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[142] 本当に霊だったのか・・・ 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/25(Fri) 20:38

こんばんは。
[140]に書き込みした“多重人格症”かなと思われた少年からたった今電話があり、私と会って話をしたあの3日後に、憑いている霊が自ら出ていったという連絡を受けました。お守りを受けた当時は、「この中にはお前を殺そうとしているものが入っているんだ」と言って、袋の中の御神体の部分を投げ捨てるように言って聞かなかったそうです。そんなこんなしている内にあきらめた様で、少年の父親に対し、「9人の人間を殺したというのはウソだった」と詫びて自分から出て行ってしまったそうです。今日まで連絡しなかったのは、また戻ってくるかもしれないのでそのことを確認してからと少年が思ったからなのだそうです。
でも、本当に良かったですね。


[141] 「サムライ・ドライブ」 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/24(Thu) 16:10

最近、ヒトミさんが歌う「サムライ・ドライブ」にハマッてしまっているおじさん神主の私です。最近の曲は素直にいいな−と思える曲が本当に少ないんですが、この曲は実にいい曲ですね。若かりし頃の自分にタイムトリップしてしまいそうです。
それに何かあの曲、歌い方には、“和”といったものが今の若い人達に受け入れられて行くためのエッセンスなり、今後のヒントなりがいっぱい詰まっているような気がするのですが。いかがなもんでしょう?
・・・・・それともヒトミさん個人の魅力に参ってしまっている単なるおじさんの思いこみでしょうか。(笑)

ジャポニズム(日本趣味)のたけなわだった頃(19世紀中頃)のヨ−ロッパのオランダ王宮の社交の場は、ドレスに“日本の着物”を羽織る淑女たちでいっぱいになったと云います。その為に急きょ、禁止のための法令が出されたりもしたのだそうです。ちょうどヒトミさんの着物の着こなしのような(?)様だったのでしょうか。
つまり、今の若い人達の“和”に対する受け入れの手法は、かなり西洋人的なのではないでしょうか。つまり、伝統がどうのこうのというよりも、良いものは良いといった受け入れ方です。だから、茶髪(ちゃぱつ)の“津軽三味線”奏者や、ヘソ出しルックの“民謡”歌手みたいな人達が大勢現れています。・・・・グロ−バリゼ−ションが進んで不思議な時代になったもんだとつくづく感じる今日この頃です。


[140] ごく最近あった“憑(つ)き物”の話 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/24(Thu) 08:32

●昨年の暮れのことです。ある女性に、とある所で引き合わされました。彼女は私にあった瞬間に突然、「オイ、オイ」と泣き出しました。年齢は五十代後半かと思われました。話を伺うと、以前よりある宗教に通っていたのだそうです。そうして修行などしている内に、神様が見えたり、雅楽の音色が聞こえてきたりするようにもなったといいます。しかし、ごたぶんに漏れず、多額の金品を教祖から請求され、拒んだりすると様々な形でいじめを受けたりするようにもなったとのこと。やがて、自分では“神”を名乗る変なモノ(もしかして教祖の生き霊かもしれないとのこと)を憑(つ)けられてしまったのだそうです。そうして、どうすることも出来ずに助けを乞うて来たということでした。

その時には、私としましては「あなたに憑いているのは低級の神(モノ)だから、たいそうな神さまだとは決して思ってはいけない。神様に変な関わりかたをしてはいけません。行だとか瞑想だとかに凝って、廃人同様になっている方は世に結構多いのだ。神様を敬いながらも、何よりもこの世のことに正しく全力を尽くして頑張っていって下さい。」といった内容のことを指導しました。

年が明けてからまたその方にお会いして話を伺いました。すると、その神なるものがなかなか自分から去ろうとしないのでお祓いしてくれとのことでした。またも泣きながらの懇願だったので、可哀想にも思いましたので一応“ご祈祷”を引き受けました。その日は神社に戻って、ご神前で祈祷を行い、翌日、仲介にたった人に御祈祷した「お札」と「お守り」を渡し、神様のお守りを請う際の「唱え言葉」を書き記した紙を渡しておきました。

約一週間が経ち、その本人の女性から電話が入り、ご神前でご祈祷を受けたいとのことでした。そして、詳しくお話を伺ったところ、ご祈祷を受けて以降、非常に楽になり、憑いているモノ(神?)も「白鬚さまのご神前でご祈祷を受けられれば体から出ていく」と言っているのだということでした。そうしてご祈祷を終えました後に、状態を本人に伺ってみますと、体からそのモノ(神?)が離れていったとのことでした。

神様だ、神事だといって変な関わり方をするとこんな事になってしまいます。皆さんの身近でも、コックリさんをしている内に低級霊に憑かれて大騒ぎになったといった話を耳にしたことがありませんか?それと全く同じことです。こんな苦しみを味わうんだったら、かえって無神論者の方がよっぽど幸せということになってしまいますよね。

●もう一つ、こちらは一週間ほど前、仙台に住むという19才の少年から電話がありました。昨年の暮れから、自らが“9人の人を殺したんだと語りかけてくる霊”が体の中に入り込んでどうすることもできずにいるとのことでした。自分の体を使用して文字を書いたりもするのだということです。いろいろ話を聞いてそれなりの対処方法を教えていましたら突然、電話口にその男(霊?)が現れて来てしゃべり出しました。「俺はこいつから決して離れないからな」と全く別人格の口調で訴えてきました。こちらもビックリはしましたが、或る種の“祓い詞”を唱えて対抗しましたところ、そいつは苦しみもがきだしました。

その少年はもともと霊媒体質で、あまり誉められた日常生活は送っていなかったとのことですが、最近、遊び友達と「俺は人を殺したやつとも仲良くやっていけるんだ」と話し合ったその直後の出来事だとのこと。そして、憑かれた直後はどんなモノに憑かれているのかも判らずに、この霊と共に人助けをするんだぐらいに高をくくって、いい気になっていたのだそうです。
あの世のモノとの関わりは安易に持たないほうがいいのです。低級霊に入り込まれます。是非会ってその憑いている霊の話を聞いて欲しいと云うことでした。

翌日、その少年に直に会いました。
何よりも神社を汚したりすることが嫌だったので、神社の鳥居の前にベンチを運び四方に幣帛(へいはく)を立てて結界を結んで、“白鬚さま”に御守護を強くお願いしてから“サニワ”を行ってみました。
その少年に憑いているという男(霊?)を呼びだしてみると、般若(はんにゃ)のような表情になって出てきました。あれこれ質問してみるとその男は「地獄の苦しみに耐えられなくて、この少年に憑いて楽な思いをしているから決して離れない」と言いました。私は「その様な行いは神様の法に反するから速やかに出て行きなさい。天罰が下るぞ。」と言いましたところ、その男は「天罰が何なのか判らない」と言っていました。天罰とはこういうものだと“三種(みくさ)祓い詞”を唱えて指先から送霊してみました。そうするとその男は、「苦しい苦しい」と、今にもヘドを吐きそうになって呻り苦しみました。
そうして、その男に退くように命じて少年を呼び出したところ、元の少年に戻りました。
その後、その少年といろいろ話をしてみましたところ、少年は学校の先生の息子で、高校を卒業してこの方毎日遊び回っていたとのことでした。
本人は「その男を祓い出したくない。自分が心の成長していくのと共にその憑いている男を改心させたい」ということです。
この一言がどうも納得いきません。この少年にはこの男(霊?)の存在が必要みたいなのです。今、悪さをしている自分はこの男(霊?)のせいで、やがて自分の心の成長と共にこの凶悪な男も改心して行くと信じ込んでいました。
中学生の頃に読んだある宗教の本にそういった内容が書いてあったのだそうです。普通だったら、一刻も早くお祓いしてくれと懇願されるのですが。・・・

なんか、典型的な多重人格の症状のようにも思えました。取りあえず、丁寧にご祈祷しました「お札」と「お守り」を渡しておきました。悪霊の仕業だったらこれで終息するはずです。これまでに収まらなかったことは一度もありません(自慢話ですみません)。一応、少年の父に電話をして精神科に一度みてもらうようには話しました。
この世の出来事は誠に“複雑怪奇”ですね。生身の人間よりもよっぽど霊の方が単純で素直だと言われていますが、本当にそう思えるような事件でした。


[139] 大寒禊ぎ(だいかんミソギ) 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/20(Sun) 16:26

本日は、暦の二十四節気の一つ、一年で一番寒いとされている“大寒”です。
宮城県では若手の神職が中心となって、七ヶ浜という海岸で禊ぎ(ミソギ)行法をおこないます。様々な「魂振り(タマフリ)」の行事を終えた後に、海の中に入って“大祓の詞”(おおはらいのことば)を唱え、日の出のご来光を拝みます。昨年は−10度まで気温が下がり大変でしたが、今年は−4度位までしか下がらず、水温も2度ということで、それほど難儀だとは感じませんでした。



さて、今回はこの「神伝・禊ぎ行法」を開示した神人・川面凡児(かわつらぼんじ)の霊魂学の一部を紹介します。〈このサイトのメニュ−の「よもやま知識」の中に、川面凡児について詳しく説明がされていますのでご参照下さい。〉

川面凡児の霊魂観は、微細な粒子状の霊魂が段階的に集合・構造化し、ついに物体・身体を現すという、一種の原始論的な性格を持ったものです。

「第一の根本魂が“直霊(なおび)”で百千万の直霊を吸収統一して魂(たま)となる。、第二の直霊が“和身魂(にぎみたま)”で心性とか意識とか精神。それが分派して“幸身魂(さきみたま)”となり情、あるいは感情。“奇身魂(くしみたま)”となったものは智、つまり知力、“真身魂(まみたま)”は意思、意力、そして“荒身魂(あらみたま)”は肉体とされる。」

「霊(み)と云い、霊(ひ)と云い、魂(たま)と云い、魂(たましい)と云い、霊魂(みたま)と云い、神(かみ)と云ふ[中略]皆これ質あり体あり、微細極小なる質あり体あるもので、[中略]裏より視れば霊(み)にして、表より観れば魂で、表裏合一すれば霊魂(みたま)で、その表裏合一したる霊魂を称して神と云ふ。単に単一の霊(み)のみを称しても神と云い、魂と魂との集合体を称しても神と云ふ。」

「“禍魂(まがたま)”とは旧事記(くじき)にあるところの“術魂(ばけたま)”で、魂の悪化凶変して自他を禍する魂であります。・・・・直しきものが曲がりたる意味で“魔魂(まがたま)”となる。」

「“禍津毘(まがつひ)”とは、外より来たりて、我の五官五魂に侵入し、我の我の八十万魂に侵入し、我の五官五魂を攪乱し、八十万魂を分裂せしむるところの気と魂とを云う。」

「この禍津毘(まがつひ)を払い除去す」るには「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の息気である“稜威(みいづ)”、その媒介となっている“ムスビ”の神の霊気」を受ける必要がある。その為の行法が“禊ぎ(ミソギ)行事”となる。」

「禊ぎ(ミソギ)の意味は、水を注ぐが如く神の霊を我の霊に注ぎ入る」こと、具体的には身を海川に投じ「水と潮とに通じ、宇宙根本大本体神の霊(み)を受け」ることだという。

「“振魂(ふりたま)”は、霊、魂を振動させる行為で、神の霊が注ぎこまれやすくする行為となる。」

「“雄健(おたけび)”、“雄詰(おころび)”とは言霊(ことだま)の作用によって禊ぎ(ミソギ)が行われやすくするための行事となる。」

「“息吹(いぶき)”は、息吹くことによって禊ぎ(ミソギ)が行われやすくするための行事となる。」

★★★★★つまり、「禊ぎ(ミソギ)行法」を解りやすく喩えるならば、スポンジ球に管を突き刺して、管から息を吹き込む状態に似ているという。吸い込むべきは“稜威(みいづ)”という有益な微粒子であり、吹き払うべきは“禍津毘(まがつひ)”という有害な微粒子となる。★★★★★

参考 『祖神垂示の霊魂観』川面凡児著
   『鎮魂行法論』津城寛文著


[138] アガスティアの葉 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/14(Mon) 17:46

古代のインドに、アガスティアという聖者がいたのだそうです。彼は自分の意識を「時空を越えた神の領域(変性意識、超意識、集合的無意識)」に入境させることができたと言います。そして、そこから得ることの出来た情報により、今後、自分の館(やかた)を訪れることになるであろう人々の、“現世”における生まれてから死に至るまでの人生の様々な出来事について、ある種の“葉”に書き記したと言います。生年月日、両親の名前、配偶者の名前、子供達の名前、死没年月日・・・・そして、その人の“過去世”における名前、職業・・・・、“来世”の名前、職業、両親の名前・・・・

