⑫白山神(白山さま)

2002/05/31(Fri)
●白山連峰
山頂に冠のように輝く雪をいただいて、遠く連なる白山連峰。御前峰(ごぜんぽう)を主峰とし、大汝峰(おおなんじみね)、剣ヶ峰(け んがみね)からなり、山頂には奥宮が鎮座します。この奥宮は、白山本宮(はくさんほんぐう)、白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)、禅定本宮(ぜん じょうほんぐう)などと呼ばれていました。そして、その山頂の奥宮を目指すようにして“馬場(ばんば)”と呼ばれる三つの登拝口(とはいぐち)が加賀、越 前、美濃にあり、それぞれに神社が祀られています。

◎加賀馬場(石川県)     白山比咩(しらやまひめ)神社
全国三千の白山神社の総本宮。中世は延暦寺(えんりゃくじ)の管理下にあり、衆徒三千人が住したという。

◎越前馬場(福井県)     白山神社
もとは平泉寺(へいせんじ)といい、白山修験の中心であった。現在でも、毎夏、曹洞宗・大本山の永平寺(えいへいじ)の雲水(うんすい)らがこの馬場から集団登拝している。

◎美濃馬場(岐阜県)     白山中居神社
かつては白山本地中宮(はくさんほんじなかみや)と称した。

※開山したのは越前の行者・泰澄(たいちょう)であるが、三方の登山口を開いたのは園城寺(おんじょうじ)の僧・宗叡(しゅうえい)である。


●主祭神・白山比咩(しらやまひめの)大神  
主祭神は白山比咩大神〈菊理姫神(くくりひめのかみ)〉。他にも、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)の二柱(ふたはしら)の神々を祀っている。白山比咩神社の「比咩(ひめ)」は「姫」、つまり白山菊理媛(くくりひめ)のことです。

◆「埋没神(まいぼつしん)」・菊理媛の謎
古くから多くの人たちの信仰を集めてきた“ククリヒメ”は、神典『古事記』には全く登場せず、『日本書紀』の「一書(あるふみ)」に一カ所登場するだけで す。すなわち、イザナギの冥界(黄泉国〈よみのくに〉)訪問伝承において、イザナギ神がイザナミ神と黄泉比良坂(よもつひらさか)で争った際に、黄泉守道 者(よもつもりみちひと)という黄泉国に通じる道の番人と共に現れ、ナギ・ナミ二神の争いをやめさせた神として登場するばかりです。
その部分を引用すると、
「是(これ)の時に、菊理媛神、亦(また)白(もう)す事有り。イザナギの命(みこと)聞しめして、善(ほ)めたまひて乃ち(すなわち)散去(あらけ)ましぬ」
であり、何を囁いたのかその内容については、全く伝わっていません。
菊理媛は古代において、託宣(口寄せ)を行った巫女の祖ではないかという見方もされています。日本の民俗信仰においては、山は死者の帰る他界と考えられております。それらの山の神や祖霊の言葉を取り次ぐための巫女の活動は、古代より存在していました。
菊理媛が囁いた黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、この世とあの世の接点とも考えられます。

◆白山信仰の広がりの謎 
なぜに、謎の多い「埋没神」菊理媛を御祭神とする白山信仰が、全国的な拡がりを見せたのか、そして、どのような経路で広がったものなのかもまた不明です。
古代朝鮮の“白山部(はくさんぶ)”という支族の白頭山(はくとうさん)〈=太白山(たいはくさん)〉信仰が、海を越えて伝わり、日本古来のシャ-マニズムと習合して全国的な広がりを見せたという説もあります。


