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[62] ●「人は放っておくと鬼畜(モンスター)のようになる」 Name:道開き Date:2009/07/03(金) 20:13 
下記[61]の「二宮尊徳の教え」に続きます。
「人は放っておくと鬼畜のようになる」という尊徳の言葉の、「鬼畜」を「モンスター」に置き換えてみると、現在の日本社会の実情を現しているかのようでもあります。

「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」の喩えのように、戦前の軍部の大暴走に懲りて、戦前のもの一切を否定してしまい、その替わりに、戦後の教育界の大暴走を招いてしまったようにも思えます。その結果として、「モンスター・ピアレンツ」「となりのクレーマー」の大増殖、そして、「イジメ社会」の実現につながったとも考えられるのです。

日教組などは、現在でも「正直、親切、勤勉、チャレンジ精神、親孝行」といった人としての美徳を教えることを価値観の押し付けであるとし、“道徳教育反対”、“全国学力調査反対”、“教育基本法改正反対”を掲げているとのこと。
いい加減にして欲しいと考えているのは私だけではないです。とにかく、飲み会でも、集会でも、人が集まるとこの類の話になります。


[61] ●二宮尊徳の教え Name:道開き Date:2009/06/28(日) 18:06 
下の書き込み[60]“二宮金次郎、アゲイン!”Part2 の続編です。
経済のバブルが膨らみ、崩壊してしまう以前の日本経済は、諸外国からは、「自由主義経済圏に在りながら、最も社会主義経済が成功した例が日本である」と評されていたようです。どうして、本家のソ連や東ヨーロッパ、中国ではなく日本だったのか。
戦後、日本経済の舵取りをした政財界人たちの多くは戦前の教育を受けた方たちで、何となく、「皆が、二宮尊徳の“報徳思想”をごくごく自然な形で身につけて育った方たちだったから」ではなかろうかとも考えられます。

現在、官僚や政治家のみならず、宗教者も警察も、教師も一般の父兄たちも、日本人の皆がおかしくなっているのは、戦前のように、二宮尊徳の「報徳思想」を学ぶことができなくなった事によるものではなかろうかとも思われるのです。

近々、総選挙がおこなわれるようです。多くの国民は「自民党には不満で、民主党には不安」を持っていると言われています。確かに、自民党で「行革」に命を懸けているように見えたのは渡辺喜美大臣くらいだったような気もしますし、小泉構造改革のような理念なき改革も空恐ろしいものがありました。民主党の場合は、「行革」に対しては非常に期待するところがあるのですが、せっかくの教育基本法の改正等の「教育改革」を反古にしてしまいそうな日教組を代表する議員の姿も見られるし、馬鹿の一つ覚えのように、“ジェンダー・フリー”や“夫婦別姓”ばかりを声高に騒いでいる「フェミニスト」議員の姿も見受けられます。こういった連中の行動には、本当に不安を感じます。

以下は『『世界に誇る日本の道徳力 ー心に響く二宮尊徳90の名言ー』からの一部抜粋になります。

●古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。国ばかりでなく、家でも同じ事で、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて立ちゆかなくなる。
―富へのチャンスは風のようにやって来ます。そのチャンスを生かすには資金にゆとりが必要だというのです。―

●学問を活用することを知らない学者は世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
―尊徳は、あくまでも“実践”を尊びました。教師が聖職でなくなり、労働者になった戦後の学校教育では子ども達の学力は著しく低下し、自然の成り行きとして学習塾がはやり、父母の負担は重くなりました。―

●およそ世の中は、「知恵」があっても「学」があっても、“至誠”と“実行”がなければ、事は成らぬものと知るべきだ。

●ひとまず放免(ほうめん)無頼(ぶらい)の貧民をさし置いて、離散滅亡(りさんめつぼう)するにまかせるのが、わが法の秘訣なり。
―怠惰な貧民は改心するまで放っておいて、心が改まったら支援を惜しまない。―

●およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばローソクに大中小とあるようなものだ。
人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日のもうけ、一年生きれば一年の得だ。

●天が生命の根元の徳をくだせば、地はこれを受けて万物を発生させる。親は子を育てるのに損得を忘れて、ひたすらその成長を楽しむし、子は育てられて父母を慕う。
夫婦の間でもお互いに楽しみ合って子孫が相続する。農夫は勤労して植物の繁栄を楽しみ、草木はまた喜んで繁茂する。「みんな、ともども苦情がなくて、喜びばかりだ。」
この道に則(のっと)るならば、商売のしかたは売って喜び、買って喜ぶようにするべきだ。貸借もそうで、借りて喜び、貸して喜ぶようにするべきだ。

●「身分の高い者、富んだ者が人を救うことを好まなければ、身分の低い者、貧しい者はどうして人を救う気持ちになれようか。」
万物は地に生じ、財貨は貧者の力で生ずる。けれども、地は天の恵みを受けなければ一物をも生ずることはできず、貧者は富者の力を借りなければ財貨を生ずることはできない。
「天地相和して万物が育つように、貴賤貧富が相和して財貨が生じる。」

―富める者が社会に尽くし、貧者を救うのは人間の義務である。財貨を得た者が貧困者を救う行動を起こさなければ、経済は動かず貧富和合は難しい。持てる者が多く譲ってこそ、人の道にかなうのです。社会福祉の向上とは、一人ひとりのまじめな勤労が余財を生み、弱い者、貧しい者に譲り助ける精神から出るもので、社会、国家が豊かに幸福になるための基本。―

●仁というのは人道の極地であるが、この湯ぶねの湯のようなものだ。これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こうの方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうへ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。
少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前で、手前にかき寄せれば不仁となり不義となるのだから、気をつけなければならない。
「譲って損はなく 奪って得はない」

●決して疑ってはならない。信ずべきものは「積善の家に余慶あり」の金言だ。けれども、この余慶も余殃(よおう)も必ずしも、すぐに回ってくるものではない。「桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。」

●「天理」と「人道」の区別を、よく理解できる人は少ない。およそ人身であれば欲があるのは自然であって、田畑に草が生ずるのと同じことだ。堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる。これがすなわち「天理」なのだ。そこで「人道」は私欲を制するのを道とし、堤を築き、堀はさらえ、橋は掛け替えるのを道とする。
このように、「天理」と「人道」とは別々のものだから、「天理」は万古変わらないが、「人道」は一日怠ればたちまちすたれる。だから「人道」はつとめることを尊び、自然にまかせるのを尊ばない。
「人道」でつとめるべきことは「己に克つ」という教えだ。「己に克つ」というのは、わが心の田畑に生ずる草をけずり捨て取り捨てて、わが心の米麦を繁茂させるつとめのことだ。

●「人道」は“中庸”を尊ぶ。水車の中庸は、ほどよく水中に入って、半分は水に従い、半分は逆に回って、運転滞らないところにある。
人の道もそのように、自然に従って種を蒔き、自然に逆らって草を取り、欲に従って家業に励み、欲を制して義務を思うべきだ。

●「人は放っておくと鬼畜のようになる。」
教えを立てたり、刑罰法制を定めたり、礼法を設けたり、やかましくうるさく世話をやいて、ようやく「人道」は立つのだ。
―“躾(しつけ)”と“教育”でようやく「人道」は立つ。―

●太平が久しく続けば、奢侈遊惰(しゃしゆうだ)に流れて国家が衰廃を免れないのは自然の成行きである。

●「我というその大元を尋ぬれば、食うと着るとの二つなりけり」

●もっとも重んずべきものは住民の米びつである。

●「やりすぎては嫌われる。」
およそものごとには度合ということがある。飯をたくにも、料理をするにも、「みんなほど良い加減が肝要」なのだ。

●人にも甘い性の者があり、辛い性の者がある。これもまた偏りである。だから、でしゃばる者は控えめにさせ、引っ込み思案の者は引き立ててやり、甘い辛いを調和して、始めて世の中に容れられ、人に用いられるようになる。
―人の特性をどう活かすかはリーダーの器しだいだということです。―