このアガスティアの葉、そして、サイババ、ア−ユル・ヴェ−ダ(インド医学の書、生命に関する真理の書)、インド占星術等を紹介し、一時、日本にこれらの大ブ−ムを呼んだのは理学博士、医学博士で、当時、東邦大学医学部の客員講師をされていた青山圭秀さんです。著書に『理性のゆらぎ』『アガスティアの葉』『真実のサイババ』『サンカルパ』があります。

氏はアガスティアの館において自分の葉を見いだし、そこに己のそれまでの人生が詳細に記してあったのをみて驚愕したといいます。その当時は、「ノストラダムスの大予言」の呪縛に恐れおののいていたのだそうですが、その葉には1999年以降の自分の人生も詳しく書き記してあったので、それを見て精神的に救われたと述懐しています。
最近はそうでもありませんが、3,4年前まではよくテレビの特番で、有名人の葉を見つけに行くといった構成の番組を見る機会が結構ありました。でも、テレビはやらせも多いのでどうしても信憑性に欠けます。

青山圭秀さんの公式サイトは次の通りです。
   http://www.lightfield.co.jp/aoyama/


[137] 現代の陰陽師 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/09(Wed) 20:58

こんばんは。現在、テレビ、週刊誌等は、まさに「現代の陰陽師・石田千尋さんブ−ム」。石田さんの霊能はそれなりに本物だと思います。但し、なさっていることは厳密に言って陰陽道というよりは古神道ですね。余り細かいことにこだわってもしょうがないのでしょうが。

例えば、石田さんが“針加持の術”と呼ばれている、相手に一種の“神懸かり”状態を起こさせる行為がありますね。

「ふるへ ゆらゆらと ふるへ」

と石田さんが早口で何度も口ずさみますが。その唱え言葉は“フルの言(こと)”といって、奈良の石上神宮に伝わる布留部神業(ふるべのかむわざ、一種の鎮魂行法)において唱えられる魂振(たまふり、我が身の魂の活動を活発にする為の行為)の言葉です。

そして、相手に両手を合わさせて(お札を持たせる場合とそうでない場合がある様ですが)“神懸かり”(憑依)状態を起こします行為は、“鎮魂帰神法”といいまして、古神道系の教団などで以前は頻繁に行われていました術の一種です。しかし、危険が伴うといった理由から行わないところが多くなっています。でも、タケシの「そこが変だよ日本人」で石田氏が外人達100人中50人前後と思われる方々を神憑り状態に導いたのは圧巻でしたね。

つまり、こういったものをうまくミックスしてアレンジしたものが“針加持の術”だと考えられます。私はテレビでのシ−ンを見ながら、「なる程な−、こういった組み合わせもありか−」と変に感心しながら見入っていました。

それに、石田さんが大祓詞を唱えるのは別にかまいません。大祓詞は神祇官(神道)でも陰陽寮(陰陽道)でも唱えられていましたから。でも、禊祓詞(みそぎはらいし)は平田篤胤の作ですから陰陽師が唱えるのはちょっと変かなとも思いました。でも、余りこだわる必要もないかなとも思います。

とにかく、明治政府の“神仏分離令”“陰陽道禁止令”“修験道禁止令”発令の以前までは、神道も、仏教も、陰陽道も互いにそれなりに混じり合っていました。戦後社会におけるグロ−バル化された世のム−ブメントの特徴は「いいものはいい」ですから、特に最近はその傾向が強まっています。(政財界における様々な規制緩和、自由化の動きや総合格闘技戦プライド、K1なんか見ていると特にそう思います)
案外、宗教界もそういった動きがあったりして。いや、新宗教、新々宗教の動きなんか観ていますとまったくその通りだと思います。


[136] 明けましておめでとうございます 投稿者:道開き 投稿日:2002/01/01(Tue) 13:10

本年もよろしくお願いいたします。


[135] さらに・・・・ 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/27(Thu) 17:57

下の[133]、[134]の書き込みに続きます。
以前テレビ番組でみたのですが、元フォ−ク・デュオ“トワ・エ・モア”の白鳥英美子さんがイギリスに住んでいた頃のエピソ−ドです。白鳥さんが日本の歌手だということで、地元のイギリスの人達に日本の歌を聴かせてくれと頼まれたのだそうです。自分の持ち歌など数多くの曲を歌ったのですが、日本の京都に古くから伝わる子守歌だということで歌って聞かせた“竹田の子守歌”が一番喜ばれたということでした。
イギリスには日本の文化と驚くほどに似ている“ケルト”の文化が未だ色濃く残っています。アイルランドやスコットランド地方の民謡、「蛍の光」や「旅愁」等の曲が、まるで日本で生まれた歌かと思われている程に日本に溶け込んでいるのを見ると、白鳥さんのエピソ−ドも納得ができますね。


[134] そう言えば・・・・ 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/26(Wed) 21:54

以前から思っていたのですが、日本が世界に誇るテレビ・ドラマ『おしん』(たしか、5、60ヶ国で放映されて大評判を博した)の子供時代は、下の[ ]の“竹田の子守歌”の影響を受けてはいないでしょうか。脚本家の橋田須賀子さんに聞いてみなければ判らないことでしょうけれども・・・



[133] “竹田の子守歌” 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/26(Wed) 21:01

“竹田の子守歌”

守(もり)もいやがる 盆(ぼん)から先にゃ

雪もちらつくし 子も泣くし


盆が来たとて 何うれしかろ

帷子(かたびら)は無し 帯(おび)は無し


この子よう泣く 守をばいじる

守も一日 やせるやら


早よも行きたや この在所越えて

向こうに見えるは 親のうち


京都、伏見の竹田地方に伝わる子守歌です。フォ−ク・グル−プ「赤い鳥」によって広く世に出ました。
歌詞もいいし、メロディ−もいい。何かこの歌には“日本人の原点”が感じられるような気がします。“飽食の時代”とも言われる現代の日本ですが、この歌だけは21世紀も、さらにその先の世にも、時代を超えて歌い繋いで行ってもらいたいものだと考えているのは私だけではないと思います


[132] “あの世の住人”から見た「臨死」・・・とでも言ったらいいのでしょうか 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/21(Fri) 19:57

下記の[131]に続きます。多慶子夫人の守護霊になる以前のあの世での修行中に起きた、小桜姫から見た「母の臨終」の様子が描かれています。

「それは私が亡くなってから、もう余程経った時・・・かれこれ二十年近くも過ぎた時でございましょうか、ある日私が例の通り御神前で修行しておりますと、突然母の危篤の知らせが胸に感じて参ったのでございます。こうした場合には必ず何らかの方法で知らせがありますもので、それは死ぬる人の思念が伝わる場合もあれば、又神様から特に知らせて戴く場合も在ります。その他にもまだいろいろありましょう。母の臨終の際には、私は自力でそれを知ったのでございました。
私はびっくりして早速、鎌倉の、あの懐かしい実家へと飛んで行きましたが、もうその時にはよくよく臨終が迫っておりまして、母の霊魂はその肉体から半分出たり、入ったりしている最中でございました。人間の眼には、人の臨終というものは、ただ衰弱した一つの肉体に起こる、あの悲惨な有り様しか映りませぬが、私にはその他にもまだいろいろの光景が見えるのでございます。なかんずく一番目立つのは肉体の外にも霊魂・・つまりあなた方のおっしゃる幽体が見えますことで・・・・・・・・・・
もう一つおかしいのは肉体と幽体との間に紐(ひも)がついていることで、一番太いのが腹と腹とをつなぐ白い紐で、それは丁度小指ぐらいの太さでございます。頭部の方にももう一本見えますが、それは通例、前のよりも余程細いようで・・・・。無論こうして紐でつながれているのは、まだ絶息し切らない時で、最後の紐が切れた時が、それがいよいよその人の死んだ時でございます。
母の臨終の光景について、もう一つ言い残してならないのは、私の眼に、現世の人たちと同時に、こちらの世界の見舞い者の姿が映ったことでございます。母の枕辺には人間は約10人余り、いづれも眼を泣きはらして、永の別れを惜しんでいましたが、それらの人達の中で私が生前存じておりましたのはたった二人ほどで、他は見覚えのない人達ばかりでした。それからこちらの世界からの見舞い者は、第一が、母よりも先へ亡くなった父、つづいて祖父、祖母、肉親の親類縁者、親しいお友達、それから母の守護霊、司配霊、産土の御神使(うぶすなのおつかい)〈あの世から遣わされてきたお使いの神さま〉、・・・・いちいち数えたら余程の数に上ったでございましょう。とにかく現世の見舞い者よりはずっとにぎやかでございました。第一、双方の気分がすっかり違います。一方は自分たちの仲間から親しい人を失うのでございますから、沈みきっておりますのに、他方は自分たちの仲間に親しき人を一人迎えるのでございますから、むしろ勇んでいるような、陽気な面もちをしているのでございます。こんな事は、私の現世生活中には全く思いも寄らぬ事柄でございまして・・・・。
他にも気づいた点がまだないではありませぬが、下手な言葉でとても言い尽くせぬように思われますので、母の臨終の物語は、一とまづこれくらいにしておきましょう。」


[131] シャ−リ−・マクレ−ンの“脱魂”体験 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/20(Thu) 19:33

下記の[130]の書き込みの続きとなります。
シャ−リ−は体験した“脱魂”の状況を詳細に記しています。それは、南米ペル−はアンデスの山奥の高地にある鉱泉にひたりながら、ロ−ソクの灯を見つめておこなった瞑想中に起きたと言います。その始まりは、まず、ぼんやりと辺りを照らしていたロ−ソクが、わずかづつわずかづつ輝きを増してきたのだそうです。やがて、まばゆいばかりの輝きとなり、その状況に見入っていると、突然、自分の体が(霊体が)宇宙空間に漂っていたのだそうです。足下の方には地球が在って、自分の体からは“銀色の紐(ひも)“の様なものがユラユラたなびきながら地球に向かって伸びていたと言います。帰らなきゃと思った瞬間に、今度は鉱泉にひたっている自分がいたのだそうです。ほんの一瞬の出来事だったと言います。

この自分の体から伸びていた“銀色の紐”の様なものは、日本では昔から、“霊(魂)の紐”(たまのお)と呼ばれているもので、自分の身体と霊体とがこの紐で繋がっている限りは死に至らないと言われています。この“霊の紐”、そして死についての記述が詳しい一文を記します。それは、日本のスピリッチャリズムの草分けとして有名な浅野和三郎氏の夫人で、優れた霊媒だった多慶子さんの、守護霊・小桜姫からの通信を入神状態で書き記した『小桜姫物語』の中の13章「母の臨終」というところに書かれています。小桜姫が、死んでからのあの世における修行中に訪れた現世における母の死に当たっての記述です。「臨死体験」という言葉がありますが、これはあの世から見た「臨死体験」の状況です。
けっこう長くなりそうなので、次回の[131]に書き込むことといたします。では。


[130] 『アウト・オン・ア・リム』 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/13(Thu) 18:16

『アウト・オン・ア・リム』。
この本の題名を直訳すると「梢(こずえ)の果実は、危険を冒して枝先まで行かなくては手に入らない。」という意味だそうです。
東洋風の諺で言い表したのなら、おそらく「虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ず」が妥当ではないでしょうか。

この本の原作は、『八十日間世界一周』、『スゥィ−ト・チャリティ−』、『愛と追憶の々』などで有名なハリウッドのアカデミ−賞女優のシャ−リ−・マクレ−ンさんです。彼女の精神史とでもいった内容の作品です。作品のビデオ化に当たっては自らが自らを演じて出演されておられます。
この作品は、欧米のニュ−・エイジ世代のバイブルとも言われるほどに世界中で広く読まれました。シャ−リ−の[スピリッチャルな体験]を通しての“心の旅”が誠実に描かれています。彼女はこの本を世に出すに当たっては、自分の築き上げてきた女優としての名声を失う、つまり、この本を出したら世間から相手にされなくなると覚悟を決めて出版したのだそうです。

ペル−の山奥の鉱泉に浸りながらの瞑想による脱魂体験、霊媒との心霊体験、宇宙との関わり、アトランティス時代の自分の過去世の記憶(魂の輪廻転生)、この世には偶然などなく全てが必然で成り立っている(因果応報〈因果律〉)・・・・・といった様々な体験を通して、

エゴではない本当の自分がいったい何を求めてこの世に生まれてきたのか、また、本当の自分が何者であるのか、人生の意味は何であるのか・・・といった、自分の中に神を見いだすまでのシャ−リ−の“心の旅”が描かれています。

