礼となり、「観菊の宴(重陽の宴)」が催された。菊の花びらを浮かせた菊酒を飲んだり、菊の花に綿を乗せて朝露を吸わせたもので身を撫でて長寿を願った。

この日、庶民の間では秋祭と一緒に祝うことが多く、「おくにち(お九日・お供日(くにち)・お宮日)」「おくんち」と呼ばれ、栗飯や赤飯・餅を食べる習慣もあるので「栗節句」とも、ちょうど稲の刈り入れの頃なので「刈り上げ節句」とも呼ばれている。

また、旧暦の九月九日、十九日、二十九日を総称して「みくんち」「さんくにち」などという場合もある。九州地方では、九月九日に限らず、秋祭りはすべて「おくんち」と呼んでいる。


[253] ●九星〈5〉 − コント55号 − Name:道開き Date:2016/04/11(月) 06:59 
下の書き込み[252]に続きます。

よくよく考えてみると、チャップリンとコント55号の坂上二郎さんは、同じコメディアン同士ということもあるのだが、目元の顔の表情、仕草、ステージを走り回る芸風などにはかなりの共通点が見られるようにも思われます。

坂上二郎さんの相方の欽ちゃん(萩本欽一さん)は、子どもの頃からチャップリン映画を何度となく見に行き、同じシーンでも繰り返し笑わされたということもあって、チャップリンを心から尊敬していたということだ。

40年ほど前の民放のテレビ特番での、欽ちゃんが齢90才間近の晩年の喜劇王チャップリンに会う為にスイスの自宅まで足を運び、何度も門前払いを受けながら、ようやく初対面することができたというシーンが強く印象に残る。

チルチル・ミチルで有名なメーテルリンクの「幸せの青い鳥」ではないが、生涯あこがれを抱き続けた相手と同じ星を持った相棒と、生涯コンビを組み続けて来た事になる。

見えない世界というものは、このように総て数で仕組まれている。「九星」「八卦(はっけ)」を学んでいると、この様な摩訶不思議な事柄に気付かされるケースが多いのだ。“星の巡り合わせ”“縁”といったものは本当に不可解なもに思えてならない。

そう言えば、我々が「野球拳」なるものを教わったのは二郎さんからだ。確か、『コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ』・・・・・だったかな?


[252] ●九星〈4〉 − チャップリンとヒトラー − Name:道開き Date:2016/04/07(木) 12:22 
1889年4月16日、ロンドンの貧しい舞台芸人の子に生まれ、スクリーンの中に愛を描き続けたチャールズ・チャップリン。遅れること四日後の1889年4月20日、オーストリアの税官吏の子として生まれ、画家を目指したアドルフ・ヒトラーは、社会というキャンパスに自らが掲げる理想社会を描こうとしたのだろうか。チャップリンは意識的に、ヒトラーを風刺した映画『独裁者』を撮っている。

二人を「九星術」で見てみると、


●《三碧木星》年「三碧木星・辰(たつ)」月生まれの男性

・外見的に四つのタイプに分けてみる

【Aタイプ】輪島功一、鳥羽一郎、坂上二郎、今井雅之、河島英五、阿部サダヲ、前田健太(野球)
【Bタイプ】堂本剛、なぎら健壱
【Cタイプ】田原総一朗、宝田明
【Dタイプ】橋幸夫、さだまさし

・・・・といった方たちと同じ生まれでした。

・プライド高く、負けず嫌いで、片意地張っても競争心を燃やして頑張り、堅実に努力するタイプであって、一直線に進まないと気がおさまらないため、失敗、失望の憂き目に会いやすいところがある。
・派手好みの所があり、高価な物でも買い求めたりもするし、相手次第ではお人好しにもなる。
・頼まれると嫌とは言えない面があり、骨身惜しまず努力する。
・自分の尊敬する人とか、自分を理解してくれる人のためには忠勤を尽くす。
・美的感覚もあり、文芸・芸術に適している。
・気まぐれな態度を取ると失敗するから気をつけた方がよい。
・家庭を大切にし、子どもを大事にする。

チャップリンとヒトラーは、この中の誰と顔が似ているだろうか。



“愛と憎しみ”“破壊と再生”といったものは真逆の様にも見えるが、表裏一体なものなのだろうから、チャップリンの中にもヒトラー的なものが存在していただろうし、ヒトラーの中にもチャップリン的なものが存在していた筈だ。我々の中にも、チャップリンとヒトラーは存在しているのかもしれない。
バラモン教、ヒンドゥー教の主神・シヴァ神(仏教の大黒天、不動明王と同神とされている)は“破壊と再生”“死と生”を司る神とされている。

もう一つ、ヒトラーと「呪術」の関連性について。そのことについては当時から取り沙汰されていたらしく、日本で起きた、シヴァ神を崇拝する某教団事件の教祖と同様に、呪術的行為を繰り返す内に“魔”に入り込まれ、その虜(とりこ)になってしまったのではなかろうかとも考えられるのである。・・・・人は、“自然”こそを崇拝の対象とするべきです。


[251] ●九星〈3〉−「節切り」と「本命星」− Name:道開き Date:2016/04/05(火) 07:35 
「節切り」と「本(年)命星(ほんみょうしょう)・月命星(げつみょうしょう)」の関係について記します。
 
九星も暦注の一つであるが、他の暦注が日の吉凶を万人に等しく伝えるものであるのに対し、九星は、一人一人の生年月日によって「本命星」が異なる為、それによって年月日の吉凶も違ってくる。因みに「本命星」とは、その人の生まれた年の運勢盤の中宮にあった九星のことで、「ほんめいせい」ともいう。

「本命星」を定める際に注意しなければいけないのが「節切り」である(旧暦の「月切り」とは区別されることに注意)。すなわち、立春(二月四日頃)をもって年の始まりとする二十四節気の考え方が取り入れられている。つまり、新暦一月一日から節分(二月三日頃)までに生まれた人は、前年の九星を「本命星」に持つ人ということになる。

各月の区切りも同様で、二十四節気の正節(しょうせつ)を以て月の始まりとする。例えば、四月二日生まれの人を例に挙げると、三月節・清明(せいめい)が四月五日頃なので、前二月の運勢盤(月盤)の中宮にある九星を「月命星(げつみょうしょう)」に持つ人ということなる。


[250] ●九星〈2〉−「年回り」− Name:道開き Date:2016/04/05(火) 07:18 
「後天定位盤」の宮位を、年毎に九星が移動〔遁甲(とんこう)、飛泊(ひはく)・回座(かいざ)とも呼ぶ〕する。「後天定位盤」における八卦(はっけ)の占める位置〔宮位〕は永久に変わらず、遁甲して変わるのは九星ということになる。

九星の移動する順序は、九星の定位である五黄土星が中宮にあるときから出発する。

@中宮(ちゅうきゅう)→A乾宮(けんきゅう)→B兌宮(だきゅう)→C艮宮(ごんきゅう)→D離宮(りきゅう)→E坎宮(かんきゅう)→F坤宮(こんきゅう)→G震宮(しんきゅう)→H巽宮(そんきゅう)→I中宮(ちゅうきゅう)

へともどる。それに伴って、他の八星もその位置を同じ順序で移動する。

最初の定位図を基にして、各位置の数字が一つずつ減っていくことになる。この原則さえ知っていれば、前年の九星図から簡単に導き出すことができる。この九星の遁甲(とんこう)は、年・月ともに共通であり、特に、年の九星の遁甲のことを「年回(としまわ)り」といったりする。


[249] ●九星 Name:道開き Date:2016/04/01(金) 10:47 
九星(きゅうせい)とは、実際の天体の星のことではなく、人の運勢や吉凶判断に用いられる仮想の九つの星のことである。「八卦(はっけ)」や「五行」に配当された九星図が完成したのは唐の時代の末頃とされている。この九星は江戸時代までの暦本には記載されておらず、明治になって、運勢暦、開運暦といった類の本の暦注(れきちゅう)に記載されるようになり、以後は「九星占い」として盛んになる。


【一白(いっぱく)水星】

北〈子(ね)〉、坎宮(かんきゅう)。
象意は、知、穴(陥る)、悩む(病)、孤独、胎、孔、中男など。  


【二黒(じこく)土星】 

西南〈未申(ひつじさる)〉、坤宮(こんきゅう)。
象意は、大地、母、生産、従順、努力、方形など。


【三碧(さんべき)木星】

東〈卯(う)〉、震宮(しんきゅう)。
象意は、雷、震、発展、希望、長男など。


【四緑(しろく)木星】 

東南〈辰巳(たつみ)〉、巽宮(そんきゅう)。
象意は、風、対外活動、商売、世間、往来、信用、長女など。


【五黄(ごおう)土星】

中央、中宮(ちゅうきゅう)。
象意は、帝王、破壊、腐敗、権威、頭領、万物を土に帰すなど。


【六白(ろっぱく)金星】

西北〈戌亥(いぬい)〉、乾宮(けんきゅう)。
象意は、天、意志、剛、主人、施与、目上、頭脳、働く、父、金(山だしの鉱石)など。


【七赤(しちせき)金星】 

西〈酉(とり)〉、兌宮(だきゅう)。
象意は、口、少女、金(融通する金、加工された金、金貨)、説く、悦ぶ、趣味など。


【八白(はっぱく)土星】

東北〈丑寅(うしとら)〉、艮宮(ごんきゅう)。
象意は、止まる、家、蓄財、改革、変化、山、少男など。


【九紫(きゅうし)火星】

南〈午(うま)〉、離宮(りきゅう)。
象意は、火、知恵、分離、頭脳、名誉、移行、高貴、争、中女など。




◆河図(かと)と洛書(らくしょ)

易(えき)の「八卦(はっけ)」や「九星」の起源は、古代中国の神話伝説に由来する。太古、蛇身人首の伏犠(ふくぎ)〈庖犠(ほうぎ)〉氏が王であった時、黄河流域の河上で龍馬(りょうま)が捕らえられたという。その背には旋毛(せんもう)による一から十までの数紋があり、これを図にしたのが「河図(かと)」と呼ばれるものである。それにヒントを得て伏犠(ふくぎ)が易の「八卦(はっけ)」を画したとされている。これが先天盤〈先天定位盤(せんてんじょういばん)〉の元となる。

又、古代の聖王・夏(か)の禹(う)王が先帝・舜(しゅん)の命により治水工事を行っていた際に、黄河の支流・洛水(らくすい)から神亀が出現し、その背中にあった一から九までの神紋を図にしたものが「洛書(らくしょ)」とされている。これが九星図〈後天定位盤(こうてんていいばん)・文王の後天図〉の数理の元となっている。欧米ではマジック・スクウェア(魔方陣)と呼ばれているものである。




●陰陽五行思想の概要

陰陽五行思想では、この世の初め、宇宙はいまだ混沌たる状態であったが、やがてその中から、軽く清んで暖かい「陽」の気がまず上昇して天となり、それと同時に、重く濁った寒い「陰」の気が下降して地となったとしている。

森羅万象、宇宙のありとあらゆるものは、この相反する「陰」と「陽」の二つの気の働きによって、一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。その消長する間に、「木火土金水」という五気も生まれ、陰陽と同じように一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。そのため一年の間に春夏秋冬の四季節の別が生じるのであるとする。

こうして、森羅万象を、まずは「陰陽」二気の働きによって説明し、次に「五行」を割り当てて判断するという形而上学的思想が形成された。
やがて、『陰陽五行思想』は『暦法』とも結合し、「干支」や「二十四節気」の中に取り入れられていくことになる。


[248] ●“地獄で仏”の行為 Name:道開き Date:2016/03/12(土) 07:42 
自分は、野蒜小学校の校門前で避難車両の誘導中に津波に襲われたので、体育館脇の崖まで走って、草にしがみつきながら這い上って助かりました。体育館内の状況は人聞きでしか知ることができませんでした。昨夜のNHKスペシャルでは、CGで詳細に再現されていたので多くのことを知ることが出来ました。

別に、ヒーローを創り出す必要などないとは思いますが、体育館内のギャラリー席にいち早く避難していた人たちの中には、渦の中に巻き込まれている保育園児を助けるために、自らが渦の中に飛び込んで救助に当たった漁業関係者の青年もいたらしい。その状況を見ていた小学生たちは、「野蒜小学校 ファイト!」と声援を送り続けたということだ。