●“白山”修験道
白山修験道の開祖・泰澄(たいちょう)は、白鳳十一年(682年)、越前国に生まれました。両親とも帰化系であったといいます。十四歳で十一面観音の霊夢 を見て以来、夜毎に家を出て、白山に面した越知山(おちさん)で修行を重ね、呪文(じゅもん)によって石を飛ばしたり、自分自身も自由に飛行したという逸 話が伝わっています。修験道の元祖・役行者(えんのぎょうじゃ)に匹敵するほどの超人的能力の持ち主だったようです。役行者が前鬼(ぜんき)と後鬼(ご き)を従えていたように、泰澄にも臥(ふせり)行者と浄定(じょうじょう)行者という弟子たち〈護法童子(ごほうどうじ)〉がいました。
その泰 澄三十六歳の養老元年(717年)、夢枕に白山の神であるという女神が立ち、その導きによって白山の初登頂に成功したといいます。ちなみに、この女神は“ 妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)“といい、もとは“イザナミ神”だったといいます。そして、火口湖の一つである翠ヶ池(みどりがいけ)で祈っていると、 池の中から“九頭竜王(くずりゅうおう)”が現れ、それを見た泰澄が、本地(ほんじ)の姿で現れるようにいうと、“十一面観音”が出現したといいます。こ うしたことから、白山比咩(しらやまひめの)大神の本体はイザナミ神にして、かつ十一面観音であるということになります。〈神仏習合〉ただし、現在は、白 山比咩大神(菊理媛)、イザナギの神、イザナミの神の三柱の神が祀られています。
また、白山は三峰を有しますが、それぞれの山に泰澄は、十一面 観音、聖(しょう)観音、阿弥陀如来(あみだにょらい)を感得したといいます。それらはやがて、白山信仰の三体の本地仏(ほんじぶつ)として崇敬されるよ うになるのですが、その白山修験の基礎は、透徹した霊眼の持ち主だった泰澄が築いたものなのです。
 道開き at 2002/05/31(Fri) 17:40 

無題

2002/05/25(Sat)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。

①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)

ここの時点では、⑪火の神々  までの打ち込みを終えています。
 道開き at 2002/05/25(Sat) 16:55 

⑪火の神々

2002/05/25(Sat)
●“火” -その秘められた不思議な力-
古今東西を問わず、およそ宗教といわれるもので、火を崇拝の対象としたり、崇拝の対象にしないまでも、 何らかのかたちで、教義なり儀式なりに取り入れていないものなど、まず、無いと言っても過言ではないでしょう。それ程までに、火は神聖なものであり、神秘 的なものとされてきたのです。
ペルシァのゾロアスタ-教(拝火〈はいか〉教)などはそれが特に顕著ですし、インドのバラモン教に端を発する密教 や修験道の修法“護摩(ごま、ホ-マ)”は、火の仲立ちによって仏と交信し、特に護摩の「本尊(ほんぞん)」とされる不動明王に火をもって供物を捧げ、煩 悩の一切を焼き尽くすとされるその力により、「厄災消除(やくさいしょうじょ)」、「心願成就(しんがんじょうじゅ)」を祈る儀式であることは広く我々に も知られているところのものであります。

仏教伝来以前の我が国においても、やはり、火を神として祀り、尊いものとして敬う信仰がありま した。お祭りには“燎(かがりび)”を焚き、御神前には“灯明(とうみょう)”をともします。現在では仏教の盆の行事になってしまいましたが、古くから行 われて来ました“霊(タマ)まつり”の、先祖代々の祖霊を迎えて送る「神迎え(かみむかえ)」、「神送り」の儀式といったように、あげれば切りがありませ ん。
出雲大社において、代々の国造(くにのみやっこ)の継承に当たって行われてきた「火継神事(ひつぎしんじ)」などは、火(ひ)を引き継ぐことによって霊(ヒ)を引き継ぐ、つまり、火によって霊統を引き継ぐ儀式が、宮司職の世襲に当たって、現在でも連綿と行われています。


