告!!!!
2002/06/07(Fri)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。
①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
⑲産土さま(うぶすなさま)
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。
①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
⑲産土さま(うぶすなさま)
道開き at 2002/06/07(Fri) 09:40
⑲産土さま(うぶすなさま)
2002/06/07(Fri)
●氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)
「氏神」の言葉の由来は、「氏(うじ)」と名乗る古代部族の祖先神、または何らかの機縁的ないし地縁 的な守護神を意味します。天皇家の祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)、中臣氏(なかとみし)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)などの例を あげることが出来ます。
中世に入ると、武士団が荘園農民の村落を守護することによって土着していった為、氏族の守護神であった「氏神」が地縁的な 「土地の神」となっていきました。この頃から、出生地およびその鎮守の神を意味する「産土(うぶすな)・産土神(うぶすながみ)」という名が「氏神」と混 同されるようになってきました。
江戸時代には、ムラと呼ばれた集落ごとに「鎮守の神」が祀(まつ)られ、その地域の神と住民との関係として「氏神-氏子」ないし「産土神-産子(うぶこ)」の観念が広く行き渡るようになりました。
●神社 ―その存在する意味-
お伊勢様(おいせさま〈神明さま〉)、八幡様(はちまんさま)、お稲荷さん、天神様など、私たちの周りにある「氏神様・鎮守様」には、多種多様な神々がお祀(まつ)りされています。
神社を大きく分類すると、神道(しんとう)信仰の基本形態ともいうべき、地域ごとの、祀(まつ)る人々も限られた、名もない神々を祀る「氏神型神社」と、 これに対して、平安初期以降、霊威(れいい)のある神々が限られた地域を越えて各地に勧請(かんじょう)された「勧請(かんじょう)型神社」とに分かれま す。
しかし、現在ある氏神様を、はっきりとこの二系統に区別することは無理となっています。今の氏神様は、名も無い地域の神としての性格を基本にしながら、霊威(れいい)ある招かれた神としての性格が重なり合って鎮座なされているのです。
どの様な形であっても、神社がその地域の聖なる場所であることにはかわりなく、幕末の国学者たち、特に六人部是香(むとべよしか)によると、〈産霊(むす び)〉=〈産土(うぶすな)〉であり、産土とは「万物を生産せしむる根本神」であるとし、「産土社」はその御祭神(ごさいじん)にどのような神をお祀(ま つ)りしているかに関わらず、その地域の氏子の顕幽(けんゆう)両面(生まれる時も、生きることに関しても、死に関しても、死後のことについても)に深く 関わってくると説いています。
産土神は、その地域の氏子を守護し、その死後の霊魂を導いて、生前の行動を審判したり、それらの先祖代々の霊魂と協 力して共に、それぞれの家々をも守るという。つまり、幽世(かくりよ〈あの世〉)と現世(うつしよ〈この世〉)との接点となる聖なる場所が「産土様」であ り、それぞれの地域は、「産土様」を通して幽世(かくりよ)からの影響を絶えず受けることになるというのです。
「氏神」の言葉の由来は、「氏(うじ)」と名乗る古代部族の祖先神、または何らかの機縁的ないし地縁 的な守護神を意味します。天皇家の祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)、中臣氏(なかとみし)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)などの例を あげることが出来ます。
中世に入ると、武士団が荘園農民の村落を守護することによって土着していった為、氏族の守護神であった「氏神」が地縁的な 「土地の神」となっていきました。この頃から、出生地およびその鎮守の神を意味する「産土(うぶすな)・産土神(うぶすながみ)」という名が「氏神」と混 同されるようになってきました。