[247] ●これからは“地力(じりき)”での勝負 Name:道開き Date:2016/03/10(木) 11:27 
リオ・オリンピックのアジア予選敗退。日本の女子サッカーもリニューアル期に入ったようです。横山選手の体幹の強さ、岩淵選手の決定力、中島選手のゴール前への突入センスの良さと、若手の輝きが随所に見られたので、中長期的にはノ−・プロブレムでしょう。

本当にサッカーは奥深いです。会社組織や“町作り”とも共通する点が非常に多いように思われます。相手を置き去りにしてしまうスピード、ちょっとやそっとのことでは倒されない体幹(たいかん)の強さ、味方選手たちの上がりの時間を作り出すキープ力。そして何といっても、ここぞという時の1対1での球際(たまぎわ)の強さ・・・・

しかし、最も重要なのはやはり基本だと思います。正確なパスをだせる、ボールをしっかりと受けられる、最後まで走り続けられる、といったことが出来ていればのことです。必要以上に“技巧”に走らないようにした方がよいと思います。「技は力の中にあり」だからです。

ある箇所だけが立派であればよいというのではなく、それぞれの個が絶えずスキル・アップに励み、そういった個が複雑にリンクした集合体としての組織や町ということになるのでしょう。

これからの被災地は、最後は“地力(じりき)”での勝負、ということになって行くのだと思われます。多くのハンディを背負った状態でも、震災によって中断していた試合に復帰して行かなければなりません。多くの分野では戦いのゴングは鳴り響き、既に戦闘が始まっています。
サッカーに例えたならば、3点ビハインドで後半戦に突入していく様な状況とでも言えるのだろうか。

老人も子供も、中高年も青年も、会社も役所も、学校も神社も寺も病院も、皆が一つ一つの物事にシッカリと取り組んでいく。それしかないと思われます。


[246] ●「少年時代」 Name:道開き Date:2016/02/23(火) 12:04 
小学校5年生の頃の、9月に入ってすぐの土曜か日曜日の出来事だったと思う。同級生の友達と共に、野蒜海岸の不老山(ふろうざん)隣りの鶚(ミサゴ)山の岩場に登って遊んでいた。遠くでは男女の若いカップルが波と戯れている姿が見えていた。

しばらくしてそのカップルは遊び疲れたのか、二人で手を繋ぎながら我々の遊んでいる岩場の下まで歩いて来て海の方を眺めながら座ったのだ。よく見ると二人とも一糸纏ぬ姿のスッポンポンだった。我々は見てはいけないものを見てしまった気がして、岩陰に身を隠し、そっとその場を立ち去った。その後、家に帰って食べた夕飯が非常に不味く感じたことを今でも記憶している。

その当時は、ウッドストックでの野外音楽フェスティバルや“ヒッピー文化”の影響を受けたサイケデリック(サイケ調)だとか、ヌーディスト・ビーチなどが取り沙汰されていた時代でもあった。若いカップルにとっては、ラブ&ピース、自由、解放、自然回帰といったメルヘン・ポエムの世界に浸っていられる時間だったのだろうけれども、野蒜土着の野生児に近かった私たちには、極めて不自然で迷惑な行為に思われた。

テレビでは、ベトナム戦争、安田講堂事件に代表される学生運動、三島由紀夫事件、小笠原諸島・沖縄の日本への返還・・・といったニュースが連日流れていた時代である。東南アジア系の顔立ちをしていた先輩などは、「ベトコン」というあだ名で呼ばれていた。

当時の日曜日午後のテレビ番組といえば、高橋圭三さんが司会を務めていた『今週のヒット速報』という歌番組が強く印象に残る。宮城では午後2、3時頃からの放送だったように記憶している。

毎週、スリリングに移り変わるヒット曲の順位。まるで天使の歌声に聞こえた『夜明けのスキャット』を歌う由紀さおりさんと、当時の大学生を中心とする若者層に人気があった、メッセージ性の強い『時には母のない子のように』を歌うカルメン・マキさんの間で、1位争いのデッド・ヒートが繰り広げられていた際には、我々少年たちは『夜明けのスキャット』を応援した。

子供の頃の強く印象に残った出来事というのは、今でも細部に渡って鮮明に記憶の中に留まり続けている。


[245] ●「被災地はこれから」 Name:道開き Date:2016/02/19(金) 10:29 
昨日、旧鳴瀬第一中学校と第二中学校が統合されてできた鳴瀬未来中学校新校舎の起工式が行われました。

そういえば一年ほど前、『被災地の十五歳』というNHKスペシャルの番組で、鳴瀬未来中学校の先生と生徒君たちが取り上げられていたのを見させてもらいました。

震災により負った生徒の心の傷に真剣に取り組もうとなされている先生達は非常に立派だと思います。そういった子供達と毎日接している先生たちは大変なご苦労だとも思いました。

ただ、地域の大人たちでさえ、本人が自分から話そうとする場合を除いては、未だ震災当時の事について、こちらからうかつに伺ったりすることができずにいるのが現状です。あまり無理に心の中のモノを吐き出させることをしなくても、ほどほど、ボチボチで良いのではなかろうかとも思われました。

震災に限らず何事においても、或る程度までの解決の見通しが立たない限りは、人は自分の弱さを表に出そうとはしないと思います。力を入れて強がっていないと、自分自身で立っていることができなくなり、踏ん張りがきかなくなってしまうからです。大人でさえそうなのだから、子供だったらなおさらのこと。
学校のクラスは或る意味、小さな社会なのだろうから、皆が皆、自分の弱点をさらけだせる、気の許せる仲間たちばかりだとは限らない筈です。全国の学校でいじめ問題が蔓延している現状を見れば、私などにも容易に推測が出来ます。


文学だとか映画といったものは、こういった時の為にあるのだとも考えられます。
『赤毛のアン』『レ・ミゼラブル』『スタンド・バイ・ミー』『奇跡の人』・・・等、世の中の不条理、人生の厳しさと素晴らしさ、そういったことについて考えてみるのに適した作品は多数あります。

子供達はそういった作品の中に、その時々の自分を見つけ出したりしながら、自らが負った心の傷や闇の部分を自覚し、そして“昇華”させていくことができるのではなかろうかとも思われるのです。

作品の中に描かれている様々な人生に触れて、今後の自分の生き方をも深く推考してみたり、その人たちの困難を乗り越えて行く姿を通して、人生を生き抜く為のヒントを手に入れることもできます。人生の「教科書」とまではいかないまでも、「参考書」程度にはなるでしょう。

そういった作品に触れさせ、感想文を書かせたりしながら、間接的に、自らの思いを吐露させ、身にまとった鎧を剥がしていった方が無難ではないでしょうか。


兎にも角にも被災地は、地域社会も学校も、まだまだ先の見えない状況下にあるのです。・・・・・・これからです。
全国から戴いたご支援に対する返礼は、コミュニティーをこれまで以上に立派に再生させることだと考えています。


[244] ●日本の祭り Name:道開き Date:2016/02/16(火) 10:04 
●「まつり」の意味


◎「まつらふ」

神の威に従うこと、奉仕すること、服従することを表す動詞の「まつらふ」からきているという説。



◎「たてまつる」

神に御食御酒(みけみき)や幣帛(へいはく)〔布帛(ふはく)・幣束(へいそく)・御幣(ごへい)〕等のお供え物(みてぐら)を「たてまつる」意であるという説。



◎「待つ」

動詞の「待つ」を語根とした言葉で、神さまの降臨を待ち迎え、饗応(きょうおう・おもてなし)する義であるという説。
この場合、どちらかというと精進潔斎(しょうじんけっさい)に基づく「忌籠(いみごも)り」に重点が置かれている。(「日(ひ)待ち」「庚申(こうしん)待ち」「巳(み)待ち」の例もある)





●「まつり」の基本構造

「 神を迎え − 饗応(きょうおう)し − 送る 」というもの。そうして共同体の活力を再生・更新させるものであった。
「まつり」とは本来、厳格な「物忌(ものい)み」により清まった、神事に携わる資格のある者だけが参加して、深夜などにひっそりと行われるものであった。




●神人共食(しんじんきょうしょく)

「まつり」の中で最も本質的で重要な儀礼とされるのは「相嘗(あいなめ)」、つまり神と人とが共に食事をすることにある。
それは国家を挙げて行ってきた大きな祭りから、村の鎮守の小社の祭り、そして、盆・正月、節句、お月見等の家庭の祭りに至るまで共通している。





●“春夏秋冬”のまつり



◆「春」のまつり

農事開始に先立ち、年穀の豊作を祈る祭りが、宮中や日本全国の神社でおこなわれる。



◆「夏」のまつり

高温多湿で、身体が衰弱し、食物も腐敗しやすくなる夏の時期には、疫(えき)病が流行した。それを御霊〔ごりょう・祟(たた)り神)の仕業と考えて、「御霊鎮(ごりょうしずめ)の祭り」や「疫神(えきしん)祭り」が行われた。



◆「秋」のまつり

神さまへの収穫を感謝する祭りが秋祭り。



◆「冬」のまつり

その年の収穫への感謝と明くる年の豊作を予祝する祭が行われる。
さらには、この頃は冬至(とうじ)の時期とも重なり、ある意味、太陽が〈死〉から〈生〉へと転換する頃でもある。
“太陽の再生”と“生命力の更新”が祈念され、全国各地の神社では『天の岩戸開き神話』を再現した「霜月(しもつき)神楽」や「湯立(ゆたて)神事」、「火祭り」が執り行なわれる。





★「穀(ごく)のバチが当たる」

日本の祭は、「稲作」と深く関係するものが多い。それは古人たちが、稲(イネ)は「命の根(イノチのネ)」であり、稲霊(いなだま)が宿っていると考えたからに他ならない。
水や空気が無くなれば生きていけないのと同様に、食物を確保するための農事は何事にも優先される重大事であった。だからこそ官民挙げて、神に対する「まつり」を誠心誠意執り行なって来たのである。
よって、食物を粗末にすることは神さまに対する不敬であるとも考えられた。


[243] ●「暁(あかつき)」とは? Name:道開き Date:2016/01/27(水) 16:19 
下の書き込み〔242〕に続きます。

チェコのプラハといえば、第二次世界大戦中のナチス・ドイツNO.2のラインハルト・ハイドリヒ暗殺計画を描いた映画『暁の七人』や『抵抗のプラハ』、冷戦時のソ連の圧政に抵抗した「プラハの春」が想起されます。これらは真っ暗闇の中にあった当時の東欧チェコの、ほんの一時の「暁」「春」を言い表しているかのようでもあります。

夜明け前の仄暗い頃を意味する「暁」という古語自体は、以下の通り、時刻の推移を細分した形で用いられていました。


○暁(あかつき) = 夜明け方

○東雲(しののめ) = 闇から光へ移行する夜明け前の茜色の空

○曙(あけぼの) = 東の空がほのかに明るんでくる状態

○朝ぼらけ = 夜のほのぼのと明ける頃


更には、下記の表の通り、夜半から夜の明ける頃までの刻限を示すのにも用いられた。



◆十二辰刻の「不定時法」と現代の時刻

・              〈冬至〉  〈春分〉  〈夏至〉  〈秋分〉

子の正刻  暁九つ   23:40   23:49   23:43   23:33

丑の正刻  暁八つ   01:50   01:36   01:05   01:20

寅の正刻  暁七つ   04:01   03:23   02:27   03:07

卯の正刻  明六つ   06:11   05:09   03:49   04:54

辰の正刻  朝五つ   08:01   07:22   06:27   07:07

巳の正刻  朝四つ   09:50   09:36   09:05   09:20

午の正刻  昼九つ   11:40   11:49   11:42   11:34

未の正刻  昼八つ   13:29   14:03   14:20   13:47

申の正刻  夕七つ   15:19   16:16   16:58   16:00

酉の正刻  暮六つ   17:08   18:29   19:36   18:13

戌の正刻  夜五つ   19:19   20:16   20:58   20:00

亥の正刻  夜四つ   21:29   22:03   22:20   21:47


(東京・中央標準時による)
橋本万平「時刻対照表」『暦の百科事典』(暦の会編)2000年版より


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※参考

★十二支と時刻 

十二支は時刻にも配当される。中国暦では、1日を十二辰刻(しんこく)〈「辰」も「刻」も「時」の意〉に等分し、それぞれに十二支の名をつけた。つまり、暦法上の一時(とき)〈一辰刻(とき)、一刻(とき)〉は一定であって、現在の2時間に相当する。これを「定時法」という。