●火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)
イザナギの神・イザナミの神二神が次々に神々を生んで、最後に生み出したのがこの“火の神”・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)、又の名を火産霊神(ほ むすびのかみ)、火之夜芸速男神(ほのやぎはやおのかみ)ともいう。女神・イザナミ神はそのために御陰(みほと)を焼かれて「黄泉(よみ)の国」へと神去 られた。 
おのれの出産のために母神を殺す結果となり、またそれにより父神に十拳剣(とつかのつるぎ)で首をはねられるというまことに悲劇的な 神ではあるが、それがそんなに悲惨な印象を受けないのは、このことによって、新しい神、それも大変に重要な役目を持った神々が次々に生まれ、飛び出してき たからである。

★生まれ出た神々の御名
・火傷(やけど)して苦しみながらイザナミの神の吐(は)いた吐瀉物(としゃぶつ)からは「鉱山や金物の神」である“金山毘古(かなやまひこ)神”、“金山毘売(かなやまひめ)神”が生まれました。

・糞(くそ)からは「粘土(ねばつち)の神格化で土器をも意味」する“波邇夜須毘古(はにやすびこ)神”、“波邇夜須毘売(はにやすひめ)神”が生まれました。

・ 尿からは“彌都波能売(みつはのめ)神”、“和久産巣日(わくむすび)神”が生まれた。「灌漑(かんがい)用水の神」そして「若々しい生産の神」です。和 久産巣日神の子が伊勢神宮外宮の祭神“豊宇気毘売(とようけひめ)神”で、天照大御神の食事を整える「御饌津神(みけつかみ)」である。

※これらの神々は“冶金(じがね)”、“窯業(ようぎょう)”、“農業”等における火の効用が暗示されている。

火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬った刀の血からも、死体の各部からも、多くの神々が生まれました。

・まず刀の切っ先についた血から、“石搾神(いわさくのかみ)”、“根搾神(ねさくのかみ)”が生まれました。「岩石や根を裂くほどの威力ある神」です。次の“石筒之男神(いわつつのおのかみ)”も「岩石の神」です。

・刀のもとについた血から、“甕速日神(みかはやひのかみ)”、“樋速日神(ひはやひのかみ)”が生まれる。これは「火の根源である太陽を称えた神名です。

・次に、高天原第一の剛力の持ち主、“建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)”が生まれます。有名な出雲神話の「国譲り」のときに、抵抗した大国主神の子の“建御名方神(たけみなかたのかみ)”を屈服させた神です。その名は「勇猛な雷の男神」の意です。

・ さらに刀の柄(え)についた血からは、“闇淤加美神(くらおかみのかみ)”、“闇御津羽神(くらみつはのかみ)”。この二神は「谷の水をつかさどる神」 で、「雨水を調節し、国土を潤し、草木の生育とすべての生き物の食料を豊に繁茂させる神」で、「竜神(りゅうじん)」であるともされています。

※ 以上の八神は、刀剣の出来上がる様、つまり、鉄鉱を火で焼いて鍛え、できた刀剣を谷間の霊水につけて焼きを入れるさまを表したものではないかと考えられます。火の神の血が飛び散る様は、あたかも鉄を鍛えるときの火の粉を連想させます。

・火の神の頭、胸、腹、陰所、左右の手、左右の足に、“正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)”以下「八柱の山津見神」が化生しました。

※「火の神」の体から種々の「山の神」が化生する話は火山の爆発を意味し、血から「岩石の神」、「雷の神」、「水の神」などが化生する話も、火山の噴火を物語っているようです。


●愛宕(あたご)神社
京都は嵯峨(さが)の愛宕町にある愛宕神社は、“火伏せの神”として全国的に信仰されています。かつては“愛宕大権現(あたごだいごんげん)”の名で親し まれました。御祭神は“火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)”。もともとは山城と丹波との国境に鎮座し、「塞(さえ)の神」(禍をさえぎる境界の神さま) として信仰されました。よって、比叡山(ひえいざん)に相対して京都の西北(乾〈いぬい〉)の方向にそびえる愛宕山に遷座され、「都を火災から守る王城鎮 護の神」となりました。
“塞の神”であった為に、地蔵菩薩(じぞうぼさつ、お地蔵さん)信仰と結びつき、神仏習合のなか、多くの修験者たちが、“愛宕山伏”として諸国を遊行して、「火伏せの神」として愛宕信仰を全国に広めました。