でも、シヤ−リ−にはそれなりの師となる人物がおりましたが、正しい知識も無く、経験豊かな指導者も無しで、“瞑想”とか“鎮魂行”とかを行うのは止めた方がいいと思います。枝から落っこちてしまいますよ。虎に食べられてしまいますよ。(つまり、変なモノに憑かれてしまいますよ。)


[129] ようこそ、みいさん 投稿者:道開き 投稿日:2001/12/01(Sat) 10:22

禊祓詞はそれほど古いものではありません。江戸末期の国学者・平田篤胤(ひらたあつたね)の作です。彼の場合、国学者とはいっても現代的表現からすると神秘学者とでも言った方が適当かと思われます。
彼の神話的知識、思想、信仰の集約されたものが禊祓詞だと考えればいいのではないでしょうか。

十種の神宝図には、伊勢伝以外にも多くの別伝があります。道教の霊符にある図形の影響は多少なりとも受けているかもしれませんね。とにかく古代の信仰は、東西の様々な信仰がお互いに影響し合って成り立っているようですから。これまでに考えられてきた以上に古くから、文化交流は行われていたようです。

どんそ゛、これからもちょくちょく遊びにいらして下さい。


[128] はじめまして 投稿者:みい 投稿日:2001/11/30(Fri) 14:51

こんにちは。リンクたどってまいりました、みいといいます。
癒し系のBGMもとってもいい感じですね。
今日は、おもに白髭神社のHPの方を拝見させていただきました。
こちらのページも、今度ゆっくり見てみたいと思います。
実は今回、白髭神社さんのHPのなかにある祝詞・祓詞を
読んでみたのですが…なぜか感動しちゃいました。(特に禊祓詞!!)
「祓い清め」の意思をピュアにダイレクトに感じ、
昔の人達と気持ちを共感できたような気分です。
あの詞って、いつ頃の成立なんでしょうね?
あと、私は昔中国系のお札を持ってたことがあるんですが、
十種の神宝図のなかにある図形のなかにそっくりなのを
みたことあるんですが、やっぱり似たような出自なのでしょうかね。
いろいろと思ったことをつらつらと書いてみました。
これからも研究、がんばってくださいね!


[127] またまたまた『長崎ぶらぶら節』2 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/27(Tue) 17:33

よくよく考えてみますとこの映画は、今ではちょっとめずらしい“神ながら(神道)”映画だと思われます。
まず、主人公・夢八の少女時代のシ−ンで、長崎の丸山の遊廓に身売りされ峠越えをするくだりで、長崎の街への入り口に流れる川での蛍(ほたる)の大群にいだかれるシ−ンは、祠(ほこら)の前での出来事でした。これは今後の夢八の先行きを神様が守って行ってくれることを暗示する場面でもあります。やがて年老いて、愛八があの世におもむくシ−ンにも蛍の大群が現れます。
そして、映画の全編を通して随所随所に、鳥居や祠(ほこら)、神社が映し出されていました。
お祭りのシ−ンもあります。
愛八が“身代わり天神”にお百度(参り)を踏んで、知り合いの娘の延命祈願をするシ−ン。
辻占(つじうら、街角でおみくじを売る)の少女をいつも気づかってあげるシ−ン。
とにかくハタから見ると、バカ正直で他人の事ばかり考えて散財してしまう愛八を、いつでも“神様”が見守っていてくださっているという描き方が、映画の全編を通してうかがえます。本当に素敵な“癒し系”の映画です。「本当にいい映画は“神様の視点”から描かれている」といいますが、そういった意味から言ってもこの映画は好い映画です。

主演の吉永小百合は、少々お年を召されたとはいえとっても綺麗です。共演の渡哲也さんも実に渋い、いぶし銀の演技です。お二方の魅力も十分に堪能できる映画でもあると思います。


[126] さらに<『長崎ぶらぶら節』 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/25(Sun) 21:49

この映画、「外国の人たちが観たらたまらないだろうな−」とつくづく思えてくる程に、古き良き日本、そして日本人が丁寧に描かれています。
かなり西洋化してしまった日本に生まれ育った私ですが、そう言えば子供の頃って、こういった風景や人情がまだまだ残っていたよな−、とついつい思ってしまう私もいます。
中高生の若い皆さんにも是非是非、観てもらいたい作品です。ビデオも出ています。まだ余り西洋化されていなかった頃の日本が観られます。有名な幕末のオランダ人医師・シ−ボルトが見せられた神秘の国・日本の長崎とはこういった風情だったのではなかろうかと思われます。


[125] 歌は神様のもとから降りてくる 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/25(Sun) 20:01

映画『長崎ぶらぶら節』。
「長崎ぶらぶら節」という題名を耳にした時、学生時代に夢中になって読んだ歴史小説『竜馬が行く』の中で、竜馬が長崎に亀山社中という商社を設立したくだりに、原作の司馬遼太郎さんが、当時の長崎の丸山を説明するのに取りあげていた記憶がよぎりました。歌詞の長崎弁「・・・・・だちゅ」という言い回しが印象的でした。
最近の日本映画にはめずらしく、外国の映画の撮り方を全く気にしていない、まさしく古き良き“日本”を日本風に描いた感動作でした。こんな描き方のできる監督が日本にいたのだと、監督の深町幸男さんに興味を持ち調べましたところ、テレビ界のベテランディレクタ−で、映画は今回が初めてだということで更に驚きました。

物語は実話で、十代も続いた豪商の家を自ら潰して、郷土史の研究に没頭した古賀さんという実に酔狂な好人物と、愛八という芸子さんが、近代化の波に押し流され埋没しそうになっていた長崎の古い小唄「長崎ぶらぶら節」を掘り起こし、西條八十(さいじょうやそ)氏によって世に出されるくだりが描き出されています。
現代の日本を覆っている“競争社会の原理”とは全く逆の価値観をもった人物たちが、様々な形で描かれていました。昔の古き良き日本には、地域社会の中にこういった篤志家(とくしか)の徳(とく)左右衛門さん、善(ぜん)右衛門さんタイプ、といった人たちがそれなりにいたのだろうな−と、ふと考えてしまいました。
原作は作詞家のなかにし礼さんです。昭和のヒット曲メ−カ−の雄として時代を突っ走った方です。そのヒット曲の数たるや、100曲ではきかないのではないでしょうか。その昭和の歌謡界をリ−ドしてきた氏が、文壇で直木賞を受賞したのがこの作品です。

氏については、以前、テレビ番組の特集で見たことがあるのですが、「作詞家というのは“時代の巫女(みこ)”だ」と常々考えていたのだそうです。とにかく“言葉が降りてくる”といった感じなのだといいます。時代を写し出す“はやり歌(流行歌)”の歌詞が降りてくる時は、突然に、それも、どんどんどんどん止めどもなく降りてくるのだそうです。
「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよく言ったものです。だから、その当時の流行歌を聴けば、どのような世の中であったのかが理解できそうですね。
ところが、全く降りてこなくなる時期が来るのだそうです。もがき苦しみ、長い間に培ってきた様々なテクニックを使ってもどうすることもできないのだそうです。その時が“引き際(ひきぎわ)”だと自分でも理解できたそうです。

でも、さすが、なかにし礼さん、小説でも良い作品を書かれますね。
時代の最先端を突っ走った人というのは、行き着くところは決まって古え事に思いをはせるもんだということは聞いていましたが、なかにしさんもご多分に漏れなかったのだということを感じさせられる作品でもありました。
最後に映画の中で古賀氏が語るセリフを書き込んでみます。

「唄は不思議だ、目に見えぬ霊気か精霊のようだ。大気の中をさまよっていた“ぶらぶら節”が、ふ−っと、おい達の胸の中に飛び込んできた。それをおい達が吐き出せば、また誰かの胸の中に入り込む。そうして唄は人の心を渡り歩いていくもんなのかね−。」


[124] 祝!イチロ−!“大リ−ク゛MVP” 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/21(Wed) 20:39

これはまさに、日本の国家的祝事ですね。
“バンザイ、バンザイ、バンザイ!!!!”


[123] 祝!J1昇格!“ベガルタ仙台” 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/19(Mon) 19:09

ついにやりました“ベガルタ仙台”!
仙台市民のみならず、全宮城県民の悲願が達成されました。
全日本代表の一流選手たちのいるチ−ムとの激突が今から楽しみです。


[122] ♪ゴンドラの唄♪♪ 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/17(Sat) 18:31

私は子供の頃から映画が好きで、初めて映画館で観た映画が、小学校に入るちょっと前に観た『ベン・ハ−』です。
幼心に、主人公のユダヤの貴公子ベン・ハ−がガレ−船(奴隷船)に乗せられ、手足に鎖を付けられむち打たれるシ−ンや戦車による競争シ−ン、そして、キリストが十字架を背負いながらゴルゴタの丘をのぼり処刑されるに至るシ−ンは鮮明に脳裏に焼き付いたのでした。
今でも好きな映画のベスト5には入っています。これまでに20回以上は観ています。

邦画ではどんな作品が好きかと言いますと。やはり、黒沢映画が好きで、特に『七人の侍』、『生きる』が好きですね。
その中でも特に好きなシ−ンはと問われれば、迷わずにすぐにここだと答えられるシ−ンがあります。
それは、『生きる』の中の、志村喬(たかし)が演じる、しがない役所務めの一小市民といった主人公が、 末期ガンを患い、生きていく目的を失い苦しみもだるその中から、やがて、人として生きるということの本当の意味を見いだし、静かな静かな雪の降る公園のブランコに揺られながら、幸福をかみしめながら静かに死んでいくシ−ンです。その時に主人公が口ずさむ唄が『ゴンドラの唄』です。
世界中の人たちがこのシ−ンに涙しました。

いのち短し 恋せよ乙女
熱き唇(くちびる) あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 あせぬ間に
心の炎(ほのお) 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを

下のURLをクイックして下さい。
 http://www.owasechojuen.or.jp/karaoke/shi/02s-ka/05ko16-gondorano-uta.html

「鉄は熱い内にたたけ」という諺がありますが、若い内に、学業、スポ−ツ、恋愛にと励んだ方がいいと思います。
最近、少々考えるところがありまして、人の根幹となる部分は30歳位までに8割〜9割は出来上がってしまうのではないか
と思えたからです。その時期の体験から得たことは一生涯の糧となるものが多いのではないでしょうか。
若い頃は、自分の人生が永遠に続くものと考えがちですが、惰性に流されることなく日々の生活に勤しんで行きましょう。


[121] “涙”は精神の浄化作用 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/12(Mon) 17:25

西洋キリスト教社会で生まれた「宗教学」では、信仰にも“進化論”が当てはめられるみたいで、太古よりの信仰であるアニミズム色の強い多神教よりも一神教の方が優れているといったランク付けが行われているようなところもあります。でも、そういうことは決して当てはまらないと思います。

数年前にテレビ番組で見たのですが、ニュ−ヨ−クのマンハッタンのとあるビルの一室で、弁護士や医者といったいわゆる知識階級の人たちが“太鼓の会”なるサ−クルを作って集まっていました。アフリカの原住民たちの叩くような太鼓を、恍惚状態になって、涙を流しながら叩いて心を癒している場面を扱った番組でした。(普通の若い人たちがロック音楽に没頭しているのも同じ事なのでしょうが)
キリスト教のドグマ(教義)主義の影響下にある競争社会において、どうにもならない位にヘトヘトになっている人たちは案外に多いようです。

久しぶりに映画『エクソシスト』(今回は最新のディレクタ−ズカット版)をビデオで観ました。若い超エリ−トの精神科医でもあるカラス神父も、信仰的にはかなり悩んでいるように描かれていますね。映画『ポセイドン・アドベンチャ−』に登場していたス−パ−マンの様な活躍をするジ−ン・ハックマン演じる神父さんも神に対する信仰的悩みを持っているようでした。映画『サタディ−ナイト・フィ−バ−』の主人公ジョン・トラボルタの兄の神父さんもやはり、悩んだ末に神父さんを辞めて社会福祉の仕事に行っちゃいました。

自分の所属している組織とか体制が形骸化したり、社会状況が混迷し民衆の悩みの増大に対処しきれない状況下では、宗教者たちは真面目な人ほど悩み苦しむのでしょう。これらの映画が描かれた当時のアメリカは、ベトナム戦争の失敗でスッカリ自信を失っていた時期ですよね。丁度、現在の日本と同じ様に。これから、日本社会においても様々な問題が起こるでしょうが、日本の聖職者たちも民衆と共に大いに悩んで、涙を流しながら、組織も社会自体をも綺麗に浄化して行けるといいですね。