◆宣明(せんみょう)暦

江戸時代に日本初の国暦である貞享(じょうきょう)暦が施行されるまで、823年間の長きに渡って使われ続けた宣明暦(862年施行)では、この一辰刻(とき)を「初刻(しょこく)」と「正刻(しょうこく)」に2分している。「辰刻・時・刻(とき)」が時間の範囲を表すのに対し、その瞬間を指す言葉が「刻(こく)」であるともされているが、その区別は明確ではない。


◎「正午」の意味
今日でも昼の12時を「正午(しょうご)」というのは、十二辰刻における午(うま)の時〈午前11時〜午後1時〉の正刻にあたるからである。「午前」「午後」というのも正午を境とした呼称である。



◆『延喜式(えんぎしき)』

平安時代の宮中における公事や年中行事の典拠となった、律・令・格の施行細則である『延喜式』(967年施行)では、さらに一辰刻である一時(とき)を四刻(こく)〈初刻から四刻まで〉に分けている。現在で言えば、一時である2時間を30分ずつに四分したことになる。


◎「草木も眠る丑三つ時」
丑の辰刻(午前1時〜3時)の三刻目をいい、現在の午前2時頃ということになる。


さらに『延喜式』によれば、宮中では十二辰刻が太鼓の音によって知らされたとされている。その数は子の時が「九つ」で、順次、一つずつ減らして巳の時の「四つ」までくると、再び午の時では「九つ」打ち鳴らし、同様に順次、亥の時の「四つ」になるまで一つずつ減らしていく。


◎「お八つ」
「子(ね)の九つ」は真夜中となるため、単に「九つ」といえば、昼間の午(うま)の「正刻」である正午(しょうご)を意味した。昔は1日2食が普通だったので、八つ時(午後2時)に軽い間食をすることを「お八つ」というようになった。今日では午前中に取る間食をも「お八つ」と呼んでいるが、厳密にいえば間違いである。




◆不定時法

江戸時代までの一般的日本人の生活時刻は、日の出と日の入りを昼夜の区切りとする「不定時法」であった。暦法における「定時法」の一時(とき)〈一辰刻〉は1日を12等分した長さで、2時間と一定であるのに対し、生活時刻である「不定時法」の一時(とき)は季節によって異なった。つまり、昼夜をそれぞれ6等分するため、夏季の昼の一時は夜の一時よりも長くなり、冬季はその逆となるのである。


◎「明六つ」「暮六つ」とは
卯(う)の正刻「六つ」は夜明け時、酉(とり)の正刻「六つ」は日暮れ時であるという、「不定時法」だった江戸時代までの生活時刻を言い表した言葉である。


◎「お江戸日本橋七つだち」
「暁(あかつき)七つ」とは寅(とら)の正刻のことで、「定時法」では現在の午前4時頃ということになり、夏はよいにしても、冬場は真っ暗な中での旅だちとなってしまう。ところが、当時は生活時刻が「不定時法」であった為、日の出時刻である「明六つ」が季節によって移動した為、「暁七つ」から夜明けまでの時間は、冬至の日であっても夏至の日とさほど大きく違わなかったのである。



●時の鐘

江戸時代には、時刻を知らせる「時の鐘(鐘楼)」が各地に設けられた。鳴らす数は宮中の報鼓(時報の太鼓)と同じ数で、十二辰刻〈2時間〉の真中の「正刻」に鳴らされた。そして、時鐘と次の時鐘との間の時刻は「半」と呼ばれ。

例えば、午(うま・午前11時〜午後13時)の「正刻」は正午の12時で「九つ」であり、半時経過した午後13時は未(ひつじ・午後13時〜午後15時)の「初刻」となるが、これが「九つ半」と呼ばれた。さらに半時経過した午後14時には未(ひつじ)の「正刻」の「八つ」となる。
つまり、町民たちは時の鐘が聞こえたときが辰刻(とき)の始めと考えるようになったのである。


[242] ●新しい野蒜の町の“黎明期”を迎えて Name:道開き Date:2016/01/18(月) 11:43 
東日本大震災から早5年、被災地となったこの野蒜の町もすっかりリニューアルが進んでいます。
昨年5月のJR仙石線の全線開通は、真っ暗闇の中での「七つ立ち」。年末から始まった新小学校や地域交流・物産センターの着工は「明け六つ」。そして現在はというと、辺りの景色が薄っすらと見え始めてきている状態、まさに町の“黎明期”を迎えているのだと思われます。この5月からは、分譲された土地に家々が建ち始めます。

震災が起こる一月ほど前に、岩崎宏美さんのチェコのプラハでのコンサートを扱った番組をBSで見ていて、その中で歌われていた『始まりの詩(うた)、あなたへ』という曲が、やたら心の中に染み入って来てどうすることもできず、震災当日までの間に5、60回も繰り返し聴くことになってしまいました。

その曲が、新潟県中越地震の被災者を励ます為に大江千里さんが作った歌だということを知ったのは、東日本大震災後数ヶ月が経ってからの事でした。そして、この曲の題名の中の「あなた」というのは「私(自分)」のことで、つまり、「神さまからのメッセージを受信していた」のではなかったのかと考えるようになったのは更に後のことでした。

この春からは、新たなる境内地に白鬚神社新社殿の建築が始まります。BSで曲を聴いたあの日以来、『始まりの詩』が流れ続けている中での着工です。自分は、大震災後の神社の再建事業を成し遂げる為に、この野蒜の地の神主の家に生まれて来たのだとも考えています。


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※参考

[104] ●名曲は時代も超えるし、国境も越えていく Name:道開き Date:2011/02/01(火) 17:47 

つい数日前、チェコ共和国の親善大使に任命されているという歌手の岩崎宏美さんとチェコ・フィルハーモニー管弦楽団との、プラハのドボルザーク・ホールにおけるコラボレーションと異文化交流を描いた『 岩崎宏美 プラハに歌う 〜35年目の挑戦 』という番組を見る機会を得ました。BSは、こういったレアな映像を提供して下さるので本当に有り難いです。   

重厚な東ヨーロッパの音楽文化の中にあるチェコの人たちには、日本の歌謡曲は全くと言っていいほどに馴染みの薄いものらしく、岩崎さんがアイドル時代に培った日本独自の芸能タレントの身振り、手振りなどは(本人は意識して押さえぎみにしていたようですが・・・)、初めて目にする不思議で魅力的なものに映ったようです。さらには、トークの際についつい滲み出てしまう、チャキチャキの江戸っ子の下町娘ぶりなども、親しみやすい人柄として受け取られていた様でした。

現在、日本独特の“アイドル文化”はアニメと一緒になって、アジアからアメリカへ、そしてヨーロッパへと広がりつつあるようですが、保守的で、伝統色の強い東ヨーロッパ方面にも次第に伝播していくことは間違いないでしょうし、インターネットが普及している今日では、おそらく若い人たちほど簡単に飛びつくことになるでしょう。 戦後の日本に、ジャズやポップスが入って来た時のように。

選曲も良かったです。オープニングに使われた小坂明子さんの名曲『あなた』も良かったし、岩崎さんの代表曲の一つになるであろう『始まりの詩、あなたへ』も感動的でした。作者の大江千里さんが、こういった曲を書ける方だとは想像もしておりませんでした。(「 失礼 ! 」) おそらくは、高位の音楽の神様が降りてきた状態で作られた曲なのでしょう。
欲を言ったならば、『竹田の子守歌』のような日本独特の古い旋律の曲なども披露して欲しかったです。

聴衆の中には、“東京オリンピックの華”と謳われた女子体操のチャスラフスカさんなどもいらっしゃって、涙ながらにコンサートでの感動を語られていたのも印象的でした。


年末、やはりBSで、『今夜よみがえる! 夢の紅白名歌手たち 名勝負・名対決』という特番が放映されたようです。録画して、年が明けて時間に余裕が出来た頃に見てみましたが、田端義夫さんの『島育ち』、三沢あけみさんの『島のブルース』にハマってしまい、繰り返し、古い白黒画像に見入っています。どちらも、自分が3、4才の頃に流行っていた曲のようなのですが、島唄系の曲ということもあってか、やたら懐かしさを感じます。

去年の『紅白歌合戦』も録画したものを見ましたが、朝ドラ『ゲゲゲの女房』の数々の名シーンがスライドされて映し出されたのには甚く感動しました。NHKもシャレた試みをして下さるものだと感服した次第です。


[241] ●運勢 2016 Name:道開き Date:2016/01/01(金) 07:25 
今年の立春は2月4日の18:56頃で、この日から「節入り」となります。

旧暦の「節切り」(二十四節気の)では、立春が一年の始めとされ、“年変わりの節気” と呼ばれています。 立春は雑節の基準日でもあり、八十八夜、土用、二百十日などは立春から起算されます。
“運勢学”上の「九星」も、この時刻を境に【運勢盤】上を遁甲(とんこう・・・移動)します。つまり、「年回り」が変わるのです。

今年は《二黒土星》の年なので、今回も又、「干支・九星術」の《二黒土星》年生まれの方の、月ごとの特徴を少しばかり挙げてみます。




●《二黒土星》年「二黒土星・寅(とら)」月生まれの女性
〔今年は、2月4日の18:56〜3月5日の12:46までに生まれる女性〕

・外見的に三つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】海老名美どり、藤田ニコル、山田まりや
【Bタイプ】マリアン、こずえ鈴
【Cタイプ】酒井法子、優木まおみ

・・・・といった方たちです。

・表面は従順で如才なく振る舞い、非常に誠意ある態度をとり、親切であるが、一端何かあって激怒すると、一歩もさがらない烈しい気質を持っている。
・強い感受性を持ち、勝ち気で負けず嫌いな為、意地によってよく学び、研究熱心なところがある。
・苦労性ではあるが家庭を大切に守り、子供の為、夫の為によく働く人です。



●《二黒土星》年「一白水星・卯(う)」月生まれの男性
〔今年は3月5日の12:46〜4月4日の17:32までに生まれる男性〕

・外見的に四つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】豊川悦司、ユースケ・サンタマリア、つぶやきシロ−
【Bタイプ】横山やすし、香川真司(サッカ−)
【Cタイプ】佐藤健、筒井道隆、木梨憲武
【Dタイプ】西島秀俊、羽鳥慎一(アナウンサー)

・・・・といった方たちです。

・自尊心高く、計算強く、自分に利となる人とは如才なく付き合うが、利にならない人とは付き合おうとはしない。
・お世辞や愛想で物事を進めることを好まず、出世や功績を求める人ではない。
・内心ではあれこれと焦るが、行動が伴わないため、熱意のない人と見られがちである。
・地味に働く方で、企画立案にも優れているので有力な人に認められると責任を持って頑張るので成功する。
・割に苦労性で思慮深いし、誠実な性格である為、晩年は安泰である。子供の面倒をよく見る人です。
・苦労をいとわない女性を妻に迎えることが肝心である。



●《二黒土星》年「一白水星・卯(う)」月生まれの女性
〔今年は3月5日の12:46〜4月4日の17:32までに生まれる女性〕

・竹内結子、純名里沙、松田聖子、松村和子、西野カナ、仁科亜季子、川原亜矢子、木村多江、芳村真理

・・・・といった方たちです。

・正直で潔白な人が多く、物事丁寧に扱うが、時折小心でデリケートな性格をみせることもある。
・自尊心高く世俗的なものは好まず、割に高尚で高価なものを欲し、着飾ったりして優越感に浸り、心を慰める、涙もろい面をもっている。
・センスもあり、美的感覚にも優れているので、趣味にあった仕事をすれば、目先を利かして最後までやり遂げる。
・人の面倒をみるのは上手である。
・夫の前でも他人行儀的な側面を出したりする時があるので注意が必要。
・時として価値の低い人に魅力を感じたりする場合があるので注意が肝要です。



●《二黒土星》年「九紫火星・辰(たつ)」月生まれの男性
〔今年は4月4日の17:32〜5月5日の10:37までに生まれる男性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】国広富之、玉山鉄二、前原誠司(国会議員)、ココリコ田中
【Bタイプ】冠二郎、団しん也、高田延彦(レスラー)

・・・・といった方たちです。

・自信過剰のきらいがあるが信念は貫くところがあり、良いアイデアも持ち合わせている。
・先天的に先見の明を持っており、事態の成り行きを上手にキャッチする。
・頼まれると安易に引き受けるお人好しの所がある為、欺される一面を持っているので注意すること。
・与えられた仕事に対しては誠意を持って尽力するので上司や事業主に受け入れられる徳がある。
・金儲けは上手なので若い時は酒色に溺れやすく身体を壊すことがある。
・気分屋の面があり、好き嫌いが強いため、生活や仕事も安定し難く浮き沈みを繰り返す傾向が見られる。
・人の話はよく聞くが、時として自分の主張を強く通して後で後悔することも多いので、短慮は慎んだ方が良い。