江戸時代には、ムラと呼ばれた集落ごとに「鎮守の神」が祀(まつ)られ、その地域の神と住民との関係として「氏神-氏子」ないし「産土神-産子(うぶこ)」の観念が広く行き渡るようになりました。
●神社 ―その存在する意味-
お伊勢様(おいせさま〈神明さま〉)、八幡様(はちまんさま)、お稲荷さん、天神様など、私たちの周りにある「氏神様・鎮守様」には、多種多様な神々がお祀(まつ)りされています。
神社を大きく分類すると、神道(しんとう)信仰の基本形態ともいうべき、地域ごとの、祀(まつ)る人々も限られた、名もない神々を祀る「氏神型神社」と、 これに対して、平安初期以降、霊威(れいい)のある神々が限られた地域を越えて各地に勧請(かんじょう)された「勧請(かんじょう)型神社」とに分かれま す。
しかし、現在ある氏神様を、はっきりとこの二系統に区別することは無理となっています。今の氏神様は、名も無い地域の神としての性格を基本にしながら、霊威(れいい)ある招かれた神としての性格が重なり合って鎮座なされているのです。
どの様な形であっても、神社がその地域の聖なる場所であることにはかわりなく、幕末の国学者たち、特に六人部是香(むとべよしか)によると、〈産霊(むす び)〉=〈産土(うぶすな)〉であり、産土とは「万物を生産せしむる根本神」であるとし、「産土社」はその御祭神(ごさいじん)にどのような神をお祀(ま つ)りしているかに関わらず、その地域の氏子の顕幽(けんゆう)両面(生まれる時も、生きることに関しても、死に関しても、死後のことについても)に深く 関わってくると説いています。
産土神は、その地域の氏子を守護し、その死後の霊魂を導いて、生前の行動を審判したり、それらの先祖代々の霊魂と協 力して共に、それぞれの家々をも守るという。つまり、幽世(かくりよ〈あの世〉)と現世(うつしよ〈この世〉)との接点となる聖なる場所が「産土様」であ り、それぞれの地域は、「産土様」を通して幽世(かくりよ)からの影響を絶えず受けることになるというのです。
道開き at 2002/06/07(Fri) 09:30
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
2002/06/07(Fri)
●役行者(えんのぎょうじゃ)と蔵王権現
修験道の開祖とされる役行者こと役君小角(えんのきみおづぬ)は、634年、加茂神社を氏神と祀る古代 氏族・加茂氏の流れをくむ、加茂神の祭祀をつかさどる役氏の家に生まれました。生駒明神(いこまみょうじん)の導きにより、生駒山での山中修行に入り、3 年後、小角22才の春、まことに不思議な光景が現れ、諸神諸仏の見守る中で龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・大乗仏教を理論的に整えた2~3世紀のインドの高 僧で、インド屈指の大哲学者)より宝珠を授けられたとされています。
やがて、山に籠もって験力(げんりき)を身につけた小角が、いよいよ修験道 の守護神ともいうべき蔵王権現(ざおうごんげん)を祈り出したのが、小角41才の年です。大峯山々頂にある巨岩に座して、地上で苦しむ人々の災いを取り払 うだけの強い験力を持った神仏を祈り出すために、『孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)』や『不動明王経』を一心に唱えていた。すると最初に弁財天が お姿を現されたが、破邪の神としては、弁財天はあまりに優美すぎるように思われた。それをお察しになられた弁財天は天河の里に飛び去ったという。これが後 の天河弁財天になる。次に小角の祈りによって現れたのが地蔵菩薩であった。しかし、お地蔵様は慈悲の菩薩であったので、さらに一心に祈ると火炎の中から憤 怒の形相の不動明王さながらの神が示現した。それが蔵王権現であったという。
★修験道の主尊(しゅそん)
金剛薩埵(こんごうさった)の変化身(へんげしん)であるために“金剛蔵王権現”、“金剛蔵王菩薩”とも呼ばれ、「金峯山(きんぶせん)の守護神」であると同時に、「修験道における主尊」となる。
その形状は、青黒色の顔を持ち、顔には怒りに燃えた降魔調伏の三眼(さんげん)を輝かせ、左手に剣印を結び腰に当て、右手に三鈷杵(さんこしょ)〈密教の法具〉を持って振り上げ、右足を上げているという躍動感のある姿の絵が残されている。