★★★宇宙自然を見るとき、表裏、陰陽、プラスとマイナス、男女など、対になる反対の事象があります。それらを統合してみる「一円観(いちえんかん)」が報徳思想の基本となります。いくつかの言葉を以下に取り上げてみます。★★★

●運も不運も“循環”している。

●香(におい)あるものはその香をしらない。白きものは白きを知らず、黒きものは黒をしらず、・・・・水中のものは水を知らず、火中のものは火を知らない。
本来ことごとく外(ほか)の色あいから自分の色が知れるのである。「一切万々、自分の善し悪しは人が見ているもので、自分は案外、知らないものである。」

●「心眼で見れば見えないところはない。心耳で聞けば聞こえないものはない。」

●「犬の立場も考えよ」
―ある農家が麦を干しておいたら、犬が来てそれを食べたので百姓が怒って犬を殺そうとした。これをさとした言葉。―
  「ちうちうと嘆き苦しむ声をきけば ねずみの地獄 ねこの極楽」

●世人は蓮(はす)の花を愛して泥をいやがり、大根を好んで下肥(しもごえ)をいやがる。私はこういう人を半人前という。
蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むこと、この上なしではないか。
「世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。」これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう。


[60] “二宮金次郎、アゲイン!”  Part2 Name:道開き Date:2009/05/13(水) 16:12 
『世界に誇る日本の道徳力』。 今、話題の一冊です。著者の石川佐智子さんは、公立中学校教諭として15年間勤務した後、子育てをしながら家庭児童相談員、PTA役員などを経て、教育評論家として活躍されている方です。

本書では、二宮尊徳の珠玉の言葉を紹介しながら、現在の日本が失った「経済とモラルを調和させる実践哲学」を説いています。
二宮尊徳は、生涯で計620カ所の町村の財政再建に成功し、多くの農民たちを救う偉業を成し遂げました。その再建手法はというと、「まず人の心に種を蒔き、人の道を教え諭すことから始め」たというもの。

いまや個人も国家も借金大国となった日本において必要な考え方、富と人間性を両立させるために必要な考え方が記されています。


★二宮尊徳を読むためのキーワード

【報徳】:すべてのものの徳性(価値や特性)を認め活かす(報いる)こと

【心田開発】:何事を成し遂げるにも、まず本人のやる気を起こさせること

【至誠】:真心

【分度】:自分の収入に応じた生活規準

【推譲】:余財を生みだし、それを家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、
     広く社会のためや未来のために譲る(他譲)

【積小為大】:小事を疎かにしていて、大事を為すことはできない


★心に響く二宮尊徳90の名言 

「米をみて直ちに米を得んと欲する者は、盗賊鳥獣に等しい。人たるものはすべからく米を蒔いて後に米を得ることである」

「金銭が多すぎるのは不便の至り」

「貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる(中略)富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめる」

「桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない」

「譲って損はなく、奪って得はない」

「心が正しく平らかでなければ得た富も逃げていく」

「瓜(うり)を植えて茄子(なす)を求めるまちがいをするな」

「いい種も悪い種もすべて自分が蒔いたもの」

「その“才”があっても、その“力”がなければ行なわれないし、その“才”、その“力”があっても、その“徳”がなければ行なわれない。その“徳”があっても、その“位”がなければ、やはり行なわれないのだ」


★以下は、7年前にこちらの「目安箱」に記したものです。ご参考までに。

[45] 二宮金次郎、アゲイン!     投稿日:2002/01/26(Sat) 11:52  
 二宮金次郎(二宮尊徳先生)といえば、神奈川県小田原市の報徳二宮神社の御祭神としてもまつられていたり、冨士講(ふじこう)の流れを汲む実行教(じっこうきょう)等の教義との関連もあったりと、何かと神道との関わりの深い人物でもあります。

かつて、日本中の小学校には金治郎の銅像がありました。その数は一人の人物の銅像としては日本一、いや世界一ではなかったかとも言われているようですが、最近では余り目にすることもなくなったような気もしています。彼の唱えた“報徳”思想とか農政といったものは、現在の様な社会構造からは時代遅れと取られるようになってしまったのかもしれません。

しかし、ここに来て金治郎を扱った映画やアニメ等も作られ始めていることもあり、極端なまでに戦前の教育を否定してしまった戦後教育の誤りの見直しも叫ばれている昨今でもあります。とにかく中高年にはやたらと懐かしく郷愁を誘う金治郎の像です。


『二宮金次郎』 作詞作曲不詳/文部省唱歌

柴(しば)刈り縄(なわ)ない 草鞋(ぞうり)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲良く 孝行つくす
手本は 二宮金次郎

骨身を惜しまず 仕事をはげみ
夜なべ済まして 手習い読書
せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
手本は二宮金次郎

家業大事に 費(ついえ)をはぶき
少しの物をも 粗末にせずに
遂には身を立て 人をもすくう
手本は二宮金次郎

 二宮金次郎は天明7年(1787)、現在の神奈川県小田原市の農家に生まれました。
金治郎14歳の時、たび重なる河川の氾濫により田畑は借金の方に取られ家族離散の憂き目にあい、叔父の家に引き取られました。叔父の家には数多くの蔵書があったようで、ここで学問に精を出すことになったといいます。やがて小田原藩の家老の学僕となり藩校へも出入りを許され四書五経を学びます。さらに、荒地の開墾を自ら行い、実践的な農政をも学んでゆきます。「積小為大(せきしょういだい)」の思想や「報徳」運動の基礎はこの時期にできあがったと言われています。この頃には既に窮(きゅう)民に対する施(ほどこ)しなどもおこなっており、社会事業家としての片鱗も伺えます。

 さて金治郎の銅像がどうして日本中の小学校に広まったのか、一説には明治43年に、鋳金師の岡崎雪聲氏が制作した“柴を背負った姿”の銅像を御覧になられた明治天皇がたいそうお気に召されたことと、「教育勅語」の体現者としての評価とが相まり、昭和11年をピ−クとして全国的に競って建立されたと言われています。

やがて、銅で作られた二宮金次郎像は大戦中に軍の供出(きょうしゅつ)に遭い、多くの小学校から姿を消しました。そして戦後ともなると、金治郎像そのものが封建的な旧体制の象徴とも取られるようになります。

そういった徳川の世に花開いた“儒教文化”の農政的体現者・実践者ともいえる金治郎が、どうして現代の日本において再び取りあげられ始めているのかを考えてみます。すると、やはり戦後の著しい西洋化の波に押し流されてしまった、そういった儒教的な、古き良き精神文化の再評価といったものがあるようです。


[59] ●古代地中海世界B  スピリチュアルな問題について Name:道開き Date:2009/04/17(金) 12:14 
古代オリエント世界においては、「死者の書」をもつエジプト人と「最後の審判」を説くゾロアスター教のペルシア人(現イラン人)を除いて、明確な来世観を持った人々はいなかったようです。

★エジプト
何と言っても、しっかりとした来世観が示されていたのはエジプトです。マアト(真理)に従い、心正しくそれを守って生きれば、人は必ずあの世の神々のもとで幸せに暮らせるという約束がありました。死の問題については、希望や救いが人々の心を支えていたようです。
地中海全域に広がったエジプトの女神“イシス信仰”の根底の部分にはこの来世観があり、それで人々に迎え入れられたのだとも考えられます。

★ペルシア
ペルシアのゾロアスター教では、魂における善悪の葛藤の中、正義に従って善行を重ねた者だけが救済され、死後の「最後の審判」において天国に行くことができるとされました。ローマ帝国内で隆盛を極めたペルシア伝来の“ミトラ教”の根底部分には、この来世観があったようです。

※イシス信仰やミトラ教にくらべてキリスト教の場合は、度重なる弾圧を受けたこともあってか、4世紀に入ってからローマ帝国から公認され、後に国教とされましたが、さほど大きくもない教団だったようです。コンスタンティヌス帝により国教化されたことで、短期間の内に教勢が広がったとされています。

★ギリシア
古代ギリシアやローマでも、死後の世界は「沈黙と暗黒の黄泉の国」でしかなかったようです。神々に対する共同体の祭祀は捧げられましたが、個人の信仰、死後の来世観については希薄だったようです。「生あるうちに人生を楽しめ」といった人生観が存在しました。