●秋葉(あきば)神社
静岡県周智郡春野町にある秋葉神社が本社で、御祭神にはやはり“火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)”祀り、江戸時代には、遠く関東地方からも秋葉参りの人々が訪れ、「火伏せ、厄除け(やくよけ)の神」として信仰されてきました。


●三宝荒神(さんぽうこうじん)
家の神の中で、「竈(かまど)神」に対する信仰はきわめて篤いものがありました。この神さまは、別名「オカマさま」といったり、「荒神さま」といったりしますが、この「荒神さま」が一般にはよく知られています。
荒神さまとは、その名の通り、荒々しい火の神さまで、激しい験力(げんりき)を持つ神と信じられ、火伏せの力があることから、竈(かまど)の近くに祀られ ました。“三宝荒神”というのは「如来荒神、鹿乱荒神、忿怒荒神」の三身を持っているからで、仏典に根拠があるようですが、仏教とはまったく縁のない神さ まです。
荒神さまは、とにかく霊力の強い神さまだからというので、「荒神墨(すみ)」と呼ばれる竈のスミを子供の額(ひたい)に塗っておけば魔 除けになるとされてきました。毎月晦日(みそか)の祭には、「荒神棚(たな)」を清めて、胡粉をまぶした松の小枝を供える習わしがあり、これを「荒神松」 と呼びました。また、竈を掃除する箒(ほうき)を「荒神箒」といって、普通の箒とは区別して神聖視します。
荒神はまた、地神(じがみ)、氏神(うじがみ)とも考えられて一族で祀っている場合も多くあります。
 道開き at 2002/05/25(Sat) 16:55 

⑩天神さま

2002/05/24(Fri)
●受験祈願で賑わう“学問の神さま”
天神さまといえば、いわずと知れた学問の神さまです。昨今の学歴社会を反映した激しい受験戦争もあり、入試 の時期ともなれば“天満宮(てんまんぐう)”の「絵馬掛け」は志望校と自分の名前と住所を書いた絵馬の奉納で鈴なりになります。これは“天神さま”こと菅 原道真(すがわらのみちざね)公(略して菅公〈かんこう〉)が、幼い頃から詩歌や学問に、人並みはずれた異才の持ち主だったことに由来します。
菅公は、その才能ゆえに、宇多(うだ)天皇の寵愛を受け、右大臣にまで昇進しました。しかし、政敵であった左大臣の藤原時平の讒言(ざんげん)にあい、九 州の太宰府(だざいふ)に左遷され、無実の罪を晴らすことなく無念の内に五十九歳の生涯を終えたのでした。(よって、全国の天神信仰の総本社は「太宰府天 満宮」です。)
天神信仰の起こりは、この道真公の死後、藤原時平一門を中心に京の都に打ち続いた天災や疫(えき)病といった凶事が、巷(ちま た)のシャ-マン(巫女、霊能者)達に下った託宣(たくせん)によって、道真公の怨霊(おんりょう)によるものであるとされ、その霊を鎮めるために北野に 社殿を建ててお祀(まつ)りしたことに始まります。この社が北野天満宮です。

★牛は天神さんの“神使(みつかい)”
・一般には、道真公が乙丑(きのと・うし)の年に生まれたことに由来するとされています。
・一説には、道真公の亡骸(なきがら)を運んだ牛車が、ある場所で動かなくなり、その場所を墓所と定めたといわれます。それがなぜか都府楼の北東、いわゆる丑寅(うしとら)の方位であったからとも云われています。
・道真公の、農作業に勤しむ牛たちへの真摯(しんし)な慈愛によるとか、あるいは牛の鳴き声で刺客から逃れた逸話などもあります。
・天神参りは「丑(うし)の日」がよいとされています。
※道真公を祀る神社の多くには、境内に居座する“寝牛(ねうし)”像があります。この寝牛の体のうち、自分が患っているのと同じ部位を撫(な)でると病気が治るとされています。また、頭の部分を触ると知恵がつくとされています。これらを“撫で牛”と言います。