[120] “水” 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/12(Mon) 17:15

下の[118]、[119]の波動に関する書き込みに続きます。
江本勝さんいわく「(波動水の説明の通り、)様々な意識の媒体とも成り得る“水”の浄化こそが現代社会における急務」だそうです。
“水の惑星”・地球の意識(地球に住む人類の意識も含まれる)を高めていくためには、逆に“水の浄化”から行っていけばよいという事です。

気功師が水に手かざしをした“気功水”を飲むと、気功してもらったのと同じ効果が得られると言うこと。(東京電機大学の町好雄教授がこの道のオ−ソリティ−です。)
キリスト教で祭壇にお供えした?水を“聖水”と呼びますが、映画『エクソシスト』などでは、この聖水を振りかけられると悪魔はとても苦しむ様でした。日本でも、神道や修験道などの民間信仰では、神さまにお供えした水を“ご神水”と呼んでいるようですね。病気の人に飲ませたりもするようです。
つまり、神気(神さまの気、意識)といったものも水に溶け込むと考えられてきた訳です。水は神さまの意識の媒体とも成りうるのでしょう。

以前、5〜6年前になるでしょうか、江本さんのフォ−ラムに出席した事があります。
その際に、数多くの水の結晶を写したパネルを見せていただきました。きれいな音楽を聞かせた水や、御礼の言葉や感謝の念を送った水の結晶はまるで万華鏡の様に綺麗でした。紅白歌合戦の小林幸子さん、美川憲一さんの衣装のようでした。その逆に、雑音を聞かせたり、罵詈雑言を聞かせたり、恨み辛みの念を送った水の結晶は実に汚かった。これって本当なのだろうか?とも思いましたが。

よって、この世を浄化して行くには、江本さんのおっしゃる通り、水質の汚染を正し、水の浄化を計っていくことこそが近道となるのでしょう。

地球環境を守りましょう。この世の総ては神々のお姿です。そうすることが八百万神々を敬うことにもなるのでしょうから。
 


[119] さらに“波動”について 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/04(Sun) 18:57

波動に関する解りやすい説明を記します。加藤晴之氏、元工業デザイナ−。「精神世界」に造形が深く、『完治』、『カレッツァ』等の著書あり。氏は癌を患うも、MRAによる波動水を飲むことにより完治したのだそうです。以下は氏の著書からの抜粋です。

・ダイアモンドに心があった。MRAで測定すると「喜び」「悲しみ」「怒り」などの人間の持つ精神波動を内包している。不幸な波動を持った人間がそれと同じ波動を持ったダイアモンドを持つと「同調し」、あるいは「増幅し」、さらに不幸な状態になる。

・物質というものは、それこそ「神」あるいは「創造主」といえるような存在が設計した「本来的」「基本的」というか、そうした波動というものがもともと存在していて、その形が崩れた(変化した)時に、たとえば人間に当てはめるとそれが「病」になる。

・たとえば悪い波動が検出された場合に、その波動を打ち消すための全く逆の波動をMRAで作り出すことができる。さらにその打ち消す波動を水に「プリント(記録)」することができ、その水(波動水)を飲むと体の内部のネガティブな波動がキャンセルされてしまう。(水はカセットテ−プのように情報を記録できる記憶媒体なのだという。)それを繰り返すことによる病気治療も可能となる。

・すべての人はすべての人なりにこの世での生きる理由を持って生まれてきている。その理由とは「愛の表現」。心のすべての行動は「愛」というエネルギ−に基づいている。そのエネルギ−がポジティブに表現されていれば「愛」そのものであり、ネガティブに表現されるとき、それは「恐れ」となる。恐れが心を支配するとき、妬みや攻撃となる。「愛と恐れは表裏一体」のもの。心のエネルギ−としては同じ。

・波動的にとらえると、「感謝」と「恨み」というのは同じ周波数。ただ「場」が違うだけ。つもり「陰」と「陽」の違いにすぎない。

・いじめも、いじめる波動といじめられる波動は表裏のもの。毅然とした態度とともに恐がる心を一掃すること。

・今はつらいかもしれないけれど、つらいことは実は裏表のもので、つらいことを体験するということは、同じくつらいことを体験している他の人の心が手に取るようにわかる、すばらしいプレゼントともいえるのだということ、大きな勉強をしているのだということ。
・意識・イメ−ジは強い強いエネルギ−だが、とりわけ「愛の波動」というものこそが、人間の免疫を最大限に発揮させるエネルギ−。

・愛は癒しのエネルギ−。もしも、たとえ前世でなにかカルマを背負っていたとしても、今を愛に生きればそれでよいのだと思います。間違いなく愛という波動はそれをキャンセルしてくれる。愛はオ−ルマイティ−なのです。愛に生きる。これこそがこの世を生きる醍醐味。

・親がゆったりと人生を味わっていれば、それは赤ちゃんにも伝わっているのて゜す。親が世の中に対して肯定的に生きれば、赤ちゃんにはやはりそうした心が伝わっている。

・もはや「競争原理」は限界点来ている。ストレスも限界点に来ている。「いじめ」はそれが結晶化したもの。



なんとなく納得でできそうな内容ですね。


[118] 波動学 投稿者:道開き 投稿日:2001/11/02(Fri) 17:42

最新の科学と古くからの宗教とが混合したような、今風の事物の捉え方「波動学」を紹介します。下記の、一連のスピリッチャリズムの説明とも共通点が多いことに気づかれることでしょう。

江本勝、MRA総合研究所所長、I.H.M国際波動友の会代表。著書に『波動時代への序幕』(サンロ−ド出版)、『波動の人間学』(ビジネス社)、共著に『新しい水の科学と利用技術』(サイエンスフォ−ラム社)、『水の科学とおいしい水』(工業技術会)などがある。以下は、その著書の中からの抜粋の一部です。

○素晴らしい二十一世紀のキ−ワ−ド“波動”。

○毎年選ばれるノ−ベル物理学賞の受賞者は、60年前から登場した“量子力学”の研究者。この量子力学こそ、実は“波動学”のこと。量子力学はこの世の中が存在するためのすべての法則を説く、物理学の中枢となっている。

○天気、景気、そして病気。「気」というのは、まさしく「波動」のこと。

○エネルギ−の種類には、引力、火力、電力、原子力等のものがあるが、それらの最小の単位として「波動」がある。

○生活の中の波動で一番わかりやすい例が、携帯電話。数字をダイヤルすると、その電話機から360度方向、つまり全方位にその番号が持つ固有の波動が発信される。そして、同じ波動を持つ受信機にのみエネルギ−化されて、着信する。電化製品はすべて波動。

◎人間関係も波動の法則は体感される。一番よい例が恋愛です。一人の男性の波動と一人の女性の波動が一致した時、そこに共鳴現象が発生しエネルギ−化します。そして、周波数が同じである限り、いつまでも一緒にいたいと思うようになります。
仕事の場合も同じ。仕事がスタ−トする前に、必ず人と人との出会いがあります。その二人の周波数が非常に近い場合にそれはエネルギ−化し、仕事へと繋がって行きます。

◎“波動的痛み”。たとえば悪意のある言葉は、多くの場合、その波動は私たち自身が身体の中に持っている波動と一致します。なぜならば、私たち自身も、他人に対して、言葉に出さないまでも、同じ様な思いを潜在的に秘めているからです。逆に言えば、どんなひどいことを言われても、その人が天使のような美しい心を持っていたとしたら、それはその人に何の痛みも与えません。自分の中にそのような思いを秘めていれば、それは共鳴の理論によってエネルギ−化し、増幅され、痛みを感じるところとなるのです。これがゲンコツよりも悪意のある言葉の方が、人をいつまでも痛めつける本当の理由なのです。

○音叉(おんさ)の実験
人間は自由に波動を発声(声にする)ことができる。
波動とはエネルギ−(力)ですが、それは周波数が同一のもの、もしくは極近似の時にその近似度の比率に応じてエネルギ−化する。
1オクタ−ブの差ということは、半分の周波数ということ。つまり、ラの音の場合は440ヘルツに対して220ヘルツ。つまり、一つの音のエネルギ−化は、その周波数の倍数か約数となる。人間の知覚で捉えられる範囲内においては、大ざっぱに言って、7つしかない。(ドレミファソラシドの7種類)

○1,989 年に、アメリカのロナルド・J・ウェインストック氏によって開発されたMRA(共鳴地場分析器)は、あらゆる物の持つ波動を分析できる。石、果物、ウィルス、機械、人間の感情(写真に写った人物の感情も)、内蔵の疾病、水質などのあらゆるもの。

○それぞれの元素にも、固有の波動がある。創造主によって造られたすべての物質は、人間も含めて、元素というものによって構成されている。その元素の種類と比率によって、各々の物質の特徴が表現されていると思う。人間が、小宇宙と呼ばれる説が正しければ、おそらく人間は、この宇宙に存在するすべての元素から成り立っていると思う。
元素のアンバランスが病気と老化の原因。元素のバランスの崩れすなわち煩悩。

◆今がどんな苦難の時であれ、ネガティブに考えることはマイナス。必然性があるから現在がある。良くないことはすべて反面教師であり教訓。それが証拠に、病や精神的苦痛を持てば持つほど、その人たちは「生きる」こととか、「人間」とか、「愛」ということに真剣になります。そして、それらの障害を克服した人たちは、ほとんどと言ってよいほど、人を助けるために生きると誓って、立派なお仕事をされている。

◆「あなたは、たまたま、今、ネガティブな面の方にヤジロベエが大きく傾いて、いろいろな病状が出ています。でも、これが、ポジティブの状態になつた時には、あなたは素晴らしいパワ−を持っているということの証しでもあるのです。そういう面ではエリ−トなのですよ」

◆人を恨んだり、怒ったり、イライラしたり、ストレスやプレッシャ−を持たないように。その様なネガティブな感情を持つことは、将来あなたの健康を害することになり、子孫にも肉体的、精神的にマイナスな影響を与えることとなります。すべて、いつかは自分にはねかえってくる。このことは、波動学的には絶対的真実である。

◆何よりも強い波動が「愛のエネルギ−」。

◆すべてのものには“陰陽”がある。どちらに片寄ってもよくない。“中庸(ちゅうよう)”の状態がもっとも強い。

◆純粋であるということが、エネルギ−的には一番パワフル。「一念岩をも貫く」とはまさに真実。

◆「素直に信じ、お願いし、感謝する」という要領は、音叉(おんさ)における実験のAB間における波長の同調関係を得るための周波数合わせに他ならない。

◎「クォ−ク」という、物質の極小単位(原子よりもさらに小さく、有と無の間を漂う物質)は、エネルギ−の最小単位として、この宇宙に充満している。もしそのクォ−クを、人間の持つ意識そのものであると仮定したなら、本来我々人間はだれでもそれらと自由に交信できるはずである。メビウスの輪のように宇宙そのものも輪廻転生を繰り返しているなら、我々は、過去や未来のクォ−クすなわち意識とも交信ができるはず。もし、それが真理ならば、すべての宇宙の過去と未来は、私たち人類の責任に帰すべきものとなります。

○今後の地球の為にも、人類の為にも、とにかく良い波動を集結させよう。


[117] インディアンの信仰 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/30(Tue) 18:05

海外のスピリッチャリストたちが、キリスト教の教義を嫌い、どちらかというと古神道やインディアンの信仰に興味を持ち、高く評価する理由が理解できたと思います。
[メイン・メニュ−]の「よもやま知識」の中にある
「21世紀のヒント 大和民族(日本人)とインディアン」
も読んでみて下さいね。
さらに理解が深まると思います。


[116] 「人間味」の大切さ 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/24(Wed) 17:29

スピリッチャリズムの日本に於ける第一人者とされるのが、我が国最初のシェイクスピアの完訳者の一人でもある、英文学者・浅野和三郎その人です。
氏の心霊研究の果てにたどり着いた境地とは、「人間はいい加減ということが一番大事じゃ」というのが口癖で、「人間味のない人間は畢竟この世の片輪者で・・・・」とも述べています。
所詮、宇宙、霊界の真相を知り尽くすことなど出来ない。霊的な意味での小学校の秀才も、中学、高校、大学の勉強は歯が立たない。だから小学生は小学生なりの勉強をしておればいい。それ以上のことは上の学校へ行けば段々に習うのだから、というわけです。
無理な禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているわけです。
結局、神さまは人間にとって五官でもって生活するのが適当だから五官を与えて下さったのであり、要は節度を守ることに尽きるのでしょうね。ムキになって完璧を求めても、それは地上では所詮ムリだ、という意味なのでしょう。


[115] 古神道とスピリッチャリズム 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/24(Wed) 17:27

古神道系新宗教の教団の多くは、下記の「スピリッチャリズム」によって、現代的な意味での理論構築を行っているといった所がかなり伺えますね。本当に。


[114] スピリッチャリズムの概要 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/24(Wed) 17:26