そういった中でも、古代ギリシアにおいては、「不死なる神々の世界に近づき、生と死を連続したものとして感じよう」とする人々もいたようです。その中でも、前15世紀頃の「エレウシスの密儀」は名高いものがあります。こういった個人あるいは私人としての密議宗教の中から、しだいに“魂”という観念が生まれたとされています。

中でも「オルペウスの教え」といったテキストが伝わっており、それらがギリシア人の一部では重んじられていたようです。「肉体と魂との二元論」「魂の転生」の概念が、数学者ピュタゴラス、哲学者ソクラテス、プラトンに多大なる影響を与えています。

「魂はすべて不死なるもの」、「魂は人間の形の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていた」、肉体はわれわれを閉じこめる監獄であるから、死は「魂の肉体からの解放」であり、人生の目的は、来世で神々と共に生きるために、魂を磨き浄化することにある。 (ソクラテス)

「魂は犯した罪のために償いをしており、拘束されるために牢獄にかたどった囲いとして、身体を持っている」、「死骸となった肉体は死者の影のようなもの・・自己の行為を報告するために、〔死後は〕あの世の神々のもとへ立ち去っていくのだ」 (プラトン)

※オルペウス教徒やピュタゴラス派は自分たちの謎めいた教義を隠そうとしていたようですが、ソクラテスとプラトンはおおやけにして議論しています。


[58] 古代地中海世界A  一神教の起源 Name:道開き Date:2009/04/14(火) 19:38 
映画『十戒』に描かれているのは、預言者モーゼがヘブライ(イスラエル)の民を率いてエジプトから「約束の地」カナンに向かったという、旧約聖書の中の一節「出エジプト記」です。

旧約聖書の伝承では、ヘブライ人の族長アブラハムの一族はメソポタミアの都市国家ウルを出て遍歴をつづけ、いったんカナンの地に入ったあと、孫のヤコブの世代にエジプトの地に寄留を許されたと記されています。その後、その地で子孫を増やしましたが、エジプトから長年にわたる過酷な労働を強いられたとされています。

★アクエンアテンの一神教
古代エジプトの信仰は太陽神ラーを中心とする多神教です。特徴としては、強烈な“来世信仰”が挙げられ、あの世での復活が説かれる『死者の書』が有名です。

さらに、神々ですら従わなければならないとされる“マアト”という概念が挙げられます。それは、「真理」であり、「正義」であり、「秩序」であり、「法則」でもありました。ギリシア人の基本的価値観である「真、善、美」を一つに合わせたようなものだともされています。

その様な伝統的多神教のエジプトで、新王国第十八王朝のアメンヘテプ四世(BC14世紀)はアテン神(太陽神ラーの別名らしい)のみを唯一神としてあがめる宗教改革を断行し、ほかの神々への信仰を禁じます。みずからの王名もアクエンアテン(「アテン神に有用なる者」)と改めました。しかし、この王の死後、すぐに伝統的信仰に戻り、唯一神信仰がエジプト社会に根づくことはありませんでした。

やがて、太陽神ラーの娘ともされる慈愛あふれる愛の女神イシス信仰がローマを始め地中海世界全域に広がって行くことになります。

「出エジプト記」を、このエジプトの唯一神崇拝者集団が国外追放のなかで蒙った苦難の物語ではないかとする研究者もいます。精神分析学の草分けであるフロイトなども、預言者モーゼはエジプト人であり、アクエンアテンの唯一神への信仰をヘブライの民に伝えたものではなかろうかといった説を唱えています。

★ユダヤ教の成立
映画『十戒』といえば、モーゼがヘブライ(イスラエル)の民を率いてエジプトから逃れる途中、紅海の水が二つに分かれて道ができるスペタクルシーンが最も有名ですが、シナイ半島に辿り着き、40年さまよった後に「約束の地」カナンに定住します。

映画では、シナイ山でモーゼが神から「十戒」を授かる際に、イスラエルの民が偶像崇拝をして狂乱騒ぎをするシーンがでてきます。これは一時期、ヘブライの民が、農耕民だったカナン人の主神バアル(嵐の神、豊穣と多産を約束する神)信仰へと傾いた史実を現しているようです。

ダヴィデとソロモン王の時代に栄華を極めますが、前587年に新バビロニア王国にユダ王国が滅ぼされ、イスラエルの民は都バビロンへと連行されます。(「バビロン捕囚」)
その後の三世代にわたる受難の歴史の中でユダヤ教が成立します。エリヤ、アモス、エレミヤ、エゼキエル、イザヤなどの預言者がでて、イスラエルの民がバアル神崇拝などに染まることを激しく非難し、モーゼ以来の「律法」を厳しく守っていくようにと主張します。

●ゾロアスター教
BC14〜10 世紀頃(詳細は不明)、伝統的多神教であったイランで、預言者ゾロアスターによって創始されたゾロアスター教も唯一絶対の神アフラ・マズダを崇拝します。その教義は、「善と悪」、「光と闇」といった“二元論”に集約されます。後のローマに入ったミトラ教や、キリスト教、イスラム教の説く「天国と地獄」「天使と悪魔」の概念にも強く影響を与えたとされています。
なによりも「善行によって救済される」ことが強く説かれました。

●イスラム教
6世紀後半、多神教を伝統として来たアラビア半島で、唯一神アッラーからの啓示を受けたムハンマドが、ユダヤ教とキリスト教を土台に発展させた一神教の厳格な信仰を説きます。

イスラム教では、「旧約聖書」はもちろん、「新約聖書」も神から与えられた啓典と認めていますが、「ユダヤ教徒とキリスト教徒は、それらの内容を誤って伝えている」と主張しています。神が最後に地上に遣わした預言者ムハンマドを通して授けられた「コーラン」こそが、旧約、新約の二つの聖典を確証づける最も優れた啓典だとしています。



◆◆「一神教と多神教」の境目◆◆
一神教の中にも多神教的側面があり、多神教の中にも一神教的な側面があり、その区別はかなり曖昧であるとされています。
例えば、キリスト教のカトリックなどはかなり多神教的です。それは原始キリスト教の時代に他の異教の信仰を取り込んだ際の痕跡を多く残しているからです。

★“天使”信仰
ゴッドの手足となり、つまり、唯一神の使いとして働くのは数あまたの天使たちです。これを、神道的な呼称でいえば、八百万(やほよろず)の神々たちであり、大天使ミカエル大神とか、ガブリエル大明神とでもなりそうです。仏教的に表現すればミカエル天とか、ガブリエル菩薩とか、モロニ−大権現とでもなるのではとも考えられます。
又、神道の中にも、天御中主神(あめのみなぬしのかみ)といったゴッド的な神様もおられるし、仏教でも大日如来とかはそうです。

さらに、同じ宗教内でも、宗派によってかなり神観念が違ってきます。神道にもかなりキリスト教的な教派もありますし、仏教の真宗なども阿弥陀仏の唱名が第一で、かなりキリスト教的です。

★“聖母マリア”信仰
地中海世界が「ローマの平和」の中に統合されていくとき、各地域の“女神信仰”はエジプト伝来の“イシス信仰”に集約されていきます。キリスト教はそれをさらに“聖母マリア信仰”に読み替えていきます。マリアとイエスの「聖母子像」などはイシスとホルスの像の転用だとされています。これら女神たちがまつられていた神殿の場所に教会を建立することを奨励しました。

しかし、それは“女性原理”の受容としては不徹底であり、そこに一神教宗教の最大の課題が残されたとされているようです。
いく度かの宗教会議を経た後、マリア信仰を認めないネストリウス派(景教)が分離したりもしましたし、プロテスタント(新教)諸派も聖母崇拝の観念は薄いです。

★祭礼・風習
「クリスマス」はミトラ教の冬至の祭礼を、「カーニバル(謝肉祭)」はゲルマンの春の到来を喜ぶ祭を、「ハロウィン」はケルトの収穫感謝祭を取り入れたものだとされています。

★“聖人”崇拝
布教の際に弾圧を受けて亡くなった殉教者たちを積極的に称揚することが行われました。「諸聖人の日」が定められ、「聖像(イコン)」が使用されるようになります。