●《二黒土星》年「八白土星・巳(み)」月生まれの女性
〔今年は5月5日の10:37〜6月5日の14:42までに生まれる女性〕

・島田陽子、井上和香、真鍋かおり、裕木奈江、中嶋朋子、田中麗奈、南明奈、夏菜、光浦靖子(オアシズ)、大久保佳代子(オアシズ)

・・・・といった方たちです。

・手先の器用な人が多く、神経は細かで、独創力に富んでいる。
・話し方は上手な方ではなく、意識的に飾る気質がある。
・外見はおとなしそうに見えるが、意地張りな所があって、自説を曲げない面も持っている。
・堅実な性格を持ちながら、行動がそれに伴わず、逆の方向に走りがちなところがあるので注意が肝心です
・心労を背負った人が多いが、家庭の主婦となれば愚痴を言わず、家族を大事にする。



●《二黒土星》年「六白金星・未(ひつじ)」月生まれの女性
〔今年は7月7日の00:52〜8月7日の10:43までに生まれる女性〕

・岡崎友紀、田中律子、広末涼子、壇れい、高木美保、高見知佳、朝丘雪路、研ナオコ、桂銀淑、愛内里菜、俵万智(歌人)、倉田真由美(漫画家)

・・・・といった方たちです。

・理知的なセンスを持っている反面、嫉妬心や懐疑心もある為、気迷いするところがある。
・責任感はあるが余計な心配をしたりするので却って周囲の人たちを困らせたりする人もいる。
・気迷いするため、即断ができず、自分の風評を気にする方で、腹を立て烈しく相手を罵倒したりするところがあるが、悪意を持たないため憎めない人物でもある。
・干渉されたり、忠告されることを嫌がる方で、迷いながらも自分のペ−スを守る。
・家庭での子供のしつけも自分流にもってゆき、地味な方であるため貯蓄もする。



●《二黒土星》年「五黄土星・申(さる)」月生まれの男性
〔今年は8月7日の10:43〜9月7日の13:48までに生まれる男性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】風間トオル、田宮二郎、山中伸弥(教授)、筧利夫、みのもんた、小澤征爾、関根勤、羽田孜(元総理)、円広志、宇梶剛士、杉良太郎、須田慎一郎(ジャーナリスト)

※この推命が、須田さん生誕の謎の解明につながれば、幸甚の至りに思われます。

【Bタイプ】岡田将生、ディーン・フジオカ、萩原聖人

・・・・といった方たちです。

・理論的な真面目さがあり、高い理想をかかげて独創性を発揮する反面、心意気だけに先走るきらいもある。
・積極性はあまりない方で、行動は鈍く不器用であり、物事面倒くさく考えて投げやりなところがある為、目上の受けはよくない。
・真面目が取り柄であるので、人に嫌われることが少なく信用される。
・案を考え出す力量にすぐれ、人つきあいも如才なくやるが、腹を立てると必要以上に態度に表し、反対におだてられるとその気に乗りやすい面を持っている。
・仕事は熱心に頑張り、最後までやり遂げ、金銭的計算も強く、それなりの財を築く人である。
・おだてられるとすぐにその気になりやすい欠点があるので、中年以降は特に注意が必要である。



●《二黒土星》年「四禄木星・酉(とり)」月生まれの男性
〔今年は9月7日の13:48〜10月08日の05:36までに生まれる男性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】朝青龍、松坂大輔(野球)、桂小金治、KAN
【Bタイプ】岡田真澄、村井国夫

・・・・といった方たちです。

・素朴で寛大でお人好しであるが、金銭的な利害関係になると、人が変わったように持論を押し通すところがある。
・努力家で几帳面で周囲との調和を重んじ、気の合う人には相談に乗る。
・世渡りも上手で、人気もあり、飽きない雰囲気を作るのも上手である。
・苦手な人の前では無口となりやすく尻込みするところがあるので、大事なことを決める場合、迷うことになるので注意した方がよい。



●《二黒土星》年「四禄木星・酉(とり)」月生まれの女性
〔今年は9月7日の13:48〜10月08日の05:36までに生まれる女性〕

・竹下景子、榎本加奈子、酒井若菜、夏川純、IMALU

・・・・といった方たちです。

・明朗でやや地味なところはあるが流行を取り入れる個性を持っている。
・保守的な人が多く、自分の気に入った雰囲気では陽気になれるが、自分の気に入らない場所になると陰気な人になりやすい面がある。
・どんな仕事でもよく働くので目上から愛顧を受ける。商売には割に向いている。
・迷い気があるので決断力に欠ける面はあるが家計のやりくりは上手にやる。安物買いの銭失いにならないように用心が必要です。



●《二黒土星》年「三碧木星・戌(いぬ)」月生まれの男性
〔今年は10月08日の05:36〜11月7日の08:53までに生まれる男性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】三田村邦彦、矢部浩之、風見しんご
【Bタイプ】渡辺いっけい、蟹江敬三、平田満

・・・・といった方たちです。

・明朗活発で機転が利き、人から誉められたり、おだてられたりすると気分をよくして、何でもしゃべってしまう欠点がある。
・自分の現状を巧みな言葉で話をするが、低級なことや汚れた事を極度に嫌うため、友人は片寄ったものとなりがちである。
・若い時は浪費癖があるけれども、年と共に締まり屋となって財を積むようになる。
・趣味や好奇心に燃え、多芸に通じたり、いろいろな資格を取ったりする面を持っている。
・外見を飾るところがあり、体裁良く見せようとしたり、流行を追うところが見られる。
・些細なことでも気にするところがあり、交際上の言葉に注意しないと失敗することになるので、調子に乗らないことが肝要である。



●《二黒土星》年「二黒土星・亥(い)」月生まれの男性
〔今年は11月7日の08:53〜12月7日の01:51までに生まれる男性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】岡田准一(V6)、松平健、小島よしお
【Bタイプ】大野智(嵐)、林家正藏(こぶ平) 、寺門ジモン(ダチョウ倶楽部)


・・・・といった方たちです。

・一般的にワンマンな人が多く、自分が気に入ったことには精力的に対処したりするが、人を見下す悪い癖があるのが欠点です。
・若い時代は妥協性に欠け、自己中心的であるので野心家と見られやすいが、根は優しく、お人好しの所がある。
・一途な気質で真っ直ぐな性格でもあるので剛情者と見られやすいが、向上心が旺盛なため一度や二度の失敗は苦にしない。
・よい協力者、配偶者を得ることが大切である。



●《二黒土星》年「二黒土星・亥(い)」月生まれの女性
〔今年は11月7日の08:53〜12月7日の01:51までに生まれる女性〕

・外見的に三つのタイプに分けてみます。

【Aタイプ】あべ静江、松島尚美(オセロ) 、中田喜子、ラブリ
【Bタイプ】小林幸子、壇密
【Cタイプ】春川ますみ、小池栄子

・・・・といった方たちです。

・柔和で聡明な考えを持ち、目先が利き、他人のために骨惜しみなく動く人である。
・美的センスにも富み、見栄っ張りの面もあるが、思慮深いため並外れたことは好まない。
・話し上手で、聞き上手なタイプであるので人望を集める人もいる。
・妥協は嫌いな方で、一本気の面がある。
・家族を大切にする人である。


[238] ●「山風蠱(さんぷうこ)」 Name:道開き Date:2015/11/23(月) 15:54 
下の書き込み〔237〕に続きます。
「闇の支配」というものは、余り日の当たらない、風通しの悪いジメジメしたところで起こります。そういった所では、物が腐り、虫が湧き易くなるからです。

中国発祥の思想の根本には、「易」などの『陰陽五行思想』があると考えられます。現在では、長期に渡っての共産党一党独裁による“思想破壊”により、極めて希薄な状態になっているのも確かです。

『易経』の六十四卦(か)の中に、この「腐敗」の状態を説明している「山風蠱(さんぷうこ)」〈第十八〉という卦(か)があり、取り上げてみたいと思います。

「風、山下に止まる」「獅子身中の虫」「禍転じて福となす」

卦(か)とされます。



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★『易経』について

「易」という文字は、「トカゲの象形文字」から来たものとされている。トカゲは一日に十二回も色を変えるとされ、世の中や人生についても、常に“変化”して止まないものと捉える。

B.C.3,000年以前の人頭蛇身の伝説の王・伏犠(ふくぎ)が、陰と陽との組み合わせにより「八卦(はっけ)」〈乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤〉を生み出したとされている。その八卦を解析することにより、B.C.1,000年頃の周の文王が「彖辞(たんじ)」を作り、息子の周公が「爻辞(こうじ)」を掲げた。B.C.6世紀に、孔子が、それに「十翼(じゅうよく)」を加えて『易経』を大成させたとされている。

※「彖辞(たんじ)」とは、「断」と同じで、短くその吉凶を説明した言葉のこと。「卦(か)辞」ともいう。

※「爻辞(こうじ)」とは、六十四卦(か)の各六爻(こう)について、その変化を説明したもの。

※「十翼(じゅうよく)」とは、「彖辞」と「爻辞」に関する十種の解釈書のこと。


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この「山風蠱(さんぷうこ)」の「彖(たん)辞」は、

「蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る。大川を渉(わた)るに利(よ)ろし。甲(こう)に先立つこと三日、甲に後(おく)るること三日」



(解義)

「蠱(こ)」は、蠱惑、蠱敗、蠱害などの、蠱(こ)であり、皿の上に虫が三つあるように、物の「腐敗」「壊乱」の意味がある。

「卦(か)象」は、下卦(か)が「巽(そん)」〈風・信用・旅行・往来・宣伝・交渉・迷い・長女・・・・・〉、上卦(か)が「艮(ごん)」〈山・変化・蓄財・止まる・少男・親族・強欲の人・・・・・〉で、「動くべき巽風が艮止されて閉塞されている」象である。即ち「風が流通を止められれば物腐敗に至る」のである。また「巽の臭気ある物が艮の箱の中に止められている形」であり、いずれも「腐敗」の意がある。

人事にとれば「艮は少男とし、巽を長女とするより、年少の男子の下卦に(内部、心の中に)年上の女が伏入し、艮男が惑って(巽)いる」象である。食物でも腐敗し始めが最も美味しいものだ。それが「蠱惑」の意となる。

「蠱(こ)」の「敗れ」「壊乱」の状態に至ると、これを正しく整える機運が生ずるのは、「陰極まれば陽に転ずる」の理であり、これが「大川を渉るに利ろし」である。換言すれば、「蠱敗」はただ手をこまねいて放置することなく、大川を渉るように、大きな対策の手を打ち物事の刷新を計っていかなければならないのである。

そして、そのような処置を新たにする時には、吉日を選び、また丁寧に慎重に行うべきである。
「甲(こう)」は、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)の始めであり、「甲に先立つ三日」とは「辛(しん)」で、「後(おく)るること三日」とは「丁(てい)」である。即ち「辛」は「新」に通じ、「丁」は「丁寧、丁重」の意である。物事の「腐敗、敗れ」を整えて新しく事を始めるには、既往、過去を知り、先を見通して丁寧に物事を運ぶべきなのである。




※参考 「呪詛祓い」

陰陽道の呪詛(すそ)には、動物の魂魄(こんぱく)を操作して相手に飛ばす「蠱毒(こどく)」と、人形(ひとかた)や相手の持ち物を使用する「厭魅(えんみ)」の二つの形式があるとされています。
「蠱毒(こどく)」の「蠱(こ)」は、「山風蠱(さんぷうこ)」の「蠱(こ)」と同じで、皿の中で数多くの虫がうごめいている状態を表した字です。

思うに、「蠱毒(こどく)」と「厭魅(えんみ)」の違いは、呪詛(すそ)の方法論の相違に過ぎず、肝心なのは、術者の“呪い心”の強さ、霊力の強さということになるのだと考えます。その“呪い心”に同調する魑魅魍魎(ちみもうりょう)が集まってきて、動き出す。それが『呪詛(すそ)の原理』なのだと考えています。

逆に、『お祓いの原理』とは如何なるものかというと、神々がそれらのモノたちを浄化し、正しい方向へと導いてやることだと考えています。



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★四書五経(ししょごきょう)

【儒教】の経書(政治経済等、世の中の仕組みに関する書)の中で、特に重要とされる「四書」と「五経」の総称。


●四書―「論語」「大学」「中庸」「孟子」
     
●五経―「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」





★朱子学(しゅしがく)