スピリッチャリズムとは、物質至上主義により人間が生きていく上で当たり前のきまりや精神性の豊かさを喪失させられてしまったこの混沌の現代社会に生きる人々に贈られた「霊界からの哲学の啓示」。
心霊は「非科学ではなく、未科学」なのだという。

●スピリッチャリズムにおける『幸福の原理』
それは、「人は霊であることを知り、死後も霊の世界は存在している」と気づくこと。
それこそが、“ただ一つの幸福の原理”だといいます。
「死ぬことへの恐怖」、これはすべて人生が有限であり、霊など存在しないと考えることからきています。
死は無になるのではなく、新たなる霊の世界への旅立ちであることを知るべきだといいます。
確かに物質しか存在しないと思えば、幸福になる要素は肉体を喜ばせる快楽のみとなり、精神や魂の喜びは二の次となってしまいます。どんなに一生懸命に生きようとしても、すべては肉体の消滅とともに無に帰してしまうからです。人を傷つけ、やりたい放題に生き、自分のことだけを考え、他人からは奪うだけの人生が最上ということになります。
真の幸福は物質的なところには決して存在せず、“心の原理”「愛=他利=奉仕・献身」にのみ存在することを知るべき。
その為にも知っていてもらいたいのが◆『波長の法則』と◆『因果律(いんがりつ)』だという。

◆『波長の法則』
霊も想念であり、ある意味では非常に電波と似ている。その人の持つ波長が同じ波長を持つ人と同調する。
死後の世界もまた、波長によって分かれる一種の「階層社会」である。高い波長の霊は高い階層へ、低い波長の霊は低い階層へと移動して行き、また無限に続く霊性変化への道を歩むのです。
人間の心の動きと霊との間には深い関係が存在する。あなたが高い波長を持つことができれば、同じように高い波長を持つ霊と同調し、実際の生活も好転させていくことができる。人間が悪い想念を持つと、波長の低い、いわゆる低級霊と同調します。
つまり、私たちの毎日の心がけが、あなたの人生の幸福の鍵となります。「愛=他利=奉仕」に生きる、自分が霊であることを知ることは心を知ることで、心を知り自らの魂を磨いていく。これこそが、人生の最大の意義だといいます。霊の世界には、あなたの魂以外に何ひとつ持ってはいけないのですから。
あなたが永遠に持てるもの、それはあなたの霊、あなたの心、経験だけなのです。

◆『因果律(いんがりつ)』
「自ら蒔いた種は自らが刈り取らなくてはいけない」という原則です。
私たちがこの時代、現代に生まれて生きているということは、決して偶然ではなく大変重要な意味を持っている。私たちは霊界からやってきた。この現世を修行の場として選んだのです。霊界から地上に再生されてくるために、私たちは強い決心をしたのです。私たちは霊界から魂を分けて、自らの目的を果たすため一番ふさわしい親を自ら選び、国を選び、時代を選んで生まれてきました。
たとえば、以前の人生で人を愛することなく終わった人は、この今の人生で人を愛する喜びと苦しみを学ぶのです。もし人を傷つけ、苦しめてきた人ならば、この今の人生では傷つけられ苦しむということを学ぶのです。この世の苦難はすべて、あなたを輝かせるパワ-となる。


●スピリッチャリズムにおける「神と人間観」
心霊科学の見地に立った神や仏の定義は、“自然霊”に属するものです。自然霊とは、この世に肉体を持ったことのない霊を言います。童話や伝承でおなじみのフェアリ−(妖精)や天狗、龍神や稲荷なども、この自然霊に含まれます。
実は私たちのおおもとは、このような自然霊のなかから現れたというのが、心霊科学の常識です。
神や仏とは、このような自然霊のなかでも、最高位のエネルギ−や霊格を持つものということです。
日本では神という言葉は神道より生じています。では、神道でいう神とは「恐れ多く畏怖すべきもの」です。そこには善と悪の区別は存在していません。ですから、邪悪なものであっても、恐れ多く畏怖すべきものならば、神道では「まがつ神」とされ、神の名で呼ばれます。
また、神道では自然を崇拝します。火にも水にも風にも自然の森羅万象に神が宿ると考えられているのです。これを自然霊と考えれば、神道の考え方はある意味では非常に心霊科学的です。
高級霊ほど態度は謙虚で、どんな場合でも、神が人の名づけた名を名乗って現れることなどありません。

魂は、永遠の霊性の進化を続ける旅人です。人間世界を第一の修行の場として、肉体の死を通過した後、幽界、霊界、神界へと進んでいきます。しかし、同時に、神もまた永遠の進化向上を目指す愛の光なのです。私たちは実は無限の大我を目指す未熟な神であり、まだ磨かれていない霊を持った神なのです。いつしか光り輝く絶対の大我=神の粒子になることを目指している。人は誰もみな、落ちこぼれた天使であり、神なのです。
私たちがそれを忘れているのは、この世に生まれてくるときに、その記憶を捨ててくるから。魂の修行の為に。しかし、そっと寄り添ってくれる存在があります。それが守護霊です。
魂磨きは、この世において、人となって修行するか、守護霊となって人を助けながら修行するかのどちらかです。あの世においても、修行が第一なのですが、あの世では同一波長の世界にとどまっての修行となりますので、この世のように様々な霊格を持つ魂が集まった世界とは異なり、修行がなかなか進まないという。


●スピリッチャリズムにおける「高級霊と低級霊」
一般によく“狐憑き“と言われるものがあります。これは動物霊ではなく、現世に姿を現したことのない低級自然霊、または低級自然霊と化してしまったものによることが多い。自然霊とは、この世に肉体を持って姿を現したことのない霊です。いわゆる稲荷、天狗、龍神、たぬき等です。本当に絵で見られる姿をしているわけではなく、そのような性質を持つ“エネルギ−体”と考えて下さい。
自然霊にも低俗なものから超高級なものまであります。まづ頂点に立つ“神”、高級自然霊、妖精(フェアリ−)があります。自然霊には天候など、自然界を司る働きがあります。
特に人間に良い影響を与えているのは、背後霊のなかの自然霊です。もともと人間の始祖は自然霊であり、人間の背後霊を調べてみるとよく龍神、天狗、稲荷等、神の予備軍とも言える自然霊が支配霊としてつかさどっていることが見受けられます。これらはまだ霊界において新しい魂の自然霊であるから、まず、現世において人間をつかさどって守ることにより、神となる修行をしていくと言われています。
背後にいる霊の系統(霊系)が、人間の個性として強く現れます。龍神霊系の人、天狗霊系の人、稲荷霊系の人。
問題となるのは中級より低い自然霊です。“神の使い”である霊であることが多く、人の生業を見てくれたりもします。ところがこれらの霊は大変に俗っぽく、与えた分の見返りは必ず得ようとする性質があります。最初のうちだけ熱心に詣でていても、感謝の心を忘れたりすると、怒り狂います。霊障によって知らせようとしたりします。おろそかにされているうちに、人間の子供のようにグレて低級化していく傾向があります。
自然霊は子供を産むように分霊し、消えていきます。
このような自然霊に対する説得はなかなか難しく、人霊と違って情がありません。肉の家族を持ったことがないので情けというものがないのです。情に訴えることができないのです。だから自然霊は慎重にあつかうべきで、常に敬意を払い、簡単に呼び出そうなどとしてはいけません。
霊界について中途半端な知識を持ち、このような低級霊を呼び込んでしまい惑わされてしまう人は以外に多い。憑依状態が長く続けば続くほど、憑依霊は居心地が良くなる。憑依とは憑く霊ばかりが悪いのではなく、呼び込む自分が一番悪い。「神は人に悩みなど与えていない。神は問題のみを与えているのだ」という。


●スピリッチャリズムにおける「浄霊」
世間で言う供養と似ている。諭された霊は己の進むべき道を理解し、高級霊の力を借りて、永遠の進化向上の旅に出る。
私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の進化・向上も担っているから、地球のカルマ(業)は日本のカルマでもあり、それはまた私たち個人のカルマだから。
私たちはこの宇宙を、地球という星を浄化させるために生きている。私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、神の光の粒子となっていくことです。そのためには、この現世と幽世のすべての魂を浄化させなければならない。

程度の差があっても、私たちはみな憑依を受けている霊媒なのです。霊は、同じ執着を持っている人の波長に感応し、憑依する。そのようにして憑依した霊は、同じ苦しみにあえぐ人と共に悩みながら、その苦しみを克服していく人の姿に諭され、反省し、自覚を持ち浄化していくわけです。
しかし、ときには負うには重すぎる霊が憑依することがある。憑依されている人間が、このまま現世の修行を成し遂げられない恐れが出てきた場合、その時こそ除霊、もしくは浄霊の必要が出てくるのです。


●スピリッチャリズムにおける「霊症」
@先祖、または水子の供養をおろそかにしている場合。
A私たちの一族に縁があり、守っていただいていた神仏の眷属(けんぞく、天狗や稲荷など)を粗末に扱ったり、汚してしまい、その霊の怒りをかった場合。
B自縛霊の宿る場所等に住んでしまった場合。
C生霊、死霊を含み人霊、または動物霊の恨みを受けた場合。
D私たちの波長が低下し、同じように低い波長の未浄化霊を呼び込んだ場合。
E因縁霊。これは本人自身には原因がないのに、自分の血筋の祖先が原因となる問題を起こしてしまい、それを子孫が担ってしまうという場合。これは自縛霊や浮遊霊とは違い、短期間の解除は難しい。


●スピリッチャリズムにおける「霊の国際化」現象
霊には東洋と西洋との間に微妙な違いがある。日本でおなじみの自然霊、狐霊、天狗霊などは東洋独特の存在です。フェアリ−(妖精)も、日本で見る限り、日本風の姿で現れますが、イギリスでは洋風の姿で現れます。霊が現世の文化に合わせているだけかもしれません。というのは、霊はもともとエネルギ−体なので、姿を必要としない。きっと、霊能を持ち合わす者に可視化させるときの方便としているのでしょう。西洋で狐霊・天狗霊に相当する霊はというと「天使」と「悪魔」です。
日本でも稲荷と呼ばれる高位の狐霊と人に取り憑く低俗な狐霊があるように、霊体が高い波長を持つものを天使、低い者を悪魔と呼んでいるだけです。ここで重要なのは、姿で惑わせる場合があるので、霊体のオ−ラの輝きや色によって正しい判断をしなくてはいけないということです。低級霊だからといって軽く見てはいけません。本当に強力なエネルギ−を持ったヤツもいます。
オカルト映画などに出る「悪魔」と呼ばれるようなものも確かにいるのですが、これは単体の霊ではなく、低級化した自然霊・動物霊、人霊などが重なり合って霊団化したものをいいます。日本では「天魔」と呼びます。
西洋には狐霊など存在しないと言いましたが、実は英国にも狐霊が現れ、それがさらに年々増加しています。それは一言で言えば霊が国際化しているのです。人間世界で国際化が進んだ結果、日本で憑依した狐霊が海外に渡り、海外で居座ってしまったのでしょう。自然霊は分霊して増えていきます。


『自分のための「霊学」のすすめ』  江原啓之著(ハ−ト出版)
よりの抜粋


[112] スピリッチャリズムにおける「守護霊」の定義 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/20(Sat) 19:53

私たちが、あの世において、魂を磨き直すためのこの世における再生を決意したその日から、現世における生涯、死後の世界に至るまで離れることなく、神様から遣わされた心の親として指導してくれる存在、それが守護霊、背後霊と呼ばれる存在です。悪運や悪霊が災いをなすことはあっても、それがあなたの為になると思えば、守護霊が試練をあたえることもあるのです。そして、致命傷にならないように注意深く見守っているといいます。大きく四つに分けられます。

◎主護霊(ガ−ディアン・スピリット)
私たちの守護霊の中心的役割を果たしている霊魂です。統計的にみると、四百年前から七百年前に他界した先祖の霊魂がこの主護霊であることが多いようです。
少数の例外を除き、男性には男性の守護霊が、女性には女性の守護霊がついて、私たちを守り指導しています。
この主護霊は、私たちがこの世に生まれる前、そして、現世、死後も本人とは切っても切れない間柄となります。