[57] 古代地中海世界@  多神教の土壌 Name:道開き Date:2009/04/05(日) 19:24 
最近、BSで映画『ベン・ハー』、『十戒』が放映されましたが、ヨーロッパの信仰史を考える場合には、中心に地中海を位置させた状態でヨーロッパ地図を見ないと理解が困難であるように思われます。

古代の地中海世界の信仰形態はというと、各地域とも数多くの神々を崇拝する、いわゆる多神教でした。オリエント(メソポタミア、エジプト)、ギリシア、ローマ、小アジアのいずれの地域でも特に篤く信仰されたのは“愛と豊穣と多産をもたらす地母神”、即ち“女神”たちです。
シュメールのイナンナ神、アッカドのイシュタル神、カナンのアナト神、小アジアのキュベレ神、フェニキアのアシュタルテ神、エジプトのイシス神・・・・・ギリシアのアフロディーテ神(ラテン語名はウェヌスであり、英語ではヴィーナス)等・・・・・

アレクサンドロス大王の東征に始まる「ヘレニズム期」(BC3世紀頃)には、各地域間の交流も盛んとなり、“信仰の融合”が起こりました。つまり、これらの女神たちは同一神であるとの解釈がなされたりするようにもなります。
膨大な『世界宗教史』を著した宗教学者のエリアーデなどは、“ヘレニズムの宗教融合”は人類史上の大事件であったとさえ指摘しています。

やがて、ヘレニズム世界は共和政ローマに飲み込まれ、それらの地域の神々が後のローマ帝国内に流れ込みます。
いずれも救済宗教〈教団〉のかたちを取り、エジプト系のイシス、小アジア系のキュベレ、イラン系のミトラ(歴代の皇帝たちから尊崇を受け、後に大天使ミカエルとしてキリスト教に取り込まれた)、ギリシア系のディオニソス(バッカス)などは、特に民衆の心をとらえました。
※唯一神ヤハウェを崇拝するキリスト教もこれらの救済宗教と同様にローマに入りました。

小アジア系のキュベレ女神などは帝政期の貨幣にも刻印され、公認の祭儀が捧げられていました。なぜこの異国の女神がローマの貨幣にまで刻印されたのか。それは、前216年のカンネの戦いで、ローマがハンニバル率いるカルタゴ軍に大敗北を喫し、数万の兵士を失った際(その戦死者数を上回る戦闘は第一次世界大戦までなかったといわれるほど)、その原因を自分たちがあがめるべき神への崇拝を怠ったからではないかとの自問に至ったことによるとされているみたいです。
つまり、当時の地中海世界で広く霊験あらたかと信じられていた巫女シビュラの予言にうかがいを立てたところ、小アジアのキュベレ女神であると出たため、女神の聖石をローマの都に迎え入れて祭礼を行った後に大勝利した事に因むようです。

※後に、キリスト教会の権威が強まりすぎて「暗黒の中世」と呼ばれるようになった時期には、これらの巫女シャーマンたちは悪魔を崇拝する魔女として裁判に掛けられ火あぶりにされました。いわゆる「魔女狩り」です。
信仰の多様性、寛容性を失い、どうにもならないところまで行き詰まった中世キリスト教社会でしたが、14世紀、古代ローマの中心地だったイタリアで、“ルネサンス(文芸復興、古代復興)”という精神運動が起こり、天才たちが描いた芸術作品上に古代の神々が甦りました。(ボティッチェリの絵画「ヴィーナスの誕生」などに見られるように・・・)

※“悪魔”という概念
古代メソポタミアにおいては、神々に対する祭礼の儀式を怠ることはありませんでした。それでも不幸な出来事は起こり、それには何かが神々の意志に反しているからだと考えられ、罪を意識するようになります。罪に対しては罰が宣告されます。それを執行する者こそが悪魔でした。専業の呪術師により、聖水や薬草を使用した「悪魔祓い」が行われ、呪文が唱えられました。
映画『エクソシスト』の冒頭のシーンも、メリン神父がメソポタミア(イラク)の古代遺跡を発掘中に悪魔ルシファーの像が掘り出されたところから話が始まります。


[56] 未来予想図U Name:道開き Date:2009/03/17(火) 14:02 
下の書き込み[55]に続きます。

●新(あらた)しき  年の初めの  初春の
    今日降る雪の  いや頻(し)け吉事(よごと)

『万葉集』全4,516首の最後を締めくくる大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌です。家持は『万葉集』の最終的編集者ではないかともされているようです。

「旧暦の元旦と立春が重なる年は19年毎に巡って来るが、この年はそういっためでたい年であり、豊年の瑞兆(ずいちょう)である雪も降っている。ますます吉事よ重なって行け」

といった内容の歌で、今後の未来を祝福した歌で締めくくっています。
「めでたい言葉を発すると吉事が起こってくる」という“言霊(ことだま)信仰”が基になっています。

今年の元旦に、NHKのBS-hiで「万葉集への招待」という三時間枠の番組が放送され、『万葉集』の面白さを十二分に堪能させていただきました。視聴者による人気ベスト10だとかいった試みも楽しかったし、歌の詠まれた現場のハイビジョン映像も素晴らしかったです。これほど楽しく『万葉集』にふれられるなんて想像もしておりませんでした。

有名な恋の歌や死者を悼む歌、自然を喜ぶ歌のみならず、今で言うところのナンセンス・ソングだとか、酒を讃える人生の哀歌だとか、東国から九州に赴いた防人(さきもり)の母を思う歌だとか、実に多種多様な歌が集められていること知りました。・・・・中には、「地方に単身赴任している夫の浮気の現場へ、都から妻が早馬を里中に轟かして乗り込んできた」というかなり危ない歌(大伴家持の作で、部下を戒めた歌らしいのだが、かなりのユーモア・センスの持ち主だったことが窺えます)なども紹介されたりしました。

学校で教わる古典文学としての『万葉集』は、格調高いものとして必要以上に権威付けをしてしまったり、文法にこだわりすぎたりしているようにも思われます。そうすると、和歌そのものが持つ生気のようなものが伝わってこなくなるし、古めかしい堅苦しいものにしてしまうことにも成りかねません。和歌の伝統を発展させて行くのも衰退させてしまうのも、その捉え方、取り上げ方一つによるのではとも考えられるのです。

文明の利器を活用して映像と共に和歌を味わえれば、若い人達もイメージを膨らませることもでき、さらなる興味が湧いてくるのではとも考えられました。

やはりここでも大切になってくるのは、関わった人の“温故知新のバランス感覚“ということになるのでしよう。


[55] 未来予想図 ー三浦家の人々ー Name:道開き Date:2009/03/09(月) 16:58 
中年ともなると、“フィジカル的”に目標にできる人物像が特定しにくくなってきます。
十代、二十代の頃なら、あの野球選手、このオリンピック選手のようでいたいといったイメージも思い描きやすかったのですが、今はとても難しいです。

そんな中でも、プロ・スキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんと、父の三浦敬三さん親子は、目標とするには十分に理想的な人物像ともいえそうです。

三浦雄一郎さんといえば、小学校3、4年生の頃、年に二回ほど全校生が集まって開かれた映画上映会で見た記録映画が今でも記憶に強く残っています。三浦さんがパラシュートを背負って挑戦した、「富士山頂からの直滑降」を扱った映画でした。

昨年も、75才で世界最高峰のチョモランマへの登頂にも成功されました。世界最高齢登頂者としてギネスの認定も受けたようです。
(ちなみに、テレビに流れたこの時のチョモランマ頂上からの眺望は、毎朝行っている「鎮魂行(ちんこんぎょう)」の際の、一部イメージとして活用させてもらっています。)
その強靱な体力にはただただ感心させられるばかりです。

おそらく、そこいらの十代、二十代の若者と相撲を取っても三浦さんが勝つでしょう。体格を見ればなんとなく分かります。私も学生時代は、柔道と少林寺拳法に励みましたので、対戦相手の道着姿をみれば、戦う以前に、不思議とその実力の程を計り知ることができたものでした。こういった事は、多少なりとも誰にでも経験のある事にも思われますが。