南宋の朱熹(しゅき)によって再構築された【儒教】の新しい学問体系。これは日本で使われる用語であり、当時は、聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして《道学》とも呼ばれた。
人間や物に先天的に存在するという“理(り)”に依拠して学説が作られているため《理学》(宋明理学)と呼ばれたり、また、《宋学》とも呼ばれた。

日本では、「江戸幕府の正学」として武士階級に学ばれ、二宮尊徳(金治郎)などの実学を伴った市井の儒学者が多数輩出されたこともあって、民衆の間にまで広く浸透した。


[237] ●「闇の支配」 Name:道開き Date:2015/11/12(木) 14:01 
『家族喰い』『モンスター』という「尼崎連続殺人事件」を扱った二冊のルポルタージュ本を読ませて戴きました。
家族・親族を金や薬物で縛り付けて、拉致、監禁、身内同士を互いに見張らせ密告させたり、暴力を振るわせたりして、恐怖による“闇”の支配を行なう。警察の「民事不介入」の原則を巧みに利用して、事の一切を身内同士の争い事として済ませようとしました。

これが組織的に行われた例が「オーム事件」であり、「ブラック企業」などといったものも似たようなや“闇”の勢力の一部なのでしょう。

それを国家にまで拡げれば、スターリン時代のソ連であったり、毛沢東時代の中国ということにもなるのでしょう。どちらの国も2,000万人に及ぶ自国の民を粛正したとされています。そのやり方は、角田美代子が行った手口とさほど違わないでしょう。ポルポト政権下のカンボジア、北朝鮮なども同じです。「悪しき政治体制」は「連続殺次子事件」の悲劇を遙かに凌ぎます。

他民族に対してだったらいい、それよりも数が少なければいいという訳ではありませんが、ナチスドイツでは、自国民を粛正によって殺害することは無かったようです。


それにしても、今回のNHK『新・映像の世紀』の放送を見て初めて知ったのだが、ドイツが、わざわざ列車まで用意してスイスに亡命中だったスターリンをロシア国内に送り込み、革命を起こさせたということは知らなかったです。
「世界史」は、学生時代には最も好きな教科だったが、やはり近代史の部分はあまり詳しく教わりませんでした。というか、国家同士の「国喰い」のような“闇”歴史について学校が詳しく教えるわけがありません。

恐らくは今この時にも、日本国内の様々な所には、敵対する隣国から数多くの民間人に扮したエージェントが送り込まれていて、様々な地下工作活動が行われているのでしょう。公安警察には頑張っていただかないと、日本が内側から破壊されてしまいます。

が、その警察も不祥事続きで、連日、テレビのニュースを騒がせているのも現実です。ということは、教育、特に「道徳教育」が国家の基本を形成するということになるのでしょうから、学校の先生たちには頑張っていただかなければなりません。

が、日教組は親ロシア、親中国で反日なのでしょうから、志を高く持つ教師には出来るだけ組合からは距離を置いてもらいたいものです。

何か、昔話の「ねずみの嫁入り」「風が吹けば桶屋が儲かる」のような締めくくりになってしまいました。


[236] ●「好み」 Name:道開き Date:2015/11/11(水) 15:03 
いつでも何度でも聴いていられる楽曲について自分なりに考えてみました。私の場合、「重く」「ハード」ものはどうしてもダメなようです。「軽いタッチで」「シャレていて」「あっさりしていて」「さわやか」、そういった“感じ”のする曲でないとダメなようなのです。


八代亜紀さんの曲ならば、「舟歌」「雨の慕情」よりも「花(ブ−ケ)束」がいいし、

ちあきなおみさんの曲ならば、「喝采」よりも「黄昏のビギン」がいい。


さだまさしさんの曲ならば、「精霊流し」「風に立つライオン」よりも「雨やどり」がいいし、

イルカさんの曲ならば、「なごり雪」よりも「サラダの国から来た娘」がいい。


岩崎宏美さんの曲ならば、「聖母たちのララバイ」よりも「好きにならずにいられない」がいい。

これは「好み」なのでどうしようもないです。


※余談になります。「好み」といえば、 「セイヤ−!!!・・・ I(アイ)、I、I like(ライク) 演歌・・・」 の歌詞で有名な『炎』を歌われている冠二郎さん、過去の年齢詐称について今でもかなり気になされているご様子です。
が、我々お茶の間の視聴者は全く気にしていません。冠二郎さんは冠二郎さんなのですから、何ならば、いっそのこと10才、20才のサバを読んでも全く構わないかとも思われます。冠さんの場合、キャラクターが皆に好まれているのですから。


[233] ●「洞窟おじさん」 Name:道開き Date:2015/10/06(火) 10:20 
BSでドラマを見て非常に考えさせられました。原作者の実話らしい。主演のリリー・フランキーさんについては、「どうして、山田 吾作といった名が似合いそうな、“ザ・日本人的”な顔をしているのに、横文字の芸名を付けているのだろう」とあまり良く思っていませんでした。

映画『そして父になる』とこのドラマを見て、ちょっとしたファンになりました。良い味を出しています。


また、一つの確信を持ちました。やはり子供には、早いうちから『ロビンソン・クルーソー』『十五少年漂流記』の様なサバイバル物を読ませた方がよいということです。生き抜いていく為にはどういった知識が必要となってくるのかを自分で考えられるようになるからです。


そう言えば子どもの頃、野蒜海岸にある不老山(ふろうざん)の洞窟に、一人の浮浪者が住んでいたことを思い出しました。山形県出身の方らしく、いつも、「私ゃ 真室川の 梅の花 コーリャ ・・・ ♪♪」と、山形県民謡・真室川音頭を歌っていました。よって、住民たちは彼のことを“まむろがわ(真室川)”とあだ名で呼んでいました。我々子供たちは、彼の住居であるその洞窟によく忍び入りました。

その後、そのまま行き倒れになって亡くなったという噂が流れました。彼の実名は勿論のこと、野蒜海岸に辿り着くまでの人生は全くもって不明です。


[232] ●「高度経済成長」の功罪 Name:道開き Date:2015/09/25(金) 11:32 
下の書き込み [231] ●日本の組織  にも関連しますが、戦後70年の日本経済について取り上げたNHKスペシャルのシリーズも印象に残りました。

戦後の闇市で、民衆には旺盛な“生産意欲”と“消費欲”があることを見て取り、日本経済は成長すると確信を持ったという、後に「高度経済成長理論」を打ち立てた旧大蔵官僚・下村治。経済成長の起爆剤は「民間企業の設備投資」であるとした。

この時期、日本経済にとっての最大の幸運だったのは、途上国が先進国に生まれ変わる過程でたった一度だけ起こる現象、「人口ボーナス」が到来していたことであった。終戦直後のベビーブームに生まれた世代が働く世代となっており、高齢者、子ども世代が少なく、働く世代は収入の多くを“消費”と“貯蓄”に回すことができた。それによって高度経済成長が促進され、まさに千載一遇のチャンスをうまく生かすことができた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その後、日本の社会は経済一辺倒となり、世界からは「日本人はエコノミック・アニマルだ」などと揶揄されたりもしたし、「公害」問題も発生し、環境破壊が起きた。現在では、この団塊の世代も70才に近づき、間もなく「超高齢化社会」が到来しようとしている。
膨れるだけ膨れ上がらせた経済バブルに、急ブレーキを掛けて破裂させてしまった苦い経験もした。そのことによって逆に、日本の社会は“バランス”を取り戻そうとしているようにも見える。

何事においてもそうだけれども、“急激”だとか、“一極集中”だとかいった、「極端な政策」は良くないのだと思う。その時には良さそうに見えるが、“急激”な事は必ずどこかに歪みを発生させてしまうからだ。どうしてもやむを得ない場合には、“バランス”を取るための「手当となる政策」を周到に用意しておくべきなのだろう。

周辺諸国に脅威をもたらしている超大国モドキ???の中国などは、何事においてもやる事が極端過ぎて、「一人っ子政策」などは後々どういった事態を引き起こすのであろうか。そういった「極端な政策」のしわ寄せは総て民衆に行ってしまうのだ。そうやって事を済ませられる体制だから中国は恐ろしい。
文化大革命により、中国歴代王朝が四千年も掛けて築き上げてきた「陰陽五行説」という貴重な“バランス文化”が破壊されてしまったのだから仕方がないことなのだろうか。どうにかして、もう少しだけでも良いから“バランス”の取れた国になってもらいたいものだ。


[231] ●日本の組織 Name:道開き Date:2015/09/03(木) 12:35 
新国立競技場の建設や大会エンブレムの選考といった、東京オリンピック関連の問題が世の中を騒がせているようです。「グランドデザインの欠如」「責任の所在が不明確」といった、日本の組織が持つとされている欠陥をここでも露呈してしまっている観があります。

平成三年に、戦史、軍事史、組織論、政治外交史を専門とする研究者たちが、ノモンハン事件から始まる、ミッドウェー海戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦といった一連の戦闘を詳細に亘って分析し、『失敗の本質』という一冊の本に纏めあげました。そのことによって得られたた教訓は、概ね以下の通りです。



日本軍の「失敗の本質」とは、組織としての日本軍が、環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなかったことに他ならない。戦略的合理性以上に、組織内の融和と調和を重視し、その維持に多大のエネルギーと時間を投入せざるを得なかった。このため、組織としての自己革新能力を持つことができなかったとしている。

その原因には、日露戦争という過去の成功への「過剰適応」があげられる。過剰適応は適応能力を締め出すのである。
陸軍は「白兵銃剣主義」、海軍は「艦隊決戦主義」というパラダイムを確立すが、その後、第一次世界大戦という近代戦に直接的な関わりを持たなかったこともあって、このパラダイムは「過剰学習」されてしまった。

組織が継続的に環境に適応していくためには、組織は主体的にその戦略・組織を改革していかなければならない。しかしながら、規制の秩序を自ら解体したり既存の枠組みを組み換えたりして、新たな概念を創り出すことは、最も苦手とするところであった。
パターン化された「模範解答」の繰り返しに終始する。それゆえ、戦略策定を誤った場合でもその誤りを的確に認識できず、責任の所在が不明なままに、フィードバックと反省による知の積み上げができないのである。その結果、自己否定的学習、すなわちもはや無用もしくは有害となってしまった知識の棄却ができなくなる。

それから半世紀が経ち、「マネー戦争」に破れた日本は同じ失敗を繰り返してしまった。自己革新能力の欠如という組織的欠陥を露呈させてしまったのである。

いまやフォローすべき先行目標がなくなり、真似るべき手本がなくなってしまったとされている。自らの手で秩序を形成しゲームのルールを作り上げていかなければならなくなった。「グランドデザイン」や「概念」は他から与えられるものではなく、自らが作り上げていくものなのである。新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力が問われている。


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※同様の内容に、“第2の敗戦”とされる「マネー敗戦」を照合させた『撤退戦の研究』という本を、半藤一利さん、江藤彰さんが出されていました。加えて、8月には終戦70年を記念する特別番組が、地上波でも、BSでも数多く放送されていましたので、それらの一部内容を記してみたいと思います。自分が所属している組織に当てはまっているかどうかを考えてみるのも良い事だと思われます。



・「作戦重視、情報軽視」

先ずは作戦ありきで、不利になるような情報は無視された。



・縦割り組織になっていて、「情報の共有」がなされない。



・「失敗に学ぶアメリカと成功体験に寄りかかる日本」

普通、組織というものは、失敗を教訓として伝える為に、必ず、討議が行われる。しかし、それが行われなかった。勝利体験のみが語られ、失敗体験は隠された。というのも、責任問題が生じてくるためである。失敗ほど教訓が含まれているものはないにもかかわらず。



・プラザ合意は「平成のノモンハン」だったと言える。ノモンハンでソ連の火力にコテンパンに叩かれた時、近代戦の何たるかを学べるチャンスだったのに、陸軍は「日本の精神力対ソ連の火力の互角の戦い」ということにしてしまった。



・日露戦争という成功体験の亡霊が、太平洋戦争中の戦略、イノベーション(技術革新)、リーダーシップ、参謀・・・といたる所に顔を出してしまった。戦後の日本も、大量生産、大量販売でチャンピオンになったが、ソフト化・サービス化社会に対応できずに“第二の敗戦”を期してしまった。



・グランドデザインの欠如

トップは長期的計画がないまま開戦を決断した。日常の業務に追われ、長期的な計画を冷静に研究するスタッフがいなかった。日露戦争を戦った明治のリーダーたちはものが見えていた。その3代目たちが傲って国を敗戦に導いた。戦後の傑出したリーダーたちと「マネー戦争」に敗れた経営者たちの関係もそれに似ている。