◎指導霊(ガイド・スピリット)
私たちの趣味や職業を指導している霊魂。芸術家には芸術家の霊が、医師には医師の霊がつく。
この指導霊は、私たちの先祖霊に限られるわけではなく、外国人の霊がつくことも往々にして見られる。外国語の教師には外国人の指導霊が、ヨ−ガの先生にはインド人の指導霊がと、いった具合。
指導霊はしばしば途中で代わることがよくある。その指導している人間が増長したり、傲慢となったり、精進を怠ったりして波長が低下すると、高級指導霊は去り、代わりに低俗な指導霊がつく。一方、精進努力を重ね、謙虚で高い波長を持っていれば、才能がない人でも高級霊を呼び込み、能力を飛躍的に伸ばすことも可能。
スポ−ツなど、この指導霊同士がブレイしあっていて勝負が決まることがよくある。

◎支配霊(コントロ−ル・スピリット)
支配霊とは、霊能者の心霊実験や交霊会で、霊界側のすべてを統括し、支配する高級霊であると言われています。しかし、一般的にはその人間の運命をコ−ディネイトしている霊魂のことをこう呼びます。
例えば、あなたの新たな出会いや、進むべき環境など。
この支配霊は、私たちの十年先もすべて見通すことができるようです。

◎補助霊(ヘルパ−・スピリット)
前述の三役の霊を手伝う霊魂です。
補助霊はさほど古くない霊魂の場合もあります。私たちの身内や近い先祖が、この補助霊となって守ることも多い。
ときには、前世に関わる霊魂などが関与する場合もある。


霊能者の中にも、「あなたには守護霊がいない」などと言う人がいますが、その様なことは絶対にありません。どの方にも必ず、霊的守護はあります。


[111] 参考 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/14(Sun) 20:40

下記の、一連の岡本天明の『霊界研究論集』の抜粋[66][67][77][109]は、
このサイトのメイン・メニュ−にある“よもやま知識”の中の「本田霊学と鎮魂・帰神法」、「心霊科学と古神道」等をも合わせ読んでみて下さいね。
そうすれば、理解も深まると思われます。


[110] スピリッチャリズム映画 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/10(Wed) 18:20

ハリウッド映画の『ゴ−スト』−ニュ−ヨ−クの幻−とか、『ポルタ−ガイスト』シリ−ズなんか観てみると、かなり、スピリッチャリズムの観点から描かれていますよね。
おそらく、原作者、脚本家、監督さんなどがスピリッチャリストなのでしょう。


[109] 審神者(サニワ)秘伝 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/10(Wed) 18:13

この掲示板の、過去における一連の書き込み、
〔66〕神憑り(一つの例)、〔67〕審神(サニワ)、〔77〕霊界交流の方法、に続く書き込みです。久しぶりの内容となります。

岡本天明の『霊界研究論集』1−2「審神者(サニワ)秘伝」よりの抜粋です。なんといっても、自分で一切を確認した内容ではありませんので、その正否は明言できないのですが、何となく、何となくの、「そう言われればそうかな−」と納得できそうな内容でもありますので、ゆっくりと読んでみて下さい。

【霊界の法則】
霊界よりの通信は、高度なもの程、肉体的感応が弱く、暗示的になってくる。
但し、高度の神霊が直ちに肉体人に感応するのではなく、それぞれ霊界の段階を経て感応するのである。時に、例外はあり得るが、この順を乱すことはない。
下級霊は、現実界と紙一重の世界に住んでいるのであるから、感応の際は、人間に、はっきり判る人間的通信である。
高度の神霊の際も、その人のミタマの磨けた程度によって、それと同一波長の神霊が感応するのであるが、その表現は暗示的になって来る。人間の文字や言葉では、十分に神意が表現できぬからである。

霊界は、神界と幽界とに二大別され、神界は、天国(天人)、、霊国(天使)に分かれ、幽界は、陽界、陰界に分けることができる。
幽界とは、俗に云う地獄であって本来はないものである。人間の地獄的想念が生み出す世界である。
しかし、幽界は巌として存在し、人間界とは極めて密接な関係におかれている。初期の感応霊は、殆ど幽界のものである。
事実は、迷信であっても、それを信ずる人があれば、その人間の信ずる観念が迷信を実体化して幽界を作り出す。同一迷信者が多ければ多くなるだけ、その迷信は強大となり、無きはずのものが存在し、しかも、現実界に強く感応してくる。サニワとしても最も注意しなければならぬことの一つである。

幽界の霊であっても、高級なものは、神界のものか幽界のものか、相当なサニワにも見分けられぬことがある。特に、霊眼(ひがん)の開けたサニワが、かえって迷ふものである。例えば、霊光(背光)の如きも、高度の幽界霊は、大きく強く輝き、天界の高級霊と同じに見えるからである。
龍体をもつ霊は、神界にも幽界にもある。龍体を直ちに正神と信じてはならぬ。
霊界に住むものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らぬ。同じ段階にある他の霊界のことはやや明瞭に知っている。
人間界のことをよく知っている霊は、人間界を去って間もない霊か、常に人間に憑依しているものか、である。
特別使命をもつ天使(エンジェル)は別として、人霊以外の精霊で、人間に感応するものは、(日本に於ける場合、)「天狗的なもの」「仙人風なもの」「龍神風なもの」「狐的なもの」「狸的なもの」「猫的なもの」が多く、サニワとして注意すべきである。〈これは、その国、地方の精神文化が関連してくる〉

人間の肉体は原則として正神の宿り給ふ「生宮」的存在であって、下級霊の入り込む余地はない。時に例外はあり得るが、霊の想念、情動は時により動物霊的、幽界的なものを現す。それが為に、それと同一波長をもつ動物霊が感応するのである。
動物霊が人間に憑依して「人間の言葉を使用する」とはどうしても考えられない。インチキであるといういわゆる知識人が多いが、それは一を知って二を知らぬ霊的無知である。人間に感応した場合は、人間の肉体を使用し得るのであるから、人語が無理なく使用出来るのである。例えば、狐の霊ならば狐の様相を現し、誰にでもすぐに見分けられる。

ある種の幽界霊は、自分自身は完全に神界に住んでいると信じているのがある。故に、自信を持って告げる場合が多い。人間の知らぬ世界のことを、自信たっぷりで命令的に告げられると、多くのサニワは参ってしまうから注意しなければならぬ。
幽界霊も時により正しく善なることを告げる。しかし、それは語るのみである。悪人が口先のみで善を語ると同様である。真の善言正語は言行心一致である。ただ言葉の上のみで同一であっても邪神邪霊の声は自ら判る。例えば、同じ“ハイ”と云う返事でも、心からのものと不満を抱きながらのハイとは易々と区別できるようなものである。



【霊の導き方】
必ず愛をもって接しなければならぬ。サニワの心に「わだかまり」のないように心がけねばならぬ。サニワの行として重大な一事である。
多くの場合、最初に出てくる(感応する)霊は外部的のもので下級霊とみてよい。祖霊の感応も最初の頃が多い。祖霊の場合は、何か特殊な事情におかれているか、ある種の執着をもっていると見てよい。執着があるから浄化していない。良識で判断して正しく導かねばならぬ。

感応霊が下級である場合は、無茶なことを云うものである。どんな下級霊であっても馬鹿にしてはならぬ。馬鹿にすると、霊は反射的にサニワを馬鹿にしてとんでもないことをするものである。
大きな声を出したり、威張ったり、飛んだり跳ねたり、のたうち廻る霊に高級なものはいない。しかし、それらに対しても、一応は、その語ることを聞いてやらねばならぬ。
多くの霊覚者や行者なるものが奇跡的なことや非良識的言行を為す場合をよく見受けるが、それは背後霊、外的支配霊の下級なることを自ら物語っているものである。
正神には、奇跡的言動はない。流れる水のさまが正神の姿である。

霊の発動をとめ、静かにさす秘伝は、
国常立大神(くにのとこたちのおおかみ)、・・・・・〈これ以降は危険なので秘密です〉・・・・・・
豊雲野大神(とよくもぬのおおかみ)、・・・・・・〈これ以降も危険なので秘密です〉・・・・・・・・
と唱えて、・・・・・・〈ここも秘密〉・・・・○○○○○をする。

ものの判らぬ霊ほど厄介な者はない。悪なら悪として処理の方法もあるが、箸にも棒にもかからぬ、道理の判らぬ霊には、○○○○○大神様にお願いして気長に導かねばならぬ。

意外なのは、何かに凝り固まって、とらわれている霊が、もの分かりしないことである。殊に一宗にこり固まってしまったもの程始末におへぬものはない。こうした霊に対しては、気長に対する外に方法はない


[108] お祓い(おはらい) 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/08(Mon) 08:18

わが国の伝統ある信仰として、六月と十二月のみそか晦日(みそか) に行われてきた儀式が大祓式(おおはらいしき)です。天下万民の罪穢(ツミ、ケガレ)を祓わんが為にと神祇官(じんぎかん)と陰陽寮(おんみょうりょう)の二つの国家機関が中心となり斎行しました。
特に十二月大晦日の大祓は、罪や穢に触れて汚れている心身を祓い清め、浄々しい気持になってお正月を迎えるためのものです。
心身にツミやケガレが溜まると、様々な災禍を招いたり、障りの元となったりすると考えられ、その心身の大掃除をすることを目的としました。
古人は、これらのケガレを生活圏からいかに隔離するかに頭を悩ませ、水で祓ったり、麻(ぬさ)を使用したり、人形(ひとかた)を「依り代(よりしろ)」としてな 撫(な)でつけて祓う撫物(なでもの)など様々な方法を考案しました。大祓式はこれらの祓いの中でも特に、言葉にひそむ霊力(言霊)と人形(ひとかた)によって祓い清めるものです。
★こうした形代の様な呪物(まじもの)は「償物(あがもの)」ともいわれ、すなわち、生身の人間の身代わりとなってツミ、ケガレを背負って処分されていくものです。三月三日の桃の節句は、現在、女の子の成長を祝う祭りということになっていますが、雛人形(ひんにんぎょう)は本来、飾る物ではなくお祓いの呪物だったわけです。雛(ひな)とは、「人間のヒナがた形」という意味です。つまり、川に流す「流し雛(びな)」こそが本来の形式でした。年中行事というものの多くは、予祝、禁厭、祓除、厄除け、延命招福の呪法ということになります。


[107] さらに・・・・“式神”について 投稿者:道開き 投稿日:2001/10/02(Tue) 17:57

今後、陰陽師ブ−ムが起きそうなので、皆さんが誤解しそうな事柄を少しだけ取り上げてみましょうね。
“式神”・・・の「式」は、「もちいる」の意味です。つまり、“式神”というのは「神をもちいる」ことで、もともと式神という神が存在していたというわけではありません。いつのまにか密教や修験道でいう“護法(童子)”〈ごほうどうじ〉のような一種の鬼神として考えられる様になったようです。ということは、「神霊、人霊、動物霊等を操作し、動かす技術を持った者」が“式神使い”ということになります。よって、陰陽師の呪術合戦といわれるものは、必然的に、式神同士の戦いといった様相を呈してきます。

ついでに、陰陽道における呪いの種類といったものを説明してみますと、二つの種類が有ります。
蠱毒(こどく)といって、動物の魂魄(こんぱく)を操作するもの、全国各地に、長縄(ながなわ・蛇)、猿神(さるがみ)、犬神(いぬがみ)という言葉が残っています。そして、厭魅(えんみ)といって、人形や相手の持ち物を利用するものです。〈国際日本文化センタ−教授の小松和彦先生の著書に詳しく書かれています。先生は、その道の専門家です。〉

しかし、正神は、邪な陰陽師の“意のまま”に動くなどといったことはまずあり得ません。すぐに動き出すのは、決まって、下級霊たちです。そして、「人を呪わば穴二つ」ですから、“作用”があれば必ず“反作用”が働きだします。つまり、“はね返り”がやって来るわけです。それは、「裏専門の陰陽師は末路が悲惨」と言われる所以(ゆえん)でもあります。
よって、力ある正しき神霊の守り(バリア−)の中で暮らすのが、一番の得策と言えるのではないでしょうか。正神の大愛は、邪な式神を正しき方へ導いて、浄化(キャンセル)してしまいます。

また、現在の多くの古神道系教団で行われている多種多様の“浄霊”と呼ばれる行いのほとんどは、幕末の神道家・本田親徳の“鎮魂”の術(彼は様々な霊的操作技術をそう呼んでいます)を元としています。私としましては、この“鎮魂”と、“式神使い”とを、かなり共通したものと認識しております。これはあくまでも、私的見解ですが。