父親の三浦敬三さんも凄いです。二年ほど前に101歳でご他界なされたようですが、生前のお姿は何度かテレビで見たことがありました。100歳での自炊生活、料理のレシピには自らの工夫を凝らし、毎日欠かさずに行うウォーキングと軽いランニング。100歳の方がランニングするお姿は感動ものでした。ある種の“崇高さ”さえ感じられました。

三浦家四代揃ってのフランスのモンブランからの滑走などは、地元メディアにも大きく取り上げられたみたいです。まさに三浦ファミリーは「日本の誇り」のようにも思えます。


[54] ●『ありがとう』 Name:道開き Date:2009/02/28(土) 16:52 
直木賞作家の平岩弓枝さんといえば、渋谷の代々木八幡宮の一人娘として生まれた方です。旦那さんの平岩昌利宮司はというと、現在の東京都神社庁長です。

平岩さんはテレビ番組の脚本家としても有名で、代表作には時代劇の『御宿かわせみ』シリーズ、ホームドラマの『肝っ玉かあさん』、『ありがとう』等があります。
“古き良き日本人の心、人情”といったものを描き続けて来られました。

その中でも、小学生の頃に見たホームドラマ『ありがとう』の主題歌の歌詞が、だいぶ前から気になっていました。黒住宗忠の神歌にも通じているような歌詞だったからです。

「爽やかに恋をして  爽やかに傷ついて  爽やかに泣こう・・・

いつも心に青空を  いつも心に微笑みを・・・・

・・・・・・今日も 明日も ありがとう  」

といったもの。

後に、平岩弓枝さんの原作と知り納得がいきました。神道そのものが本質的に明るい信仰でもあるので、「神社で生まれ育ったことによるもの」とも考えられました。
本県神社出身の“イケメン”芸人・狩野英孝さんも負けじ劣らず明るいです。

更に最近では、家族を描こうとすると、ホームドラマではなくホラーになってしまうという現実もあるみたいですが。


[53] ●黒住宗忠の“教え”と“禁厭(まじない)”の奇跡 Name:道開き Date:2009/01/28(水) 16:14 
下の書き込み[51]、[52]に続きます。

人はもともと太陽神・天照大御神の分霊(わけみたま)であり、心は「日神の御陽気(ごようき)」が凝(こご)ってできたものだから、「人欲を去り、正直に明らかなれば日神と同じ心」に他ならない。人の主人は心であって、肉体や、これは我だと思いこむ我執(がしゅう)は家来にすぎない。形を去り、昼夜ありがたいと喜び、心に陽気を満たして、何事も天にまかせて、面白く、楽しく暮らすなら、その人の生はそのまま日神の生であり、ほかのいずれかの場所を求めなくとも、今生きているその場その時が「神代(かみよ)」なのだと説きました。

※面白いことに、映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』に描かれている聖フランチェスコの踏んだ“成巫過程”(生死の境をさまよった「病」、「天命直受」の神秘体験、その後の「教え」)は、黒住宗忠の場合と極めて酷似しています。

宗忠が数々の奇跡を現した禁厭(まじない)とはどういったものかというと、
「ただ吹いて撫(な)でるのみ」
であったということです。
「有るものは 皆吹き払え 大空の  
     無きこそ元の 住家(すみか)なりけれ」
などといった神歌を唱えながら病人の身体に触れたり、陽気を吹きかけたらしい。

又、遠くに離れている人に対しては、祈りを込めた御札を祀らせたり、御洗米を食させたり、神水を飲ませたりして同様の奇跡を現したということです。

つまり、その原理はというと、「誠意を以て祈りさえすれば、空間的距離を超越して必ず相手の心に感応し、効験が現れる」というもの。即ち、「誠の祈りには叶わぬこと無きもの」、「みなこれ、その人々の誠の処より天地の誠の生き物呼び出すと存じ奉り候」とも語られている。

★「講釈」による奇跡
後に、宗忠の六高弟の一人とされた赤木忠春の場合。
二十二歳の時に眼病を患い、ついに失明するにいたった。叔父のすすめで宗忠の講釈に列したところ、一心になって聴いている内に有難さが心魂に徹し、思わず頭を上げて壇上を仰ぐと、八年越しの盲眼におぼろげながら宗忠の顔が映った。即座に入門し、おのれのすべてを宗忠に捧げる。京都の宗忠神社の創建にも尽力した。

生まれつき烈しい性格の持ち主であったらしく、生前、宗忠からは「慢心を去れ、慢心ほど恐ろしいものはない」と常にいましめられていたという。赤木自身も、かなりの数の重病人を治したと伝えられている。


[52] ●「天命直授(てんめいじきじゅ)」の神秘体験 Name:道開き Date:2009/01/21(水) 20:19 
下の書き込み[51]に続きます。

文化9年(1812)8月、宗忠は、わずか七日の間に父と母とを「痢疾(りしつ)」で失い、傷心のあまり病の床に就くようになる。三年越しの病に医師にも匙(さじ)を投げられる。

文化11年正月19日、「自分は父母の死を悲しんで陰気になったために大病になったのだから、心さえ陽気になれば一転して病気は治るはずだ」と気づく。「せめて残る息のある間だけでもそのように心を養うのが孝行であると思い定め、天恩の有難さに心を向ける」と、その時を境に病が軽くなった。

同年3月19日、いまだ臥床中の宗忠だったが、急に入浴して日拝したいと言い出す。そのようにすると、年来の病は一時に全快してしまった。

同年11月11日、冬至の朝、宗忠が日拝して一心不乱に祈っていると、日の出の太陽のような光の玉が突然身に迫ってきて、それを口からまるごと飲み込むという神秘体験をする。
この時の日神との合一体験は、「笛を吹き、糸を調べ、金を叩き、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」(『宗忠大明神御伝記』)ほどの楽しさで、心気とみに快活となったと伝えられている。


[51] ●伊勢神宮と黒住宗忠と“長州の暴れん坊”高杉晋作との関係 Name:道開き Date:2009/01/12(月) 16:51 
年末年始のテレビ番組は、各局とも力作が多いので、毎年楽しみにしています。
その中でも特に気に入った番組が二本ほどありました。どちらも北野たけしさん関連の番組でした。

一本は、クリスマス・イヴの夜に放送された「東条英機と日米開戦を扱った史実ドラマ」でした。国家のシステム内に「統帥権」という不備があった為に、時の総理大臣たちも、天皇陛下でさえも止められなかった“軍部の暴走”が起きてしまったというもの。

その中でも、「あれっ?」と思われた箇所がありました(おそらく私だけかもしれませんが・・・)。開戦前夜の総理を務められていた近衛文麿公が結婚式を挙げられた神社として、京都の宗忠(むねただ)神社が取り上げられていたシーンです。「もしかして、近衛公も黒住教(くろずみきょう)の信仰者だったのかな?」とも思われたからです。

もう一本は、「教科書では教えない日本の歴史」といったもの。“神道”と“仏教”、そして、暦の年中行事に残る“陰陽道”等の関連を解り易く取り扱って下さいましたし、二十年に一度の伊勢の御遷宮(ごせんぐう)も紹介されました。

そこで、以前にも「陰陽五行窓口」の中の「掲示板」にも書き記しました、かねてからの私の持論を再度書き込みさせていただきます。今後、どなたかの、こちら方面からの研究を期待いたします。


●[207] 宗忠(むねただ)さま
投稿日:2002/10/22(Tue) 18:56
 江戸期の文化年間、岡山の今村宮という神社にて代々神職を務める黒住家に生まれた黒住宗忠。労咳(ろうがい、肺結核のこと)を患うが、その病のどん底の、三十五才の冬至の朝、日拝(日の出の太陽を拝む神事)の最中、起死回生の伊勢神宮の御祭神・天照大御神よりの「天命直授(てんめいじきじゅ)」の神秘体験を得る。以後、講話と禁厭(まじない)によって布教を行い、数々の奇跡を現し多くの人々を救った。