●天神信仰の起こり
★菅公の生い立ちと生涯
道真公は、845年、代々続いた学者の家に生まれました。もともとは土師(はじ)氏といって、土師器(はじき)の生産にあたり、祭事葬送に関わる氏族で あった。その菅原家が、儒学の家となり、平安初期には「菅家廊下(かんけろうか)」という官吏(かんり)養成学校をも経営しました。
道真公は、 幼い頃から衆に秀でた秀才であり、白楽天(はくらくてん)の再来と称えられました。また、弓遊びのうまいことでも世間を驚かせたといいます。道真公には全 く野心などなく、つねづね文章学者をもって自らを任じ、右大臣昇進後も三度に渡って辞表を提出しています。当時、朝廷では藤原氏などの貴族が、血筋や家柄 を後ろ盾に権勢を奮っていました。一介の学者が大臣にまで昇進するなど異例のことであり、道真公自身、あらゆる中傷を受けました。 
そして、危 惧していたことが現実のこととなり、大臣就任3年目に、突然の太宰府権師(だざいふごんし)という役職への左遷が行われました。文字通り一家離散の運命に 見舞われ、息子たちも皆、島流しにされました。菅公の太宰府での生活も惨めなもので、住まいは荒れ放題、食べる物も滞るありさまでした。このため、老境の 道真公は健康をむしばまれ、左遷からわずか二年あまりで波乱に富んだその生涯を終えたのでした。

東風(こち)吹かば  匂(にお)いおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ

これは都を去るにあたって道真公が作った、あまりにも有名な歌である。なほ、菅公を慕って京より太宰府に飛来したというのがこれも有名な“飛び梅”の木である。

★凄まじかった菅公の“祟り(たたり)”
菅原道真公は、今日では学問の神として仰がれているが、没後当初は激しく祟る“怨霊(おんりょう)神”として畏怖され、その魂を鎮めるために神として敬わ れたのでした。それは、道真公の死後、藤原家一門の人々が次々と不幸に見舞われたこと、又、都に天災や疫病が頻発したことから、非業の死を遂げた道真公の 祟りではないかとされたからです。

※御霊(ごりょう)信仰
平安時代、人々の間には、天災や疫病などの頻発は、政変などで亡くなっ た人々の霊の仕業であるとする考えが広まっていました。よって、怨みをのんで非業の死を遂げた人々の霊を慰め、祟りをまぬがれようとする“御霊会(ごりょ うえ)”が、盛んに行われていました。なぜ、その御霊が政変などで亡くなった人たちに限られたのかといえば、不特定多数の人々に災害をもたらす以上、その 霊魂も特別なものでなくてはならないと考えられたからでした。

★民間の巫女(シャ-マン)たちに下りた菅公よりの神託(しんたく)
・ 道真公の没後四十年目にあたる九四二年、右京七条坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)という巫女に道真公からの神託があり、そのお言葉により“火雷(か らい)天神”として祀られたのが天神信仰の始まりとなる。その五年後の九四七年、北野へ遷して社殿を建立したのが今日の“北野天満宮”の起こりである。
・同じ頃、近江の国の比良社の祢宜(ねぎ)・神良種(みわよしたね)の子で太郎丸という者にも同様の菅公よりの託宣があり、、良種は北野朝日寺の僧・最鎮(珍)と語らって社殿を建立したという。