・これからの製造業の戦いが「ガダルカナル」

「マネー敗戦」の痛みにより、日本経済の強さを支えてきた中小企業がへたりかけている。



・責任の所在が不明確

どれほど失敗してもトップエリートにはペナルティがなかった。誰が見ても負けるはずのないミッドウェー海戦で致命的な失敗をし、その後も失敗を繰り返し続けた南雲忠一中将は第一航空艦隊司令長官のままだった。
ノモンハン、ガダルカナルなどで多くの将兵を失うような無謀な作戦を組み立て続け、失敗の責任は現場の指揮官に取らせて逃げ回り続けた辻政信参謀などは、その後も「作戦の神様」として持ち上げられ続けた。(戦後、辻は国会議員になり、海外視察で訪れた南方のラオスで行方不明になっている。おそらくは旧日本兵に捕まって消されてしまったのでしょう)



・「むかし参謀、いま官僚」

参謀とは、つまるところ完全な偏差値エリートで、広い意味の常識は勉強せず、戦術ばかりを学んで結局、軍事専門家になった人たち。与えられた問題、かならず答えが一つと決まっている問題を解くことには優れているが、自分で何が問題かを発見する能力に欠けている現代の官僚とかなり似ている。



・「エリートは傍流で鍛えられる」「エリートこそ子会社に出せ」「大逸材は傍流にあり」だという。



・「薩長が国を滅ぼし、賊軍が国を救った」

陸海軍とも、薩長閥のエリートが幅をきかせていた。



・「大戦略は政治家しか決断できない」

ヒトラーやスターリン、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、毛沢東などの立てた戦略は、かなり的確だった。



・「撤退戦だけはトップにしかできない」「撤退戦は次に勝つために不可欠な戦略」

うまくパソコンのハード事業から撤退戦をやったのがインテル、キャノン。信長、秀吉といった名だたる戦国武将たちは皆、本当に素晴らしい閃きを持って撤退戦を行った。

地獄の「インパール作戦」で見事な撤退戦をした宮崎繁三郎中将の例もある。
「全員戦死する必要はない。一分でもいいから長く食い止めればいい。ダメとなったらすぐ退がれ」と命じ、第一陣が敵を食い止めている間に、直後の第二陣が陣地をつくる。それで、「これまで」と思った第一陣はいちばん後ろに撤退し、次は第二陣が敵を食い止める。第二陣が撤退しなければならなくなったら、第三陣が食い止める。あまりにも強力な抵抗が連続したため、イギリス軍は急進撃を中止してしまった。

(そして、部下の将兵たちはもちろん、現地の住民たちをも決して粗末に扱うことはしなかった。まさに日本の誇りとも言える軍人です。「ノモンハン」でも、日本軍が一個師団ほぼ全滅しそうだった中、局地的に唯一勝利したのが宮崎部隊でした。まるで戦国の軍神・上杉謙信の生まれ変わりのような人物です。あの「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんも“日本陸軍、最強の将”と語っておられたという。私も、個人的に一番好きな軍人が宮崎繁三郎中将です。)

「硫黄島の戦い」を指揮した栗林忠道中将も、この宮崎繁三郎中将も、エリートというよりは傍流の人だったらしい。

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「上善は水の如し」「水は方円の器に従う」「水滴石を穿つ」「水清ければ魚住まず」の喩えの如く、中国の古代思想は、自然の中における「水」のあり方を重要視する。

政治も経済も、この世の仕組みは総て、“バランス”が取れていて、常に“柔軟”に“流動化”し“革新”され続けていている状態こそが理想的のように思われます。


[230] ●星の導きの“妙(みょう)” Name:道開き Date:2015/08/10(月) 09:38 
下の書き込み [229] ●“幕末 BIG4”   年神様は突然に・・・  に続きます。




◆新撰組 三番隊組長・撃剣師範  斉藤一

以前、ネットで新撰組の斉藤一(はじめ)について調べていたところ、残されている写真を見て「これはほんものなのだろうか、合成ではないのか」と、その日本人離れした異相に驚かされました。サッカーのイタリア・リーグ「セリエA」で首位を独走しているユベントスで活躍する、アルゼンチン代表のテベスのような風貌だったからです。斉藤の警視庁時代の集合写真に取られた姿らしく、かなり信憑性はありそうなものでした。

最初に斉藤一の存在が気になったのは、映画『壬生義士伝』や『るろうに剣心』の中に、極めて重要な人物として登場していたからでした。どうして新撰組の隊士が明治まで生き残り、新政府の元で警察になったのだろうかと。

NHKの大河ドラマ『八重の桜』では、最後まで会津藩と命運を共にし、会津戦争を戦い抜いた新撰組の隊士として、近藤勇や土方歳三以上に詳しく人物像が描かれていました。

その配役にも驚かされました。何と、ドラゴンアッシュのボーカルで、俳優の古谷一行さんのご子息でもある降谷健志さんでした。正直、「何とも、時代劇向きの顔ではないよな〜」というのが率直な印象でした。同時に、「実際の斉藤一もそうだしな〜」とも思いました。

以前から、降谷さんの生年月日はネットで調べて知っていましたが、たまたま斉藤一の生年月日も調べてみたところ、天保15年1月1日(西暦1844年2月18日)となっていました。それを干支・九星術で見てみると、《三碧木星》年「五黄土星・寅(とら)」月生まれで、何と、斉藤一と降谷健志さんとは全く同じ星の生まれでした。

見えない世界というのはこういった風に、全くの無関係にしか思えない二人の人物に、時空を超えた関連性を持たせて動いて行っているようなのです。本当に不思議です。
因みに、同じ星を持つ加藤茶さんも、会津地方ではありませんが福島県の出身です。



●《三碧木星》年「五黄土星・寅(とら)」月生まれの男性

今日の有名人には、外見的に五つのタイプに分けて、

【Aタイプ】アントニオ猪木、田原俊彦
【Bタイプ】北大路欣也、峰竜太
【Cタイプ】小林念侍、グッチ裕三、ケーシー高峰
【Dタイプ】森本レオ、森田剛(V6)
【Eタイプ】加藤茶、降谷健志

といった方たちがおられます。


◎特徴
・性急だがプライド高く、剛情を張る反面、人の世話も焼き、親切心も見せる、一本気な気質を持っている。
・物事ハッキリと白黒をつけたい性格である。
・親和力に富み、自分の信念を貫き通す太っ腹な面があるため、横やりを入れられたり、無視されたりすると腹を立て激怒する。反面、体裁を重んじるところもあるので紳士的な交際もする。
・行動力があり、粘り強さと仕事熱心さがあるので最後まで頑張り、どんな職業でも必ず頭角を現す。
・情熱を常に持っているので若々しさがある。
・迷いをなくし、自重して精進すれば信用も高まり成功する人である。






◆『天地明察』を著した冲方丁(うぶかたとう)氏

平安時代から約1,000年に渡って使用され続けた宣命(せんみょう)暦の誤差を正す為、日本初の国産暦、貞享(じょうきょう)暦を編纂した渋川晴海(しぶかわはるみ・安井算哲)を描いた作品です。

「暦」を題材にして小説を書くくらいの人だし、ペンネームの「冲方丁」も暦用語が使われているし、結構、年配の方かと思ってネットで調べてみたら、三十代の方でした。それも『天地明察』を書いた頃は三十才そこそこだったみたいなのです。外交官を父に持つ帰国子女だということに更に驚かされました。

生年月日をネット検索して干支・九星術で見てみると、
《五黄土星》年「二黒土星・寅(とら)」月生まれの人だったのには特に驚かされました。何と、私と同じ星の生まれの人でした。私とは「暦」つながりでした。
(いつも他人の星の事ばかり書いているので、今回は自分のことも載せます)



●《三碧木星》年「五黄土星・寅(とら)」月生まれの男性

今日の有名人には、外見的に三つのタイプに分けて、

【Aタイプ】徳光和夫、島田洋七、ばんばひろふみ、山崎邦正、谷啓、山本圭壱
【Bタイプ】佐々木主浩、冲方丁
【Cタイプ】志村けん、亀梨和也

といった方たちがおられます。


◎特徴
・素直ではあるが、自分の性分に合わない人とか、仕事に対して合わないものには、はっきりとその可否の意志を現す。
・自尊心が強く、妥協することを好まないので若い時代には気苦労が多いようである。
・地味な考え方をするが、人を見る勘が鋭く、ちょっとした事でも腹を立てる欠点を持つ反面、精神的なもろさも見せる。
・おだてられるとその気になるところがある反面、剛情、片意地な面もあるが、用心深く、独学に励む努力家でもある。
・苦労性であるが、金銭面には執着なく、貯蓄心に欠ける人が多い。
・家庭は妻に任せることが多く、子煩悩なところがある。



因みに、大魔神・佐々木の幼稚園当時の写真を週刊誌で見たことがありますが、私の幼少時の顔と瓜二つで、思わず笑ってしまいました。

更には、昔「ガチョ〜ン」(谷啓さん)で、今「アイ〜ン」(志村けんさん)です。

つくづく、「星の巡り」「縁」といったものは不可思議なものに思えてなりません。


[229] ●“幕末 BIG4”   年神様は突然に・・・ Name:道開き Date:2015/08/07(金) 15:31 
●吉田松陰

文政13年8月4日(西暦1830年9月20日)生まれ。
干支・九星術で見ると、《八白土星》年「四緑木星・酉(とり)」月生まれの人です。


松陰の志を引き継いだ松下村塾の弟子の一人、高杉晋作も、天保10年8月20日(西暦1839年9月27日)で、同じ星の生まれの人です。

因みに、薩摩の大久保利通も、文政13年8月10日(西暦1830年9月26日)の生まれで、同じ星の生まれです。

今日の有名人には、

桂ざこば、小田和正、鈴木雅之、井浦新、ビビる大木

といった方たちがおられます。


◎特徴
・誠実さがあってよく働くタイプの人が多く、片意地を張ったり、欲しい物があると無理してでも手に入れようとする面がある。
・金銭面には強い関心を持ちにぎり屋でケチなところがある。見栄っ張りでもあるので自分のことには出費を気にしないところを持っている。
・自分の気に入った職が見つかるまで転々と変える傾向があるので独立して事業主となる方が向いている。
・家庭では頑固な亭主の人が多い。



松下村塾の弟子の一人、松浦亀太郎が描いたとされる松陰の肖像画を見たかぎりでは、桂ざこば師匠、井浦新さんに似た顔立ちだったようにも思われます。

高杉晋作のざん切り頭の写真像も有名だが、その口元は鈴木雅之さんに似ているようにも思われます。鈴木さんのサングラスを取った目元を一度でいいから見て確かめてみたいです。

井浦新さんも、映画で三島由紀夫役を演じていましたので、そういった方なのでしょう。

小田和正さんだって、コースから外れてしまったことを自分たちのグループ名にしているほどですから、そういった方なのでしょう。




●西郷隆盛

文政10年12月7日(西暦1828年1月23日)生まれ。
干支・九星術で見ると、《二黒土星》年「九紫火星・丑(うし)」月生まれの人です。

今日の有名人には、

平井堅、ルー大柴、石原良純、川合俊一、河野太郎(国会議員)、ロンドンブーツ亮、山口達也(TOKIO)、新庄剛志(野球)、おすぎとピーコ

といった方たちがおられます。


◎特徴
・外見的には、いわゆる“濃い”人が多いように思われる。
・自負心強く、頭脳明晰の人が多いが、トラブルを起こしやすい傾向にある人でもある。
・活動的で、知的感覚にも優れているので、物事に迷うということは少ない。
・仕事に忙殺されていないと落ち着かないところがある。
・先見性を持ち、先を見極めて物事を推し進める力量を持ち、時として自分本位に判断したり、解釈するところがあるが、割合に従順性にも富んでいるので、人からも信頼される。
・仕事は熱心に励むので上司の受けも良いが、人のあら探しや上司のあら探しをすると墓穴を掘る結果となるから注意が必要となる。
・金儲けは上手ではないが、それなりの蓄財はする。