 武士階級の門人も多く、死後、室町期以降の近世を通じて神祇界に君臨した吉田家から、宗忠あてに「大明神」の神号の下賜を受ける。京都の神楽岡には宗忠神社が建立され、関白・九条尚忠をはじめ、明治維新の大立物たる三条実美など公家の中にも信者が増える。やがて、宗忠神社は孝明天皇の勅願所として指定され、そして、尊王運動の拠点として、志士たちの崇敬を集める。門人たちによって、現在の神道教団・黒住教が創設された。

◎天(あま)てらす 神の御心(みこころ) 人心(ひとごころ)
     一つになれば 生き通しなり

◎何事も 有り難いにて 世にすめば
     向かふものごと 有り難いなり

◎有り難〔き〕 また面白〔き〕 嬉し〔き〕と
     神酒〔三き〕を備うぞ 誠なりける

◎有り難や かかるめでたき 世にいでて
     楽しみ暮らす 身こそ安けれ

◎何事も ただ楽しむに しくはなし
     ねても起きても 天の心を

◎何事も 心のままに かのうゆえ
     ねてもさめても 有り難きかな

※宗忠は、「有り難い」「ありがとう」といった“感謝の心”こそが「神心」なのだと説きました。



●[210] “長州の暴れん坊”高杉晋作の信仰 について
投稿日:2002/10/23(Wed) 21:38
高杉晋作といえば幕末の長州に現れた余りにも有名なヒ−ロ−です。“長州の暴れん坊”とも称され、司馬遼太郎氏の歴史小説などでは革命家としての一面のみが強調されているようです。二度にわたる幕府の討伐軍から、奇兵隊ほか諸隊を編成してまるで鬼神の如き獅子奮迅の活躍によって長州藩を救い、明治維新への道を開き示した人物です。

しかし、「ほんとうに単なる革命家だったのだろうか?」という疑問も残ります。もしかしたら「黒住教」を信仰していた“宗教戦士”だったのではなかろうかとも思える節もあるのです。
司馬遼太郎といえば歴史小説の大家で、私のような者がとやかく言えるような方ではないのですが、氏の作品には志士たちの信仰的側面が描かれていないことは、たびたび指摘されるところでもあります。
勝海舟、西郷隆盛、大久保利通についても、哲学的な側面は描かれていても、信仰的な側面は全く描かれていません。坂本龍馬などについては、逆に、そういったものとは程遠いところに生きた人物として描かれています。

やはり私としましても、司馬遼太郎の志士たちの信仰的側面の描き方には、大学生当時より満足のいかないところがあったのは確かです。氏は幕末の黒住教の隆盛についてはあまり深く知らなかったであろうし、おそらくは全く興味がなかったのでは無かろうかとさえ思われるのです。


★天誅組(てんちゅうぐみ)の乱の首領として大和十津川にやぶれて自害した藤本鉄石が、自決した時に肌につけていた腹巻には「宗忠の七ヶ条」が巻き付けられていたと伝えられます。

★ 晋作が、馬関の砲台を占領した四カ国艦隊との和議に、長州藩の全権代表として臨んだ際も、日本国が神代よりの神国であることを『古事記』、『日本書紀』から引用し、相手を煙に巻いたのだとして司馬遼太郎は小説に書いていました。・・・「本当に煙に巻く為に神さまの話を持ち出したのだろうか?  真剣に、信仰的にそれらを引用したのではないだろうか?」とも考えられるのです。

★晋作が、病身を投げ打って、近代化された幕府艦隊に夜襲をかけて粉砕に向かった際に乗った木造のボロ艦船の名は、晋作自らが名付けた“お天道さま(おてんとうさま)丸”でした。

★晋作が、死の床に伏していた時に詠んだ“辞世の句”も残っています。

   「 面白(おもしろ)き こともなき世を 面白く 」

という“上の句”を詠んだ後に話ができなくなってしまい、 “下の句”の                  

   「 棲(す)みなすものは 心なるかも 」

は、臨終に立ち会った勤皇家・望東尼が加えたものとされています。

“下の句”を聞いた晋作は、微笑みながらただ一言、「 面白いの〜 」という言葉を残し、あの世へと旅立ったと伝えられています。

★晋作の死因は宗忠も若い頃に患った労咳(肺結核)だったのですからなおさら黒住教信仰が連想されてきます。


[50] ●「神話」の力、「神名」の力 Name:道開き Date:2008/12/04(木) 19:42 
『古事記』の上巻、『日本書紀』の神代巻に書き伝えられてきた「日本神話」。その中の神々の「御神名」こそが“神道の力”の源なのだと考えられます。さらには、日本、日本人の精神性の根源であるとも言えるかもしれません。
長年、神職をしてきて最近つくづく感じるのは、それらの神々に対し、大和言葉(やまとことば)で奏上する「祝詞(のりと)」の言霊(ことだま)こそが“神主の力”の源なのではなかろうかということです。

※参考
当サイトのメニュー[祭神]の所に記した儒者・山崎闇斎が提唱した【垂加(すいか)神道】の説明に尽きるのではなかろうかとも考えられます。
更に、メニュー「日本の神さまの御名の由来」も御参照下さい。

★【垂加神道】における猿田彦命
江戸時代初期の儒者・山崎闇斎(あんさい)が提唱した神道【垂加(すいか)神道】では、朱子学における「理」を、わが国古来の神道の「天之御中主(あめのみなかぬし)神」に当たるとした。そして、その教えを『日本書紀』神代巻にある神々の働きに求めた。道は「日神(天照大神)」、教えは「猿田彦の導」くところだと説く。

彼はアマテラスの御徳義と一体になるためには、一心不乱に神に祈り、微塵の曇りなき心身の清浄をたもたねばならないとし、そうすることではじめて神明に通ずるとした。これがアマテラスの神勅から採られた垂加神道で特に重んじられた「神垂祈祷(しんすいきとう)、冥加正直(みょうがせいちょく)」の意味。


[49] ●映画『デルス・ウザーラ』 Name:道開き Date:2008/10/29(水) 20:26 
この四月から、BS2で、「没後10年 黒澤明特集 全30作品」といった番組が放映されている。黒澤映画のDVDボックスを購入しようかどうかと迷っていた私にとっては、非常に得した気がしています。

映画『デルス・ウザーラ』は、12月6日の放送が予定されているようです。この作品は高校時代に始めて観ました。どうして日本映画界の巨匠がソ連映画のメガホンを取られたのかと疑問を感じたものでしたが、当時の黒澤監督は、ハリウッドからアメリカ映画界への進出を阻まれたり、日本でも制作費が掛かりすぎるということで作品が撮れなかったりと、行き詰まって自殺未遂事件まで起こしていたようで、その直後の作品だったみたいです。

シベリアの大自然の中に生きる猟師(日本の“マタギ”の様でもあるし、ある種の“シャーマン”とも言える)デルス・ウザーラと、同名小説の作者で、探検家、軍人のウラジミール・アルセーニェフとの友情が描かれた作品です。

何と言っても圧巻なのは、今でも記憶の中に強烈に焼き付いているのですが、氷点下50度まで下がったシベリアの極寒の湖上(もしかしたらアムール川)の夜を二人きりで凌ぎ切って生き抜いたシーンです。スパイ映画のトム・クルーズの様な「現代的サバイバル術」も格好いいけれど、何もないところでも生き抜いていく小野田さん、横井さんが持ち合わせていた様な「原初的サバイバル術」もなかなかのものです。
それに、「これ程に美しい映像は『風と共に去りぬ』以外の映画では見たことがない無い」と思えたほどの“映像美”でシベリアの大自然が描かれていたことも記憶に残っています。

この作品、この年のアカデミー外国語映画賞、モスクワ映画祭金賞も受賞しています。


[48] ●多神教の原理 Name:道開き Date:2008/07/31(木) 18:58 
今年のお正月、民放のテレビで四時間半にもおよぶ古代ローマについてのスペシャル番組が放映されました。御覧になられた方も多いことでしょう。おそらくは、塩野七生(しおのななみ)さんの歴史巨編『ローマ人の物語』(全15巻)が、15年もかかってついに完結したことにより製作された番組だったのかと思われます。この全巻を読むとなるとかなりの時間が必要となりますので、テレビでスペシャル番組として解りやすく要約して放映していただけるのは本当に有り難いものです。