★民衆の人気を集めた「北野天満宮」
王朝時代、人々を深い恐怖に陥れた御霊(ごりょう)。人々はその鎮魂の営みとして、御霊会(ごりょうえ)を催しました。八五三年には、それまで民間で行っ ていた御霊会を、朝廷自らが神泉苑(しんせんえん)で執行した。これが今日の上御霊(かみごりょう)神社の起源である。もちろん、その後、火雷天神(菅 公)も上御霊・下御霊両社の祭神に加えられた。
ところが、菅公の場合は、その神号が“天満大自在天(てんまんだいじざいてん)”とあるように、 単なる御霊や雷神を越えるものであつたことから、北野天満宮は民衆の神として両御霊社をしのぐようになった。やがて、「二十二社」の一つとして正式に“官 社”となったのでした。


●もう一つの天神信仰の系譜
★牛を殺し、雷神に捧げる祭り
この北野では、天満宮創建以 前に、「殺牛祭神」と呼ばれる祭祀が年ごとに行われていたという。それは干ばつに備えて、聖なる牛を殺し、その角が付いている頭を天に捧げて“雨乞い”を するというもので、その起源は古代オリエントに端を発し、中国を経てはるばる日本に伝わったとされています。
やがて、「牛殺祭神」の習俗は、祟りを鎮める目的へと変じていきます。そして、この牛の信仰は、中国から渡来した陰陽道と深い関わりを持つ“牛頭天王(ごずてんのう)”の信仰と結びつきました。

※ 牛頭天王  この当時、頻発していた疫病をつかさどる神は牛頭であるとされ、この神                を抑え込み、屈服させるため、より強 大な力を持つ牛頭天王への信仰が台頭しました。よって、「牛頭天王」を祀る“祇園社(ぎおんしゃ)”が建立されました。須佐之男命(すさのおのみこと)と 同一神とされます。


●天神の神格
★仏教との関わり
天神信仰が広く民衆の間に浸透していったのは、“天神講(こ う)”の拡がりと、「天神縁起(えんぎ)の絵巻物(えまきもの)」が創られ、一般に流布されたからである。なかでも、『北野天神縁起絵巻(えんぎえま き)』はつとに有名で、さまざまなエピソ-ドを通じて菅公の神格が現された。

・『北野天神縁起絵巻』第五巻
菅公は天拝山で無実の 罪を祭文(さいもん)に仕立てて、「七日七夜」もの長い間、「天道」に訴え、祈り続けていたという。その祈りによって、菅公は「天満大自在天神(てんまん だいじざいてんじん)」となる。この名前は神仏習合思想によるものであり、「天満」は「天魔(てんま)」を慰撫(いぶ)して善神「天満」に変じようとした ことにより、「大自在天神」とは、「破壊と創造のヒンドゥ-教の神シヴァ神」の仏教化した神格のことである。まさにこの「暴悪と治療の両面」こそが、天神 信仰の核心なのです。

・『北野天神縁起絵巻』第七巻
吉野の金峯山(きんぶせん)の僧、道賢上人日蔵(どうけんしょうにん・にちぞう)が
「笙 (しょう)の岩屋」にこもった時の物語である。日蔵が岩屋で千日行(せんにちぎょう)に励んでいたところ、ある日高熱を発し、息ができずに絶入してしま う。その瞬間から日蔵は“六道(りくどう)巡り”の夢を見る。そこで、日蔵は「太政威徳天(だじょういとくてん)」と名のる道真公の霊に会う。つまり、太 政大臣・菅原道真公が変幻した姿で、密教(みっきょう)の五大明王の一人であり、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身とされている太威徳明王(だいいとく みょうおう)と一体となっていたというのである。
文殊菩薩は、仏典を編纂し、仏智(ぶっち)の結集を果たしたとされる「叡知の仏」である。そのような「学徳の文殊」、そして、青い水牛にまたがる猛々しい太威徳明王となって現れる「忿怒の文殊菩薩」の力は、天神と酷似していたのである。