石原良純さん、河野太郎さん、平井堅さんを太らせ、絣の着物を着させて、犬を繋いだ紐をもたせたなら、上野の銅像そっくりになると思われるのだが、いかがなものか。




●坂本龍馬

天保6年11月15日(西暦1836年1月3日) 生まれ。
干支・九星術で見ると、《三碧木星》年「四禄木星・子(ね)」月生まれの人です。

今日の有名人には、外見的に二つのタイプに分けて、

【Aタイプ】竹野内豊、浜田省吾、古谷一行
【Bタイプ】石原裕次郎、磯田道史(先生)、ぼんちおさむ

といった方たちがおられます。


◎特徴
・几帳面な性格で、折り目正しい態度を持っている。若い内は苦労する人が多い。
・淡泊な気性でもあるため、思ったことは胸にしまっておくことができない性なので、すぐに口に出してしまい嫌われることがある。
・進歩的であり、自分と意見を同じくする人とは仲良くするが、自分の意に反する人には抵抗していくところがある。
・人情にもろい面を持っていて、人から嘆願されると相手の願いを聞き入れるところがある。これはこの生まれの人の欠点でもあり長所でもあるので、相手をよく観察することが大切となる。
・親切心のため自分をダメにしないよう心掛け、中年以後の蓄財を心掛けないと、老後を悔いることになるので注意することが肝心です。




●勝海舟

文政6年1月30日(西暦1823年3月12日) 生まれ。
干支・九星術で見ると、《六白金星》年「四禄木星・卯(う)」月生まれの人です。

今日の有名人には、

伊武雅刀、田中義剛、鳥越俊太郎、上條恒彦、志茂田景樹、山本邦昌(サッカー監督)

といった方たちがおられます。


◎特徴
・傲慢なところがあるが活動的能力を持っている反面、怒りっぽく短気な側面も持っている。
・表面は如才なく人つきあいをするが本心は中々見せないで、自分が主役という態度を取り損するところがある。
・頼まれると正義感を出してやるので人に好かれるが、お人好しの所もみられる。
・辛抱強い面を持ち、機知にも富んでいるので、目的達成のためには努力し、頭となる。
・金銭面はツイているので、良い協力者を妻女にすれば相当な蓄財も可能である。女性にモテる性なので注意が肝心です。




※『日本暦日原典』を参考に見ました。

允恭天皇34年・乙酉年正月朔日(西暦445年1月24日)から、明治5年(西暦1872年)の「太陽暦改暦」までの、約1,400年間の年号・年の干支・年の日数・月の大小・朔日の干支・中気と節気・太陽暦に換算した年月日等・・を編纂した書物。


[228] ●「綱引き」神事 Name:道開き Date:2015/07/30(木) 14:22 
明日から二日間に渡って「石巻川開き祭り」が催行されます。陸上での行事は、縄張(なわばり)神社奉納「大綱引き大会」で開幕するとのこと。
縄張神社は、北上川を開削して港を開く際に使用した測量用の縄を納め、「縄張大明神」として祭ったのが起源だという。

運動競技としての「綱引き」とは別に、その祖型とされる、地域社会の年中行事の「綱引き」がある。必ずしも双方の力の強さを競うことのみを目的とせず、あらかじめ勝つ方が決められていたり、皆で綱をただ引きずったり担いだりして地域内を移動するだけのものもある。日本のみならず、東アジア、東南アジア諸国にも広く分布している。



●「小正月」の綱引き

年占(としうら)を目的としている場合が多い。漁民と農民、若い衆と子供、男と女など、地域を二つに分けて綱を引きあい、勝った方にその年の幸がもたらされるとしている。




●「盆」の綱引き

盆の「精霊送り」や「悪霊除け」の意味がある。行事の最後に、綱を川に流したり、寺の境内に綱で土俵を作って相撲を取ったり、地域境に吊したりして「道切り」にしたりする。




●「旧八月十五夜」の綱引き

来訪する神々への「豊作祈願」、月や水神への信仰、「悪霊除け」等の意味がある。綱に稲穂や畑作物をない込んだり、綱の一部を竜蛇の形に仕立てたり、輪にした綱の中に入って月の出を拝んだり、大草履(おおぞうり)や藁人形(わらにんぎょう)を作って高い木から吊り下げたり、道に張り渡したりする。
全国各地に見られる勧請縄(かんじょうなわ)に対する信仰との関連性も伺える。


[227] ●「二十八宿」 −四神との関係とは?− Name:道開き Date:2015/07/25(土) 07:09 
現在、日の吉凶占いとして暦に記載されている「二十八宿」は、もともと月の天空上の位置を示すため用いられたもので、純天文学的なものであった。

太陽が天球上を運行する黄道上に沿って、一周天を二十八の星座に分割した。その各々を「宿(しゅく)」という。

「角(かく)、亢(こう)、氐(てい)、房(ぼう)、心(しん)、尾(び)、箕(き)、斗(と)、牛(ぎゅう)、女(じょ)、虚(きょ)、危(き)、室(しつ)、壁(へき)、奎(けい)、婁(ろう)、胃(い)、昴(ぼう)、畢(ひつ)、觜(し)、参(しん)、井(せい)、鬼(き)、柳(りゅう)、星(せい)、張(ちょう)、翼(よく)、軫(しん)」がある。

星宿(せいしゅく)間の区分は不等であり、二十八宿のそれぞれの西端に位置する、比較的明るい基準点となる星を距星(きょせい)という。





◆二十八宿の由来

もともと二十八宿は、月の天空上の位置を示すために中国で用いられていたものであった。

月や惑星は、黄道の南北各八度の区間である黄道帯の内を運行するので、月が一日にこの二十八星座の一星座ずつに宿っていくという意味である。黄道十二宮が、太陽のその宮に入るときを知って、季節を正すために設けられたのに対し、二十八宿は、月の宿内における位置から太陽の位置を推定し、季節を正していたのである。

月が天を一周するのにかかる期間が約27.3日であり、これを「恒星(こうせい)月(げつ)」という。この間に太陽も動いているので、それに追いつくために「朔望(さくぼう)月」は約29.53日ほどになる。天を二十七か二十八で区分するかで迷うところだが、二十八は四で割り切れるので、二十八宿になったとされている。

この二十八宿は、中国からインドへと伝わって二十七宿となり、主に日の吉凶を知るための占術に用いられるようになった。これが唐代に入って、『宿曜経(すくようきょう)』として逆輸入され、やがて空海によって日本にも伝わった。八世紀初頭の高松塚古墳の天井には、二十八宿の諸星が描かれており、二十八宿そのものは、かなり以前から日本に伝えられていたと推定される。  




◆二十八宿の月・日への配当法

インドで牛宿が除かれて二十七宿となって、日の吉凶を占うものとして中国に逆輸入されてきた為、天文学的意味はなくなり、毎年各月の宿が決められていて、朔日もその宿名で始まり、順に割り当てられるといったものになっていた。閏月に対しては前月の宿名を用いた。この方法だと、毎年の月日に対して二十七宿は一定不変である。

正月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月
室   奎  胃  畢  参  鬼  張  角  氐  心   斗   虚  
  

貞享(じょうきょう)改暦後は、中国流の二十八宿に変更され、配当法も変わった。中国の配当法は、年・月・日に別々に、連続して配当していく。つまり、年に対しては二十八年を、月に対しては二十八月を、日に対しては二十八日を周期に循環していくようにする。




◆「四神(ししん)」との関係

奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ(亀虎)古墳では、四方の壁に四神の壁画が描かれている。そもそも四神とは、東西南北の四方に配当された、それぞれ七つずつの星宿のことである。

●青龍(せいりゅう)  東方七宿 (角、亢、氐、房、心、尾、箕)

●玄武(げんぶ)    北方七宿 (斗、牛、女、虚、危、室、壁)

●白虎(びゃっこ)   西方七宿 (奎、婁、胃、昴、畢、觜、参 )

●朱雀(すざく)    南方七宿 (井、鬼、柳、星、張、翼、軫)


[226] 『老荘思想』 Name:道開き Date:2015/07/11(土) 06:46 
老荘思想は中国で生まれた思想で、道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想として、とりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。

老子と荘子がまとめて扱われるようになったのは、前漢の紀元前139年に成書された百科的思想書の『淮南子』(えなんじ)に初めて見え、これは前漢の頃には信頼できる道家の書物が、老子と荘子くらいしか残っていなかった為ともされている。魏晋南北朝時代の頃の玄学(げんがく)において、『易経(えききょう)』『老子』『荘子』の三玄が合わせて学ばれるようになった。

老荘思想は老子から始まるが、老子はその生涯があまり良く解っておらず、実在しなかったという説もある。「老荘」という名称以前に黄帝(こうてい)と老子とが結びつけられた「黄老(こうろう)」があり、戦国時代から漢初に流行したとされる。


老荘思想が最上の物とするのは「道(タオ)」である。道は「天」と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。


儒教が国教となってからも老荘思想は中国の人々の精神の影に潜み、儒教のモラルに疲れた時、人々は老荘を思い出した。積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられたのだ。

加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行した。「竹林の七賢」(嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)が有名。
老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた。


水や赤子のような柔軟で弱い生き方が本当は最も強い生き方であり無為自然な姿だと
老子は説く。

荘子は、スケールの大きな話が多く、沢山の寓話の中で、無為自然の道(TAO)の生き方について語っている。そして、老子と比較して、荘子には生死の問題に言及しているというところが特徴とされている。





●「無用(むよう)の用(よう)」

あるとき恵施(けいし)が荘子の言説をこう批評した。

「きみの理論は現実にはなんの役にも立たないね」

荘子はすかさず切り返した。

「無用の何たるかを知っている人間だけが、有用なるものについて語る資格を持つのだ。たとえばだよ、われわれ二人が立っているこの大地は限りなく広いが、今われわれにとって必要なのは足を置くわずかなスペ−スにすぎない。しかし、だからといって足の大きさだけ残して、周囲を地底まで掘りさげてしまったらどういうことになるかね。それでも残した部分がわれわれの役に立つだろうか」

「そりゃあ役に立つはずがないじゃないか」

「それみろ、無用なるものこそ真に有用であることがこれでわかっただろう」


〈 『荘子』より 〉





●「上善(じょうぜん)は水のごとし」    

最高の善とは水のごときものをいう。水は万物を助け育てながらも自己を主張せず、誰しも嫌う低きへ低きへとくだる。だから、「道」に似ているといってよい。

 水、それは、位(くらい)する所は低い。心は、深く静かである。与えるに、分け隔(へだ)てがない。言動に、偽(いつわ)りがない。おさまるべき時には、必ずおさまる。働きは、無理がない。時に従って、変転流動して窮(きわ)まることがない。水と同様に、自己を主張せぬもののみが、自在な能力を得る。 

「水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う」といい、「行雲流水(こううんりゅうすい)」ともいう。いずれも水の流動してやまぬところをひいての喩(たと)えだが、老子は水にダイナミックな「不争(ふそう)の徳」を象徴させた。流動するからこそ力を持つと説く。


〈 『老子』より 〉


[225] ●“舞踏”と“武闘” Name:道開き Date:2015/06/22(月) 07:12 
人の行為の「一生懸命さ」を見るのも良いのだけれども、そういった状況を既に通り越してしまった人の、「余裕ある様」を見ているのも実に楽しいものだ。特に、ダンスなどの“舞踏”を見ている時によりそのことを感じる。

熟練者の踊りは、身体から力が抜けているし、首をかしげてみたり、微笑んだり、周囲を見渡したりしながら踊っている様は、自らも踊りを楽しんでいることが分かる。身体が勝手にひとりでに踊っているようにも見える。そういった踊り手の「余裕」が、見ている側にも伝わって来るのが心地よいのだ。それは、思い掛けない「余禄」を得た時の喜びに似ているかも知れない。


“武闘”の場合も同じだと思う。武闘者は身体から無駄な力が抜けていなければいけないし、身体が自ずから勝手に動いているようでなければならない。「突き」や「蹴り」を“出している”内はまだまだで、ひとりでに“出ている”ようにならなければ本物ではない。そうでないと、逆に相手から出てくる「突き」「蹴り」を受けたり、かわしたりできなくなってしまうからだ。つまり、“攻守一体”でなければならない。

又、相手の手や足の動きに視点を集中させてはいけない。ボォーッとしている時のように一カ所に視点を定めない目でいないと、逆に相手の「突き」や「蹴り」を喰らってしまう。少林寺拳法では、そういった物の見方を「八方目(はっぽうもく)」と呼んでいる。

映画『燃えよ! ドラゴン』の冒頭シーンの名ゼリフ 「Don`t think ! Feel」 (「考えるな 感じろ」) に表現されている“タオ〈道〉”(道教)の境地とも共通する。