[106] イザナギ流 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/30(Sun) 08:38

昨日、陰陽師、そして、イザナギ流を扱ったテレビ番組が放映されていました。ご覧になった方も多いかと思われます。
イザナギ流というのは、高知の物部村に伝わる民間陰陽道の一派です。文明化されている現在においても、未だに“ナマナマしい”陰陽道祭祀を行っています。
呪詛、呪詛返し、式神使い・・・・
仏教大学の斎藤英喜先生の『いざなぎ流 式王子』が、昨年出版されていますが、その内容は、実に詳しく、生々しく、怖いものです。
ちよっと納得ができないなぁ−という箇所も多々あるのですが、でも、かなり鋭くポイントをついています。
正直、こういった本を世に出してしまっていいのだろうかと思った程です。本当に怖い。
しかし、「光のあるところには必ず蔭がある」ということを知っておくのも勉強になると思われます。
これは総ての世界について言えることですので。
真っ暗な闇を知ることによって、本当の光の輝きを知りうるということもあります。本当です。
差し向けられた外法(げほう)や外道(げどう)〈・・・低級霊のこと〉をブロックして、祓ってくれるのは高級神霊にお仕えしている神々さまたちです。
こういったことを知っていると、皆さんも、日々の神明奉仕にも心がこもり、心が引き締まるとも思われます。しっかりと神様に心を合わせて日々を過ごして行きましょう。


[105] サタディ−・ナイト・フィ−バ− 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/27(Thu) 14:23

“みちのくYOSAKOI(よさこい)祭り”を見てきました。
映画『サタディ−・ナイト・フィ−バ−』の中で、皆で踊るシ−ンがありますが、あの“WA(わ)風”屋外版といったものでした。
プロの舞踏団顔負けの連(れん)を組んでいるグル−プも多かった。
高知で大賞を受賞したという連は、かなり洗練されていました。
北海道の連は“ソ−ランよさこい”の発祥の地だけあって実にパワフルでした。
しかし、踊る人たちの心には、祭りとしての“神さま”に対する意識といったものは、全く感じられなかった様な気がします。つまり、
「サタディ−・ナイト・フィ−バ−」でした。
でも、私個人としましては、歌や踊りが大好きなので、非常に楽しかったですね。来年も見に行きたいですね。

さて、私、特に宮城県を中心として、東北地域の若手神職の仲間たちと、神道一般の研究会を組織しております。60名程度の会員数なのですが、その中の一人の会員から“よさこい祭り”についての報告を受けておりましたので下記にてお知らせいたします。


こんにちは。
いつもお世話になっています。
小学館の雑誌「SAPIO」1/24,2/7合併号に少々気になる記事が載っていたので紹介致します。

―日本の魂を見よ― 第七回  國友須賀
    〜よさこい踊りの伝道師は狂乱怒濤の踊りの中で
            自分の中のカミと出会っていた。〜
                       文/生江有二
〜略〜
須賀よさこい連の衣装は白地に真っ赤な太陽、「よさこいにっぽん」と染め抜かれている。『まほろば』と名付けた曲が流れる。
上半身裸になった6名の若者が毛槍のようなマトイを振りかざし、
投げ合いするうちに、百名の密集した踊りがテンポをあげて変化する。集散が速い。見えない綱を引き、さざ波が打ち寄せる浜辺になり、やがて見る者も心をふるわさずにおかないほど激しい足つかいになる。
 
    ここはまほろば 美しき花よ
    ひともまほろば 美しき心
    偉き人も 貧しき人も
    心踊れば 皆同じ
    心踊れば 皆同じ

繰り返される歌はいよいよ速くなり、百のエネルギーがひとつになった瞬間、曲は終わる。その間4分あまり。
〜略〜
よさこい踊りの源流は高知にある。1954年、高知商工会議所観光部会が、戦後混乱期を抜け出すための景気づけとして「よさこい鳴子踊り」を始めた。
「よさこい」とは本来「夜さ来い」のことのようだ。
鳴子を持ち、そろいの浴衣姿に下駄。女衆の多くは鳥追い笠を被り、
高知市内の目抜き通り練り歩く。
300年の伝統を持つ阿波踊りの向こうを張った踊りだが、当初は参加団体21連、踊り子数750名という小規模のものだった。それが昨年夏の祭りでは130団体、15000人を越える踊り子数に膨れ上がった。それだけではない。現在では全国に約7000団体、およそ200か所でよさこい踊りにルーツを持つ祭りが行われている。その立ち上げのほとんどに國友須賀は関わってきた。
〜略〜
瞠目のよさこい祭りが終わった年の冬、國友はダンス教室のインストラクターを連れて高知の山の中の村にジャズダンスの講習に行った。
その夜。旅館のこたつに入りながら、ダンス公演の台本を書いていると、突然、眼前に大きな光が射してきた。
思わず覆うと、光の中でもうひとりの國友が踊っている。
それは見たこともない踊りだった。
しかも、<この世の無感動、無責任、無気力をただせ>という音のような言葉のようなものが流れていた。聞き終わった途端、國友ははっと目覚めた。
インストラクターを叩き起こしたが、何のことかと不審そうな顔をする。
思わず廊下の窓を開けると、満天の星が輝いていた。
「疲れや睡眠不足がトランス状態を作り出したのでしょうが、
私はようやく納得できるものに出会えたんです。
思わず、分かった、とひとりで呟いたのを昨日のことのように覚えています。」
批判を恐れずに、感動に満ち溢れる踊りを人々に広げよう。
國友は離婚した夫との間にできた2人の息子の親権をめぐって、すでに5年、裁判で争っていた。この訴訟も取り下げ、よさこいに力を注ぐことを決意した。
それから15年近く経った。よさこいは全国に広がり、父親のもとにいた2人息子は今、須賀のよさこい連で、マトイを振る渦の中にいる。
〜略〜
「江戸時代の末期のおかげまいりも、リオのカーニバルも、国の力やエネルギーが衰退したとき、人々の中から生まれてきた。よさこいも同じです。
バブル崩壊の頃からぐんと広がりだした。」
高知で変化し始めたよさこい踊りの熱狂を見て、まず、新居浜市(愛媛県)がよさこいを導入した。現役北大生がよさこいをソーラン節とミックスさせ、よさこいソーラン踊りを札幌で始めたのが9年前である。
〜略〜 北海道各市、石川、広島、岡山、仙台など次々と祭りは増殖していった。
〜略〜
―――――――――――――――――――――――――――――――
だいぶ文章を省いたのですが内容はわかりますでしょうか?
日本という国はなんとも言えない不安が増大したとき「おかげまいり」のようなことが起こる国です。まぁ、現在の日本はアメリカの属国のようなものなので昔の日本人とはだいぶ違うかもしれませんが・・・。
しかし、よさこい祭りにルーツを持つ祭りは「おかげまいり」と同じような現象だと私は見ています。さて、この現象について神社界はどのように考えるでしょうか?
元々神社は一般民衆と心を供にしてきたはずだと私は思います。
この現象に神社界はどのようにもできないと思いますが、全く何も感じないとしたら民衆と心は解離してしまっているのではと思います。
もしそうだとすると極論かもしれませんが皆は神社を必要としなくなるでしょうね。
それではまた何かありましたら連絡致します。誤字脱字がありましたらお許して下さい。


[104] みちのく(YOSAKOI)よさこい祭り 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/22(Sat) 10:33

どういう訳か、ほんの2〜3年で一大イベントになってしまったこの祭り。若者たちがフィ−バ−ッてる様を、今日、見物してきます。

http://www.michinoku-yosakoi.net/index01.html


[103] 映画『陰陽師』 公開迫る 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/20(Thu) 17:53



  http://www.onmyoji-movie.com/main/index.html


[102] 月の輝く夜に 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/18(Tue) 09:28

世の中何事が起きようとも、何時いかなる時代においても、何ら変わることなく人々を照らし続けているのは、お天道様とお月様です。
もう十日あまりで“中秋の名月”を迎えようとしています。

月の光は実に神秘的です。その月の光の不思議さと、月影の、人間心理に与える微妙な影響力を描いた名画があります。
『月の輝く夜に』です。ロック歌手だったシェ−ルの主演で、アカデミ−賞の主演女優賞にもノミネ−トされました。
本当に不思議な、不思議な、現代のニュ−ヨ−クの下町を舞台にしたロマンチックな、まるで映画を見た人が総て魔法にかけられてしまうような映画です。
私個人としましては、どちらかというと、『シンドラ−のリスト』、『ゴッドファ−ザ−』といったシリアスな映画を好むのですが、この作品だけは別ものです。まさに“ム−ンライト・マジック”を描いた映画でした。一度観てみるといいです。魔法にかけられてしまうこと間違いありません。

もう一つ、月の光を描いたシ−ンが心に残る映画があります。それは黒沢映画で、『八月の狂詩曲(ラプソディ−)』という作品です。
長崎の原爆をテ−マに扱った映画です。
その中に、田舎の家屋の前にある縁台に座って、久々に集まった親族の人たちが、月の光を受けながらに語り合うシ−ンがあります。そこで、たしか主人公のおばあちゃんのセリフだったか、「月の光は、人の心を洗うなあ・・・・」というものがありました。
本当に、月の光が、それぞれに複雑な問題をかかえて集まっている人々の心を、清らかにしている様がしみじみと感じられるシ−ンです。

私個人としましては、学生時代に、鹿児島の与論島で行われた少林寺拳法部の夏期合宿を終えた帰りのフェリ−から眺めた、太平洋の大海原を照らしていた大きな月が忘れられません。そして、数年前に霊島・金華山で眺めた“中秋の名月”、塩釜神社での修業時代、職舎への帰り道に、階段を下りながらいつも眺めていた月が忘れられない。

これからも“夜空(宇宙)を仰ぐ文化”は大事にして行きたいものです。
どうぞ、[白鬚神社窓口]のメイン・メニュ−の中の、新たに設置したペ−ジ「禰宜からのメッセ−ジ」をご一読いただければ幸甚に存じます。


[101] 民族の苦難ひさしく 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/13(Thu) 08:25

“地球市民”、“世界人”といった言葉が、先進的知識人といった人たちの間で口にされる。それはそれで立派な概念だと思う。
しかし、“祖国”を持たない民族が、どれだけの苦難の道を歩んできたかをも十分に考えてみるべきだとも思う。つまり、“祖国”といった概念をもよくよく考えてみた方がよい。

ソロモン王の栄華を誇った“ユダヤ”の民。イスラエル建国までには、記憶は定かではないのだが、確か三千年は流浪を重ねたはずである。映画『シンドラ−のリスト』を思い起こせば、その苦労の程が理解できると思う。(イラクのフセインに虐め続けられてきたクルド人なんかも可哀想だし、アイルランド紛争などもどうにも収まらない。)
第二次世界大戦後、国連から、シオンの山の麓、約束の地カナンに建国を許され現在に至っているイスラエルではあるのだが、今度は長き年月に渡ってそこに定住していたパレスチナ人を、新たなる難民にしてしまった。
イスラエルも必死だし、パレスチナの人たちも命がけだ。遠巻きに眺めて、“崇高なる世界市民”の概念からはほど遠い“愚かな争い事”だなんて考えるのは平和ボケしてしまっている日本人ぐらいではなかろうか。

アメリカはユダヤ資本の強い国なのでイスラエルの味方をしているが、アラブ系の国々はパレスチナ人に同情的だ。それが今回のようなテロ事件(おそらく戦争になりそう。)を生み出してしまった。
両者の紛争は、このままでは何百年も続いてしまう。早い内に共に納得の出来る形で領土を決めてしまわないことにはどうにもならない。
国連のもと、日本がリ−ダ−シップを取って調停に持ち込めれば、世界中から尊敬され、感謝される国となるのだろうが。


[100] ヨ−ロッパをゆかた姿で 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/05(Wed) 17:35

数日前、ぼ〜っとしてテレビを見ていましたら歌手の今井美樹さんがお話をされていました。

「夏のヨ−ロッパを浴衣(ゆかた)で歩くのが夢なの。」

とのこと。
これって、かなり意味の深い言葉だと思えます。日本古来の文化に深く関わる私たちの様な者にとっては、何かやたらに明るい希望が見えてくる言葉です。
外国の人たちから見ると、着物姿の日本女性は、この世の者とも思えないほどに神秘的で、美しく見えるそうです。
逆に、日本女性が欧米の女性の“マネばかり”をするのはノ−・グッドで、全然良くないそうです。全くの不評です。

そういえばイチロ−の出場している大リ−グ中継を観ていると、観客の中のゆかた姿の日本人女性が、しばしばテレビカメラに写し出されている場面を目にします。おそらく彼女らも、今井美樹さんと同じ気持ちでゆかた姿でスタジアムに足を運んだのでしょう。

「たけし、所の“WA(和)風がやって来た”」という、日本文化の世界への広がりを扱ったバラエティ−番組が、高い視聴率を稼いでいるようです。一昔前までは、こういった番組が出てくるなんて考えも及ばなかったです。
世の中、激しい国際化が進み、日本人自身が、日本、日本人というものを自覚し、意識し始めた現れだと思われます。