キリスト教世界が書かなかったローマ史を、非キリスト教の塩野さんが初めて書いたということです。これまで、古い歴史物の映画などに描かれてきた、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に代表されるような史観とは異なる「ローマ帝国」像が浮かび上がります。それは「9・11」以降の世界に対し、多くの示唆を含んでいるとも言われています。

「古代文明」とか、「中国の各王朝の興亡史」などを学ぶと、現在起きている数多くの問題の解決方法や、今後の未来予測の為に必要な多くのヒントが得られるように思われますが、殊に「ローマ帝国の興亡史」は格別で、まるで教科書のようです。

とにかく、今後の世界の行方を考えたならば、“アジア”の多神教、つまり、仏教、ヒンドゥー教、神道、道教、儒教・・・といったものが、どれほど重要な役目を負うことになるのかということです。衝撃を和らげる“クッション”やガス抜きをしてくれる“安全弁”、もしくは緊張状態を和らげてくれる“緩和剤”の役割を果たすものとも考えられます。
つまり、一神教の親ともいえるユダヤ教から生まれた、同じ唯一神を崇拝するキリスト教とイスラム教の“兄弟喧嘩”は、世界中に破壊の嵐をもたらしそうに思われて心配でならないからです。


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●● 古代ローマ建国以来の伝統 ●●

★キー・ワード
◎【敗者の同化】
◎“平和の極意”【勝者の寛容(クレメンティア)】
とは?

「人間生活にとって最も重要なことは安全保障(セクリタス)。戦乱の苦しみほど不幸なものはないという真実を、彼らはよく知っていた」

「その統治は、寛容さによって貫かれていた。征服した国や地域の神々をすべて認め、奴隷化してもローマ市民権を得る道を開き、有力者は元老院に招いた」
(アテネ、スパルタでは奴隷は一生奴隷のままで、自由は与えられなかった)

「ローマ化(敗者の同化)こそ、最強の安全保障であるという信念がありました。軍事力で制圧すると、いずれ反乱が起こり、税負担が増える。彼らはこの悪循環を見通していた」。

よって、ローマ人は、「勝って、譲った」。


★寛容(クレメンティア)とは、「相手を許す」こと。つまり、自分と違う考え方を持った他者の存在を認めること。つまり、「多神教の原理」によるもの。
やがて、異質な宗教・キリスト教にローマ帝国が飲み込まれていくことになります。

★カエサル
塩野さんの「ローマ的なるもの」の追求は、人間ならカエサル(ユリウス・シーザー)に極まるという。
「ローマの歴史がカエサルを生み、彼がその後のローマ世界を決めた」


●● 衰退期 ●●

「古代においてはローマ帝国が、どうやって諸民族と共生できるかを実現し、それが機能しなくなって中世が訪れた」。
その後、イタリアで起こった“ルネッサンス”により中世から抜け出し今日に至っているが、「今、世界中が中世に向かいつつあるのでは」と塩野さんは危惧する。

◆哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝(紀元161〜180年)
この時代に領土が最大となる。しかし、衰退が始まっていた。“ゲルマン民族の大移動”により軍事費がかさみ、重税の徴収が必要となる。

※ この時代が舞台になっていた映画『グラディ・エーター』の中に、当時の生死観を表す重要なシーンが何度も出てきます。それは、剣奴に堕ちる以前の将軍マキシマスが、神々や先祖に唱える祈りのシーン。その祈りの言葉が、我々が日々唱えている祝詞(のりと)の内容に共通し、その信仰形態も極めて神道的なのには驚いたものでした。

◆皇帝カラカラ(紀元211〜217年)
紀元212年、帝国内に住む属州民を含めた奴隷以外の全員にローマ市民権を与えた。このことが古代ローマ衰退の大きな要因となる。

つまり、古来の「ピラミッド型の階級社会」は固定化されていなかったので、本人の能力と努力によって市民権を得られた。つまり、ローマ市民権は努力の結果としてのステータスであり、目標でもあった。それが、始めから市民権を与えられると、人々はローマ市民であることへの責任感や向上心を失うこととなった。

奴隷は市民になれなくなり、古くからの市民は属州からの市民に対して差別をするようになり、固定された階層が生まれた。これは本当の“格差社会”の始まりで、「社会の健全な流動性」が失われてしまった。

◆短期の皇帝の迷走時代
反乱の増加に伴って軍隊が強権を持ち、皇帝の進退を左右した。〈軍人皇帝時代〉

◆皇帝ディオクレティアヌス(紀元284〜305年)
皇帝が支配する「官僚機構」と「経済統制」により、帝国再建を目指す。
皇帝を“市民の代表”という立場から、絶対権力を持つオリエント的“専制君主”に変身させる。さらに「四分割統治制」を導入する。

◆皇帝コンスタンティヌス(紀元324〜337年)
キリスト教の公認。それは、人が与えた皇帝の権利を神の意志によるものとする為。
但し、帝自身、洗礼を受けたのが死の直前だったということで、どれだけ信仰していたかは疑問視されている。

◆皇帝テオドシウス(紀元379〜395年)
キリスト教の国教化。更に、帝国を東西に分割した統治を始める。


[47] ●先見の明 Name:道開き Date:2008/07/04(金) 14:00 
さらに、明治維新についての話が続きます。武田鉄矢さん同様、この手の話になるとどうにも止まらなくなってしまいそうです。

歴史論的には、「もしも・・・・・だったなら」といった仮定は成り立たないものと言われます。しかし、よくよく考察してみると、一見、場所の違いとか、立場の違いがあって、それぞれがバラバラで関連性がないような人たちが、「見えない世界からの何らかの力が働いて」いて、「インターネットのように繋がって」いて、“ 偶然の出合いや出来事”が、案外、“必然的なもの”として起きていたようにも思えてなりません。そうして、世界史の奇跡ともいわれる「明治維新」が成功したのではないでしょうか。

“先見の明”と言われるものも、見えない世界からのインスピレーションを受けた、かなりスピリチャルなもの、シャーマニックなものなのではなかろうかとも考えられます。
当時の武士たちは、常々、鍛錬のために剣術修行をしており、これはかなり、宗教上の「行」とも共通していますから、そういったことが起こりやすかったのではないでしょうか。


★島津斉彬(なりあきら)
幕末期から明治に掛けては、朝廷、幕府、諸藩の誰もが、先が見えず、進むべき方向を探すのに苦慮していた時代でもありました。そういった混乱した時代の中でも、しっかりと先を見据えて行動した人たちもいました。その代表とも言えるのが、現在のNHK大河ドラマ『篤姫』の中にも登場している島津斉彬(なりあきら)です。彼こそが、明治維新へのシナリオを書いた人物であるとも言えます。まさに“明君”です。
そして、それを実行に移したのが薩摩藩士の西郷隆盛であり、大久保利通たちです。

地理的に見ても、琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩は、この当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々ありました。そのためか、斉彬は、若い頃より「洋学」に興味を持ちました。これが周囲の目には「蘭癖」(らんぺき、所謂「西洋かぶれ」)と映り、藩主継承をめぐって、父・斉興との間で薩摩藩を二分する抗争の原因の1つになったともされています。〈お由羅(ゆら)騒動―高崎崩れ〉

後に、土佐藩出身の漁師で、漂流していたところを捕鯨船に助けられ、アメリカで様々な学問を学んで帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師に任用します。さらに、万次郎の造船知識により、西洋式帆船を完成させたり、西洋式軍艦を建造し徳川幕府に献上しています。

斉彬は福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内容堂、水戸藩主の徳川斉昭、尾張藩主の徳川慶勝らの「賢侯」と交流をもち、彼らと共に幕政にも積極的に関与します。
特に、ペリー艦隊来航以来の難局を打開するには、一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、“公武合体”・“武備開国”の中央集権体制を作り、露英仏など諸外国に対処しようと主張しました。“日中韓同盟”をも視野にいれた壮大な計画であったということです。