とにかく、何らかの技術を習得するためには、単調な基本動作を忍耐強く繰り返すことしかないと思われる。それが習い事における王道だと思う。あとは「継続は力なり」で、自ずから技が備わってくるものだ。




★ “神遊び”の境地

“神楽”(かぐら)の構成は、「神迎え」「神遊び」「神送り」の三部分からなる。宮中の御神楽(みかぐら)に対して、民間の神楽を“里(さと)神楽”と呼ぶが、ここでいう神楽とはこの里神楽のこと。

古えの巫女は“神憑り”して託宣をすることが務めの一つであったようだが、“神憑り”に至るための順、逆の回転動作が巫女舞の特色であった。今でも中国地方の大元(おおもと)神楽、荒神(こうじん)神楽などの「出雲流(いずもりゅう)神楽」にはそれが色濃く残っている。

ここでは特に、「神遊び」の境地について考えてみたい。これは、マラソンで言うところの「ランナ−ズ・ハイ」にも似ている。走り始めは心身共に苦しいのだが、そこを我慢してひたすらにただ黙々と走っていると、何とも言えない恍惚としたハイな気分になってくるという。これは山登りなどでも同じらしく、一歩一歩単調な繰り返しをしている内に、周りが冴え渡ってくることに気づくのだそうだ。(これを「クライマ−ズ・ハイ」と呼ぶらしい)

これは、鎮魂、瞑想、座禅などの“行法”とも全く同じ道理で、呼吸を一つ一つ数えている内にトランス状態に入って行く。神さまに我が身の総てを任せきってしまっている状態、つまり、自分の身体が、自分のものなのか、神さまの入れ物になっているのか、判然としない恍惚とした状態が「神遊び」の状態なのだ。この時の心境たるや「うれし、たのし、おもしろし、ありがたし」で、神さまが自分の中に入って遊んでいる状態なのだから、本人の心境も自動的にそういった神心(かみごころ)になってしまう。

次にも、類似した「ことわざ」話を記します。




★『庖丁(ほうてい)の話 』  −荘子より−

ある時、名料理人の庖丁が、梁(魏)の恵王の前で牛一頭をさばいてみせた。
庖丁が牛の体に手をかけて肩に力をこめ、足の位置をきめ、ひざで牛をおさえたかと思うと、みるみる肉が骨を離れていく。あざやかな刀さばきはリズムにのって、まるで「桑林の舞」や「経首の会(しらべ)」を彷彿させる。

「おお、見事、まさに神技じゃ」
恵王は思わず感嘆の声を放った。


庖丁はそれを聞くと、つと刀をおいて恵王の方に向きなおった。
「恐れながら、ご覧頂きましたのは技ではありません。技をきわめた果てにあるものと申せましょうか、道でございます。昔この仕事についた当座は、目にうつるものは牛の外形でした。三年ほどたつ内に、牛の外形は消え失せ、骨や筋(すじ)が見えるようになりました。今ではもう肉眼に頼ることはいたしません。牛に向かうと心が動きます。すでに感覚は働きを止めて、心だけが活発に働き出すのです。その後は、自然の摂理に従うだけです。牛の体に自然に備わっている隙間、隙間を切り裂いてゆく、ですから、大きな骨はもちろん、筋や肉が骨と絡みあっている部分でも刃こぼれすることはありません。

普通の料理人は月に一度、刀を替えますし、腕利きでも年に一度は取り替えます。骨にぶっつけて折ってしまったり、長く使っている内に刃こぼれができるからです。ところがこの刀をごらんください。十九年も使い込んだものです。もう数千頭の牛をさきましたが、いまだに新品同様です。

というのも、骨筋にすき間があり、刀の刃には厚さがない。厚さがないものをすき間に入れるのですから悠々たるもの、ゆとりは充分あります。ですからいくら使っても刃こぼれ一つ無いのです。

しかし、そうはいっても、筋や骨の絡みあっている最後の難所にさしかかると、ここだという気持ちでギュッと緊張します。目は一点にとどまり、動作はしだいににぶって、我ながら、刀が動いているのかどうか解らぬ程になります。やがてバサリと音がしたかと思うと、肉全体が土くれのように骨からはがれ落ちる。ほっと緊張がゆるむ。私は刀をひっさげて立ち上がり、思わずあたりを見回してしまいます。何とも言えない充実感が腹の底から沸き上がって、しばらくはその場を離れることは出来ません。やがて冷静に帰ってから、丁寧に刀をぬぐってサヤにおさめるのです。」

恵王は感動して言った。
「それを聞いて、私は生を全うする道を悟った」


[224] ●「神も仏も」 Name:道開き Date:2015/06/15(月) 09:21 
東日本大震災直後の被災地では、氏子の一部の人から、「神も仏も在るものか」といった言葉を浴びせ掛けられた神職も多かったということを伺っています。私の場合、ハッキリと言葉には出されませんでしたが、そういった態度を示されたことは何度かありました。この様な一大事が起きた時なので、その方の苦境を察すれば、仕方のないことなのかとも思われました。

但し、そういった方たちというのは、往々にして常日頃から信仰心のない方たちが多く、神社とは決して接しようとはしません。なのに、こういった時には、わざわざ私どもの所まで近づいて来て、「それ見たことか、神も仏も在ったものではない」といった言葉を投げつけようとするのです。・・・・

恐らくは、常日頃から不幸に満ちた心持ちで居て、不平不満を抱いた無神論・唯物論的な精神生活を送られている方たちなのかとも思われます。神道に限らず、仏教にしろ、キリスト教にしろ、何らかの信仰を持っている方たちは、決してこういった態度は取りません。


一方、こちら側が「今は大変な状況下にある方たち」と一方的に捉えて、相手の顔もまともに見られないでいる時に、私の顔を見るや否や近づいて来て、「神様に守られました」といった言葉を発せられた方たちもいました。・・・・

そういった人たちというのは、やはり常日頃から信心深い方たちでした。「神仏は常在しておられるのだが、今回はたまたま被災することになってしまった」「家は失ったけれども命は守っていただいた。今後も神仏の守護をお願いしたい」と考える方たちです。


今回の震災に限らず、何らかの一大事が起きた時というのは、常日頃の宗教活動がどれだけ有効、かつ親和的に行われて来たのかが問われる時なのだということを、つくづく思い知らされました。今後とも“神明照覧”、神職として日々の活動に励んで行きたいと思います。


[223] ●ファンタジスタ Name:道開き Date:2015/05/31(日) 15:29 
プレーで観客を魅了するサッカーのストライカーを意味するイタリア語だということだ。試合の途中で投入された場合などは、突然、チームが上手く機能し始めて、まるで別チームのようになってしまうのを目の当たりにすることがよくある。女子サッカーの日本代表でいったなら、澤選手や大儀見選手がそれに当たるのだろうか。

かといって、一見地味なようではあるが、宮間選手のような手堅く試合を組み立てて作っていく選手や、相手の攻撃を確実に潰しいくディフェンダーの選手達、勿論、守護神になるキーパーだって重要な存在には違いない。11人で行うのがサッカーなのだろうから。たまに10人、稀に9人になることもあるようだが。

これは如何なる世界においても等しく言えることなのだろうが、神懸かり的な閃きを持ったファンタジスタも、手堅い職人仕事を得意とする人たちも、どちらも必要不可欠なのだと思う。ファンタジスタばかりが大勢いてもチームとしてうまく機能しないこともある。ファンタジスタだらけのブラジルはよく、ファンタジスタ不在かとも思われる地味なドイツにこてんぱんにやられている。つくづくサッカーは奥が深いスポーツだと思う。総合プロデューサーとしての監督の力量が問われるところだ。


もう一つ、歌のファンタジスタについて。年若いアーチストにしろ、年配のベテラン演歌歌手にしろ、洒落たジャズシンガーにしろ、ステージの中央へと歩き進んで聴衆にお辞儀をして、歌い始めるや数秒もしない内に聴衆のハートを鷲掴みにして、その人の歌の世界に引きずり込んでしまう、まるで伝説のローレライのような歌手がいる。こういう人は或る種のシャーマンなのだと思う。

笑いのファンタジスタを挙げるとするならば、やはり、コロッケさん、江頭(エガ)ちゃん、(上島)竜兵ちゃん、ということになるのだろうか。笑いの職人といったならば、サンマさん、松っちゃん・・・・・かな。


[222] ●「歴史に光りを当てる」 Name:道開き Date:2015/05/14(木) 16:30 
昨夜、NHKの『クローズアップ現代』で第442連隊について放送していました。この掲示板でも何度か取り上げてきましたが、非常に喜ばしいことだと思います。

私としましては、第442連隊の元兵士で、ハワイ州選出上院議員ダニエル・イノウエ氏が、東日本大震災発生の1ヶ月後に“トモダチ作戦”をおこなう米陸軍に同行するかたちで、当社から数百メートルしか離れていない野蒜駅までお越しになられたことに、並々ならぬ神縁を感じてならないのです。


彼らは、アメリカの国民に知ってもらうことは勿論、恐らくはそれ以上に、親たちの祖国である日本の国民にも、自分たちの負わされた辛い思いや苦しい体験を知ってもらいたいのだと思います。その事が彼らを成仏させることになるのだとも思います。日本で、このまま何もなかったことにされてしまうのであれば、余りにも口惜しいことだと思われるに違いありません。


終戦70年を迎えるこの年に、天皇陛下が、かねてからの念願であったとされるペリリュー島を慰霊されたことは非常に喜ばしい事でした。同様に、他の戦地で起きていた出来事に光りを当て続けることも極めて重要なことに思われます。



★参考

〈過去のメッセージはこちらです〉の【13】【14】【15】に掲載されている

[110] ●第442連隊戦闘団   Date:2011/03/06(日) 20:26

[134] ●“トモダチ作戦”  Date:2012/02/05(日) 18:56 

[139] ●あれから一年@  Date:2012/03/04(日) 15:45 

[159] ●一枚の報道写真から  Date:2012/12/19(水) 15:31 





[110] ●第442連隊戦闘団   Date:2011/03/06(日) 20:26

昨年の11月、日系アメリカ移民の三世代に渡る苦難の歴史を描いた大河ドラマが5夜連続で放映されました。ご覧になった方も多いかと思われます。

その中で、ヨーロッパ戦線に投入された、日系アメリカ人のみで編成された第442連隊戦闘団についても描かれていました。日系人部隊が存在したことは以前からおぼろげには知っていましたが、余りにも無知であったことが同胞として恥ずかしくさえ思われました。

アメリカ合衆国の歴史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名で、現在のアメリカ陸軍では、第442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっているそうです。

なお、部隊の合言葉であった"Go for broke!"(「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」)は、後に第442連隊戦闘団を描いたアメリカ映画の題名にもなっています。

442連隊の元兵士、ハワイ州選出上院議員ダニエル・イノウエの原作を元に、邦画として、渡辺謙監督 (現在ではハリウッド・スターとも言えそうで、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』では、硫黄島守備隊司令官、栗林忠道中将役で主演しています) での映画化の話が進行しているということです。

2010年製作の「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」(監督:すずきじゅんいち)は、元兵士の証言をまとめた日米合作のドキュメンタリー映画で、2010年の「第23回東京国際映画祭 日本映画・ある視点」に正式招待作品として上映後、日本公開が決定しているらしい。




以下に、インターネットで調べた第442連隊戦闘団の略歴を記します。

アメリカ本土とハワイ出身の日系二世の志願兵から成る連隊は、編成当初、背景事情の違いから対立は深刻だったらしく、そこで上層部は、双方の対立を解消すべく、ハワイ出身者に本土の日系人強制収容所を見学させることにした。彼らは当初「自分達と同年代の女の子達に会える」と喜んでいたものの、私財を没収された上、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、如何に本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった。

1943年イタリアに上陸した連隊は、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げた後、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍している。ローマへの進撃の途上で激戦地を突破し、ローマを目指したが、軍上層部の意向によってローマを目前にして停止命令が出され、後からやってきた白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。結局、部隊はローマに入ることを許されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた。

その後フランスに移動させられアルザス地方の山岳地帯での戦闘を行う。戦後のブリュイエールの街では、部隊の活躍を記念して、通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。1994年には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。

442連隊を最も有名にした、第34師団141連隊第1大隊(アメリカ陸軍の象徴とされた「テキサス大隊」)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。

フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。

1946年、トルーマン大統領は442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、'You fought not only the enemy, you fought prejudice---and you won.(諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。)'と言及し讃えている。

2010年(昨年)10月にオバマ大統領は、442連隊戦闘団と陸軍情報部にアメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。

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