★“宮地(みやじ)神道”に出て来る菅公の逸話
土佐郡潮江村(高知市天神)の「潮江天満宮」の神官・宮地堅磐(かきわ、水位)が唱えた平田篤胤(あつたね)の神道説を継承した玄学(道教)色の強い神道説。
水位はその父から教わった脱魂法によって、十歳頃から神仙界に出入りしたという。顕界(うつしよ、この世)と幽界(かくりよ、あの世)との間を自由に往来 し、大山祇神(おおやまづみのかみ)の寵愛を受け、その取り持ちによって、ある神界の主宰神という地位にあった道教の通称「少童君(しょうどうくん)」= 少彦那(すくなひこな)神に謁見(えっけん)することができるようになり、五十三歳で帰幽するまで数百回にわたって神仙界へ往来したとされます。
幽界(かくり世、神界・霊界・幽界を含む)が八つの層から成っていて、その一つ一つが数百界に分かれているという。水位の『異境備忘録(いきょうびぼうろ く)』には、歴史的人物がどの霊界にいるのかがしめされている。それによると、菅公は神仙界に三つある刑法所(裁判所と刑務所が一つになったもの)の一つ の長官をしていたという。
高地の神仙道本部、そして大阪堺市に本部を置く古神道仙法教は宮地神道を継承している教団である。

★天神は“天(あま)つ神”?   -日輪(にちりん)信仰との関わり-
「天神」は名前の通りそのままに、“天道”の神という性格を持っています。伊勢斎宮から出雲の須佐神社に至る“太陽の道”の線上に、天満、天神、菅原、須 賀の名の付く神社が多くあり、菅公が祀られていることと、さらに、“天神社”を名のる神社には、須佐之男命(すさのおのみこと)や天照大御神(あまてらす おおかみ)をご祭神としていることがあるからである。つまり、“天神さま”の根元には、天つ神である天照大御神と須佐之男命が控えていることにもなるので す。


●天神信仰の移り変わり
怨霊神(おんりょう神)       〈祟り(たたり)神〉

火雷天神(からい天神)       〈雷神・農耕神〉

天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)
太政威徳天(だじょういとくてん)
〈学問の神、慈悲救済の神、正直の神、誠心の神〉
〈無実の罪に泣く者を冤(えん)罪から救う神〉

★渡唐天神   鎌倉時代後期から、禅宗の影響による。死後三百年、菅公の霊魂は、中国の高僧にまみえ、歓迎されたという言い伝えで、唐服をまとい梅花一枝をたずさえた渡唐天神の図柄は広く一般まで広まった。

★寺子屋と“天神講(こう)”
江戸時代、寺子屋の発達により、子供の学問の神さまとしても崇められるようになった。例えば、寺入(入学)する子供を父兄が連れて、天満宮や氏神に参拝するといった風習が、全国的に広がったのである。
子供の楽しい年中行事の一つに“天神講”がある。地域によっても違うが、一月から三月までの間に行われる。前の晩、席書きした「奉納天満天神」の小旗をうち立てて、学業が上達するように祈った。
天神講や天神さんの縁日が、月の二十五日に催されるのは、菅公の生誕日と亡くなった日がそれぞれ二十五日だったことによる。

★七歳までの“守り神”
あの有名な童謡『通りゃんせ』の歌詞に、「この子の七つのお祝いに」とあるよう、昔は子供は七つの時期を迎えて半人前の大人になるとされていた。天神さま はその時までの“子供の守護神”として、また、“子供の未来を保証する神”として民間に浸透していった。また、「行きはよいよい、帰りは恐い」という歌の 文句は、一般に学問の険しさ、厳しさを言い表したものだという。
 道開き at 2002/05/24(Fri) 21:25 

告!!!!!

2002/05/21(Tue)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。

①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげ

ここの時点では、 ⑨須佐之男命(すさのおのみこと)までの打ち込みを終えています。
 道開き at 2002/05/21(Tue) 16:35