ところが、幕府のみの力によって諸外国に当たろうと考えた大老・井伊直弼により、強権が発動されて、反対派を弾圧するための「安政の大獄」が始まります。これにより斉彬らは将軍継嗣問題で敗れます。
斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画しますが、城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、死去します。西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどです。文久3年(1863年)には勅命で「照国大明神」の神号が授与され、照国神社の建立が始まる。
・・・・・
大学の同級生の中に、当時の照国神社の宮司の息子がいました。一年生の頃には授業で顔を合わせてもいましたが、丁度、映画『サタディーナイト・フィーバー』によるディスコ・ブームが起きた時代で、彼も当時はディスコ通いに熱狂していたようで、二年生になる頃には学校で顔も見なくなってしまいました。現在、神職となり、「照国大明神」又は、他の神さまにお仕えしているのであろうかとほんの少しだけ心配です。
・・・・・

その四年後には、藩主継承問題で対立関係にあった異母弟の島津久光が、亡兄斉彬の遺志を継ぐかたちで、“公武合体”運動推進のために兵を率いて上京します。
目的を達成した帰路、生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区)で一行の行列を乱したという理由から、イギリスの民間人4名を随従の薩摩藩士が殺傷する、世に言う「生麦事件」が起こります。後に、薩摩藩はこの事件がもとでイギリスと戦争になります。〈薩英戦争〉


★佐久間象山と勝海舟と坂本龍馬
民間の学者や、幕臣、諸藩の中にも、手探りで日本の将来を模索し続けた人たちが多数存在しました。
蘭学者・佐久間象山などはその代表ともいえる人物です。彼の門弟には、吉田松陰をはじめ、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えました。

幕臣だった勝海舟も、蘭学を学んでいましたが、義兄で蘭学者の佐久間象山の知遇を得て、西洋兵学を修めます。後に、私塾(蘭学と兵法学)を開いたりもしています。
ペリー来航後には、海舟が幕府に提出した海防意見書が時の老中・阿部正弘の目にとまることとなります。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たしました。
その後、長崎の海軍伝習所に入門。オランダ語がよく出来たため教監も兼ね、足掛け5年間を長崎で過ごすこととなります。この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなります。

坂本龍馬は、土佐勤王党による吉田東洋の暗殺事件の実行犯として疑われ、江戸の千葉道場に身を寄せます。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職にあった福井藩主の松平春嶽(島津斉彬の盟友で、「四賢侯」の一人)に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となります。


★ 吉田松陰と高杉晋作
吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、自分が師範を務める山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感します。西洋兵学を学ぶために九州に遊学したり、江戸に出て佐久間象山に師事します。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航するや、師の佐久間象山と共に黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれます。翌年、浦賀に再来航していたペリーの艦隊に近づき遊学のためのアメリカへの密航を望んだが拒絶されて送還、伝馬町の牢屋敷に送られました。この密航事件に連座したかたちで師匠の佐久間象山も入牢されます。

高杉晋作は、吉田松陰が長州の萩に開いた私塾・松下村塾の弟子達の中の一人で、処刑された後の松陰の意志を引き継ぎます。
文久元年(1861年)には海軍修練のために江戸へ渡り、師の吉田松陰同様に東北遊学を行ったり、佐久間象山や横井小楠とも交友する。
翌年には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。清が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である「太平天国の乱」を目の当たりにし大きな影響を受けます。
帰国後は、幕末の動乱の中に身を置くこととなります。

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松陰は、松下村塾で木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作を初め、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠などの幕末・維新の指導者となる人材を教え育てました。
松陰の松下村塾での教育方針とは、一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく山登りや水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれています。
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[46] ●ドリブル突破 〜明治維新&サッカー・・・・〜 Name:道開き Date:2008/06/26(木) 13:18 
今、何が楽しみかって言えば、やはり、サッカーの日本代表の試合をテレビ観戦しているときが一番楽しいです。とにかく理屈抜きにして熱くなれる一時だからです。そして、ゆったりとした状態で「歴史番組」を見るのも楽しいです。歴史上の人物や出来事を、現在に照らし合わせて考えてみるのもいいです。

例えば、坂本龍馬。サッカーでいえば、単独で“ドリブル突破”ができる人といった感じです。同じ土佐藩を単身で脱藩し、後に龍馬と共に「薩長連合」を成功させた中岡慎太郎も同様の人かと思われます。
藩主を筆頭に佐幕(徳川幕府派)色の強かった土佐藩では、“回天の志”を持った若者たちは皆、命がけの脱藩を敢行し、新撰組に追われたりしながらも京都辺りで、藩の後ろ盾無しに活動していました。幕臣の勝海舟の元に身を寄せ、薩摩藩に近かった坂本龍馬であったり、長州藩に近かった中岡慎太郎であったりと、寄って立つところの違いはありましたが・・・・・

薩摩藩は、明治維新を迎えるまで終始、一つになって組織的に動きました。まるで、イタリアとかドイツに代表されるようなヨーロッパ・サッカーのスタイルです。手堅いです。
長州藩は、南米のサッカーのようなスタイルです。熱狂的であり、攻撃的です。崩れると危ういところまで行ってしまいそうですが。

その過激な長州藩の中でも、高杉晋作なんかは、まるでロナウジーニョのよう(この二人、お顔も似ています)です。天才肌で、どこで何を始めるのか予想がつきません。幕府諸藩連合軍による「長州征伐」を受け、藩内までもが佐幕派一色にまとめられてしまった状態の中を、単身、神出鬼没に動き回り、奇兵隊を始めとする諸隊を結成し、尊皇(そんのう)派に覆してしまうというクーデターを成功させました。そして、薩長連合が成立し、そのままの勢いで倒幕へと向かっていきました。
後半のロスタイムに入り、残り30秒のところで、単身、“ドリブル突破”をはかり、シュートを決めてしまったような感じです。

さらに最近、特に思うのは、小泉元総理と井伊直弼の類似性です。彦根藩主の14男として生まれ、自分を“埋木(うもれぎ)”とまで称していた境遇でありながら、何がどうなってか、幕府の随一の要職、大老にまで上り詰めた井伊直弼。幕府に対し異を唱え、「開国」に反対する者達を“安政の大獄”で容赦なく断罪しました。
“変人”とまで言われ、まさか総理大臣にまでなれる人ではないだろうと回りから思われていた小泉元総理。郵政民営化に反対する同じ自民党の議員たちを、「変革」に反対する抵抗勢力だとして情け容赦なくバッサリと処分してしまいました。

二人とも、総論的にはそれ程に間違ってもいないのでしょうが、各論となると、やっている事も何がなんだかわからないところがあります。
諸外国と、安易に不平等条約を結んでしまった井伊直弼ですが、その条約を撤廃するのに、後の明治政府は40年間も苦労し続けました。
“ 規制緩和”“変革”の旗印の下、アメリカに有利になることばかりを断行し続けた小泉前総理。「郵政」に限らず、「農政」でも、「雇用」に関しても、「地方」に関しても、“弱肉強食”の「日本のアメリカ化」を押し進めようとしていた感があります。これらの「改革」(???)が、10年、20年後の日本に、どういった影響をもたらしているのかを見続けてみないと、その善し悪しの判断が難しいところがあります。

極めつけは、「皇位継承問題」に対する対応の仕方でした。“天佑神助”も加わってか、何とか事なきを終えましたが・・・・・。
しっかりとした話し合いの時間も持たれないままに、専門知識が疑問視される人たちも多く見受けられた、いわゆる「有識者会議」という名の傀儡組織を立ち上げられて、もう少しのところでバッサリとやられるところでした。占領軍のGHQでさえ手を着けようとしなかった日本国にとっての最重要問題を、ごくごく簡単に考えて・・・・


[45] 『課外授業 〜ようこそ先輩〜』 Name:道開き Date:2008/06/24(火) 08:24 
昨日、母校の野蒜小学校の六年生の授業で、「おまつり」の話をしてきました。
NHKの番組に『課外授業 〜ようこそ先輩〜』というのがありますが、ああいった感じです。とても良い気分でした。

小学校も中学校も、以前とは大部変わってきています。非常によい傾向だと思われます。

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