下の書き込み[63]に続きます。
相変わらず、古代におこなわれていた祭祀に対し、特に、物部(もののべ)氏、忌部(いんべ)氏などの古代氏族に伝わっていた神道祭祀について、非常に興味を感じています。
これは私的経験による見解なのですが、“モノノケ”的なもの、“魑魅魍魎(ちみもうりょう)”的なものに対しては、これら古代氏族の祭祀が非常に有効で、かなりの威力を発揮してくれます。
6世紀、仏教の受け入れに際し、親仏派だった蘇我(そが)氏と激しく対立したのは物部氏でしたが、政争に敗れてからは中央政治の舞台から姿を消すことになりました。
「武士」を意味する古語「もののふ」の語源は「物部(もののべ)」からきていると言われているように、古代の軍事を掌握していた氏族であったとされていますが、古語の「カミ」と「モノ」はほとんど同義と解されているように、中臣(なかとみ)氏、忌部(いんべ)氏、卜部(うらべ)氏、猿女(さるめ)氏同様、古代の朝廷祭祀に奉仕した神祇(じんぎ)氏族としての一面も持っていたようです。よって、独自の神道祭祀を伝え残しています。
「大化改新」が始まり、中臣(藤原)鎌足らによって蘇我氏が滅ぼされ、藤原氏が旺盛を極める時代となり、祭祀面では中臣氏(=藤原氏)が力を強めることになります。
国家の正史とされる『古事記』、『日本書紀』が編纂された当時は藤原氏が力を持っていたので、中臣氏こそが祭祀を司っていた氏族の中心であったかのように書かれています。
その事に対して反感を抱いていた古代祭祀氏族たちは、後に正史から漏れた古伝承や祭祀についての書を著します。忌部氏からは『古語拾遺(しゅうい)』が、物部氏からは『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ・略して「旧事紀(くじき)」とも言う)』が編纂されました。
これら氏族の埋没しそうになっていた古代祭祀は、幸運にも、後の1,025年に、宮中の祭祀を司り、天皇家の霊性を守ることを第一の目的として創設された白川神祇伯王家(しらかわじんぎはくおうけ)の“伯家(はっけ)神道”の中に流れ込むことになります。明治2年までの、823年間に渡り継承されました。
江戸時代の文献を見ると、これらの宮中で行われていた古代祭祀の一部が全国の多くの社家にも伝わっていたり、民間にも広まっていたりで、結構盛んに「古代祭祀の業(わざ)」が行われていたようです。さらに江戸期には、「国学」が興り、“儒家神道”や、“復古神道”も隆盛を極め、伊勢参宮も盛んになったり、黒住、天理、金光などの神憑りの教祖たちによって創唱された民衆宗教も盛んとなりました。
その後、「明治維新」となり、“王政復古”の大号令の元、“祭政一致”の原則が宣言され、神祇官が再興されたりと、明治政府による表向きのイデオロギー政策だけは立派???でしたが、吉田家・白川家の神職支配を廃止したり、神仏判然令が出されたり、神社の世襲廃止令が出されたりと、「“不信心な”猫の目行政」により、神社界は、信仰的には大打撃を受けることになりました。
明治17年には、創設されたばかりの教導職制度も全廃され、「神社は宗教にあらず」という行政的解釈により、“政府の対神社政策の基調”が定まったようです。
(この辺の経緯については、神社新報社が出している神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』に詳しく書かれていますので参考になります。)
明治期、吉田家・白川家の神職支配の廃絶以降も、全国の多くの神職の間には、江戸期までに伝わっていた古代祭祀の多くが残っていたようです。しかし、時代を経るに従い、少しずつ埋没し、形骸化が進んだようで、その多くは神道系の新宗教へと流れ込みます。
★結局のところ、私としましては、明治政府の神道政策によって散り散りにされてしまった古代祭祀の再評価、つまりは、「神道版ルネサンス(古代復興)」のような動きが強まっていくことを期待して止まないのです。今後の神社界はいつまでも、明治期に創られた官制の強い、非宗教的な神道を引きずる必要はないと考えるのです。
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