戦後、長きに渡って、“自虐国家日本”と言われる程に、占領軍によって刷り込まれた“東京裁判史観”の呪縛から逃れられずにいた日本人。戦前とは180゜打って変わって、自らが日本古来の文化をバカにし、否定し、欧米ばかりを見るようにされてしまっていた日本人です。が、ここにきて、凄まじいばかりの社会のグロ−バル化の進展によって、漸く、誇りなり、自信なりを持ちうる機会を得たように思われます。
よかった、よかった。「ガンバレ日本!」


[99] 定禅寺ジャズ・フェスタ 投稿者:道開き 投稿日:2001/09/02(Sun) 11:24

仙台初秋の風物詩ともなりつつある
定禅寺通りジャズ・フェスティバル
暇な人はいってみましょう。  

http://www.comminet.or.jp/people/yscafe/JAZZ/jozenji1.htm

http://www.joho-miyagi.or.jp/member/sjazz-f1/

ほとんど完璧に洋風の催し。


[98] モノの“かたち” 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/29(Wed) 21:15

下記の[95]〜[97]の、占いに関する一連の書き込みの補足です。
おそらく、亀卜(きぼく)、鹿卜(ろくぼく)と言っても、一般の人たちには何の事やら、さっぱり解らないと思われます。
中には、亀に徒競走させたり、鹿に角相撲でもさせて占うことなのだろうかと思われている方もいらっしゃることでしょう。

亀卜とは、亀の甲羅を、鹿卜とは、鹿の骨を、火に掛けることによって生じた亀裂(きれつ)の形、つまり、象(かたち)、象意(しょうい)を読み解くことによって、物事の吉凶をみる占いなのです。

江戸期の国学者たちの多くは、伴信友の『正卜考(せいぼくこう)』に伺えるように、日本に古来より伝わる太占(フトマニ)の研究を行っています。
太占を行い、神意を伺う際に唱えられたのが「と・ほ・か・み・え・み・た・め」の神言(しんごん)です。これはそのまま“三種祓い(みくさばらい)”という「お祓いの詞(ことば)」にもなりました。

カルデア人の動物の肝(きも)を使用した占いも、“モノの形”で占う亀卜、鹿卜に近いものなのでしょう。占星術も、“数理”による占いというよりは、天象(てんしょう)、つまり、天の形(星の位置関係)による占いとなるのでしょう。

最後に、易の“繋辞伝(けいじでん)”の一節を掲げて、一連の占いに関する説明を終わりたいと思います。

「天神 物を生ずれば、聖人 これに則(のっと)る。 天地 変化 すれば、聖人 これにならう。
 天 象(しょう)を垂(た)れて吉凶を見(しめ)せば、聖人 こ れに象(のっと)る。・・・・・」


[97] ピタゴラス 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/29(Wed) 12:22

ピタゴラスは、紀元前6世紀に活躍した、ギリシアの哲学者、数学者です。数学の「ピタゴラスの定理」が有名ですね。
彼には、もう一つ、宗教者の側面があり、“数がこの世の総てを成り立たせている”と説いています。教団をも作っていました。
西洋における「現代数秘術」と呼ばれるものは、「ピタゴラス数秘術」のことです。

ちなみに、ギリシア哲学の大賢アリストテレスも「世界は音階と数字で成り立っている。」と説いています。


[96] カルデア人 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/29(Wed) 12:10

現在、一般に西洋占星術と呼ばれているもののル−ツは、古代バビロニア(現在のイラクあたり)にあります。
まぼろしの“占いの民”と呼ばれたカルデア人によって生み出されたとされています。(紀元前6千年〜7千年以前とも言われています。実に古い。)

彼らの“占いの力”の凄さをあらわす有名なエピ−ドが伝わっています。シ−ザ−の時代には、古代ロ−マが勢力を拡大し、多くのカルデアの占術師をロ−マに連れてきていたそうです。
彼らは、動物の内蔵を使った占いをも得意としていたということです。(今流行の“動物占い”とは全く関係有りません。)
シ−ザ−も、身近にカルデアの占い師をはべらせ、常に万事に渡って占わせていたということです。
ある日、彼らが、いつも通りにシ−ザ−のその日の吉凶についての占いをしてみたところ、あまりにも不吉な兆しが現れました。カルデアの占い師たちはシ−ザ−の外出を強く制止したそうです。しかし、シ−ザ−は彼らのいさめを聞き入れずに外出したといいます。その結果が、あの有名な「ブル−タス、お前もか」の言葉が残っている暗殺に遭ってしまいました。

「占い」は、不吉な事柄を前もって察知し、それを吉に転化していく方法を模索していくための手段です。それは、又、吉事を知るための手段でもあります。くれぐれも誤解なさらずに。


[95] シャ−マニズムから亀卜、そして蓍筮へ 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/29(Wed) 11:26

「亀卜(きぼく)」、「鹿卜(ろくぼく)」、「蓍筮(しぜい)」、「占筮(せんぜい)」といったもののル−ツは、遠く中国の古代に求めることが出来ます。

一般に「占い」と呼ばれるものは、古代の中国のみならず、広く世界各地で行われてようです。それらは極めて原始的なものであり、“シャ−マン的”、“霊媒的”なものでした。それにたずさわる人たちは、絶対的な権威をもって人民に臨んでいたようです。
古代中国において、この役割を担った人たちは「巫(ふ)」、あるいは「祝(しゅく)」と呼ばれていました。彼らは主として「亀卜(きぼく)」、「蓍筮(しぜい)」によって神意を伝えたとされています。

紀元前13世紀頃の黄河流域に栄えた殷(いん)王朝の遺跡“殷虚”からは、おびただしい数の亀の甲羅(こうら)、鹿の骨等が発掘されました。国事から王の日常生活に至るまで万事に渡って神託をうかがった“神政国家”だったということは、皆さんも中学の歴史で学んだはずです。

「蓍筮(しぜい)」の起源もかなり古いのですが、大きな発展を見せるようになったのは、“殷”の次の王朝“周”の時代(B.C.12世紀〜)になってからとされています。ここに、現在でも筮竹(ぜいちく)を使って行われている“易(周易)”のル−ツがあります。

「亀卜(きぼく)」も「蓍筮(しぜい)」も、ともに原始的シャ−マニズムから生まれたものですが、そこには大きな違いがあります。
「亀卜」が、「巫(ふ)」や「祝(しゅく)」の霊性に依存する度合いが大きく、神秘的性格が濃厚であるのに対し、「蓍筮」は、“数理(すうり)”つまり、数を基礎としており、かなり理論的、理知的なものとして発展を遂げて現在に至っています。


[94] 映画『フォ−レスト・ガンプ/一期一会』 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/23(Thu) 09:17

ここ数日、NHK教育テレビで、アメリカの著名な俳優養成所“アクタ−ズ・スタジオ”出身者のインタビュ−番組が放映されている。
ゆうべは名優トム・ハンクスが映画志望の大学生たちの前でインタビュ−に答えていた。

よく考えてみますと、彼が主演したアカデミ−賞作品『フォ−レスト・ガンプ/一期一会』は、全く以て「白鬚神社の窓口」の中にある
“目安箱”の
    書き込み[30]人間万事塞翁が馬
の語っている内容そのものを扱った映画だとフト感じるところがありました。
以下の、ガンプのお母さんからのメッセ−ジが、映画の随所に出てきますよね。

「人生は箱の中のチョコレ−トと同じ、開けてみなければ解らない。 
 何が飛び出すかはお楽しみ。」


[93] ときわ荘の青春 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/19(Sun) 14:29

今回もアニメの話になります。
現在、日本のアニメ文化は世界を席巻している観があります。
他国の一切の追随を許さぬ、“ノ−・マ−ク独走態勢”とも言えます。(この表現は私が子供の頃に流行っていたロ−ラ−ゲ−ムの実況放送のアナウンサ−の表現ですね。懐かしい。)
ポケモン、ドラゴンボ−ル、ドラえもん・・・・・・
アメリカなどは自国の子供たちがポケモン一色に染まってしまっているということで、ポケモン・バッシングを起こしたほどです。社会現象を通り越して社会問題にまでなってしまいました。
日本の経済力もさることながら日本のアニメ文化が“驚異”とまで受け取られたのです。

そのような世界に冠たる日本のアニメ文化だって、昔からあったという訳ではないのです。戦前のディズニ−映画、例えば“白雪姫”を観ればわかるかと思いますが、ちよっと前まではアメリカの方がレベルは遙かに上でした。
つまり、今日のようになるまでには、有名無名の人たちの多大なる努力の積み重ねがあったのです。

“ときわ荘”。知る人ぞ知る、多くの有名マンガ家を輩出したオンボロボロボロのボロ・アパ−トです。マンガの神様・手塚治虫を慕って日本中からマンガ青年が集まったマンガの“聖地”です。石森章太郎、赤塚不二雄、藤子不二雄A・F、千葉てつや・・・(あとは忘れてしまいました。)
今でこそ、マンガ家という仕事は、社会的に認められるようになりましたが、当時は、ちょっと変わった人たちの集まり程度にしか認識されていなかったようです。ようやく認められだしたのは“鉄腕アトム”がテレビアニメ化されて以降のことだそうです。
業種は違っても、世界のソニ−や松下電器、ホンダ、トヨタだって、案外、下町のオンボロボロボロの町工場から、やはり戦後になってから世界に飛び出しています。
それらの創始者たちに共通するのは、とにかく自分の仕事が好きで好きで、創意工夫し、研究に没頭する。そして果敢に挑戦していくベンチャ−精神を持っているという点です。

そういった企業の創始者たちも、マンガの大家になった先生たちも、同じく口にすることがらがあります。それは、「若い頃の下積み時代こそが、人生の内で一番幸せな時期だった」ということです。
若い人たちは夢を持って、目標を定めて、それに向かって突き進んでいって下さい。そうすれば戦後まもなくの頃と同じように、閉塞状態にある日本社会に一閃の光が見えてくることでしょう。


[92] 『千と千尋の神隠し』を観てB・・・・言葉の力 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/11(Sat) 13:46

さらに下の〔90〕〔91〕に続く。
「今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。」
「名前を奪うという行為は、相手を完全に支配しようとする方法である。」
「言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」

そういえば、20年以上前になるが『ル−ツ』というテレビ映画を思い出してしまう。世界中で大ヒットした。黒人作家アレックス・ヘ−リ−の先祖七代に渡ってを描いた凄まじいドラマだった。

私は、その初代のトビ−ことクンタ・キンテと、3代のチキン・ジョ−ジが好きで好きでたまらなかった。
クンタ・キンテはアフリカで、部族の祭りの太鼓用の木を探している最中に“奴隷狩り”に遭ってアメリカにつれてこられてしまった。
彼は、トビ−と名前を付けられたが、俺の名はクンタ・キンテだと言い張り、ムチで背中の皮がずたずたになる程に打たれ、死にかける直前までクンタ・キンテの名を名乗り続けたシ−ンを思い出す。
何度も脱走を繰り返し、最後には片足を斧で切り落とされてしまった。それでもあきらめず、年老いて死に至る直前まで、アフリカに帰ることばかりを人に語っていたという。
「俺は奴隷なんかじゃないんだ、誇り高きマンディンカ(族)の戦士なのだ」と。そして彼は、自分の生まれた地の地名、親戚の名、風習などを言い表したマンディンカの言葉を子孫に代々言い伝えさせた。

その孫のチキン・ジョ−ジの代になって、ようやく一家は自由を手にした。彼は、本当の意味で、生きる知恵と力を持った人物だった。私は本当に大好きだ。

ヒデオ全5巻も出ています。ぜひ観て下さい。

キング牧師などの民権運動を経て今日に至っているが、本当の意味での差別の撤廃は未だ為されていないようだ。でも、黒人の市長まで出るようになっている。期待は持てそう。

とにかく、それ程までに、言葉とか名前というものは大切なものなのだということです。


[91] 『千と千尋の神隠し』を観てA・・・・日本の伝統 投稿者:道開き 投稿日:2001/08/11(Sat) 13:00

下の〔90〕に続きます。
「日本の伝統的意匠が多様なイメ−ジの宝庫だからでもある。民族的空間−物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまで−が、どれほど豊でユニ−クであるかは、ただ知られていないだけなのである。」
「私たちがどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色鮮やかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。それは同時に、私たちがこの島国の住人だという事を改めて認識することなのである。」

ぶっちゃけた話、神道界にとって、宮崎監督一個人の存在は本当に助かるな−と思う。それにつけ、私を始め、神職、神社界の人たちは本気で頑張って行かなきゃいけないな−とついつい思ってしまう。
ほんと。


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