こうした姿から、
①五大力明王や、執金剛神(仁王〈におう〉尊)を原型とする神ではないか
②胎蔵曼陀羅虚空蔵院(たいぞうまんだらこくぞういん)の一尊の変化身(へんげしん)ではないか
③もっとも有力な説として挙げられるのが、吉野の地主神である金精明神(こんしょうみょうじん)という神が、役小角の験力によって、より強大な呪力を持った普遍的な神に昇華したのではないか
とする説がある。
●修験道
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。
修験道の開祖とされる役行者こと役君小角(えんのきみおづぬ)は、634年、加茂神社を氏神と祀る古代 氏族・加茂氏の流れをくむ、加茂神の祭祀をつかさどる役氏の家に生まれました。生駒明神(いこまみょうじん)の導きにより、生駒山での山中修行に入り、3 年後、小角22才の春、まことに不思議な光景が現れ、諸神諸仏の見守る中で龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・大乗仏教を理論的に整えた2~3世紀のインドの高 僧で、インド屈指の大哲学者)より宝珠を授けられたとされています。
やがて、山に籠もって験力(げんりき)を身につけた小角が、いよいよ修験道 の守護神ともいうべき蔵王権現(ざおうごんげん)を祈り出したのが、小角41才の年です。大峯山々頂にある巨岩に座して、地上で苦しむ人々の災いを取り払 うだけの強い験力を持った神仏を祈り出すために、『孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)』や『不動明王経』を一心に唱えていた。すると最初に弁財天が お姿を現されたが、破邪の神としては、弁財天はあまりに優美すぎるように思われた。それをお察しになられた弁財天は天河の里に飛び去ったという。これが後 の天河弁財天になる。次に小角の祈りによって現れたのが地蔵菩薩であった。しかし、お地蔵様は慈悲の菩薩であったので、さらに一心に祈ると火炎の中から憤 怒の形相の不動明王さながらの神が示現した。それが蔵王権現であったという。
★修験道の主尊(しゅそん)
金剛薩埵(こんごうさった)の変化身(へんげしん)であるために“金剛蔵王権現”、“金剛蔵王菩薩”とも呼ばれ、「金峯山(きんぶせん)の守護神」であると同時に、「修験道における主尊」となる。
その形状は、青黒色の顔を持ち、顔には怒りに燃えた降魔調伏の三眼(さんげん)を輝かせ、左手に剣印を結び腰に当て、右手に三鈷杵(さんこしょ)〈密教の法具〉を持って振り上げ、右足を上げているという躍動感のある姿の絵が残されている。
こうした姿から、
①五大力明王や、執金剛神(仁王〈におう〉尊)を原型とする神ではないか
②胎蔵曼陀羅虚空蔵院(たいぞうまんだらこくぞういん)の一尊の変化身(へんげしん)ではないか
③もっとも有力な説として挙げられるのが、吉野の地主神である金精明神(こんしょうみょうじん)という神が、役小角の験力によって、より強大な呪力を持った普遍的な神に昇華したのではないか
とする説がある。
●修験道
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。
道開き at 2002/06/07(Fri) 09:25
⑰不動明王
2002/06/07(Fri)
●不動明王の由来
不動明王は、くわしくいうと“不動威怒(いぬ)明王”、略称で“不動尊(そん)”とも“無動尊”ともいい、密教においては“常 住金剛(じょうじゅうこんごう)”とも呼ばれます。この不動明王のインドでの呼称は“アチャラ・ナ-タ-”で、「ヒンズ-教のシヴァ神の別名」でもあり、 “動かないもの”を意味し、このことから不動明王はシヴァ神を起源とするとも言われていますが、その関係は明らかではありません。
また、明王の 「明」は、「明呪(みょうじゅ)」すなわち「真言(しんごん)」〈真実の呪文〉を意味します。密教においては、真言を唱えることの威力は絶大で、その恩恵 は計り知れないとされています。つまり、「真言の力そのものを体現」した“呪文を司る者たちの王者”といった意味から明王と呼びます。
★他にも「大威徳(だいいとく)明王」「金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王」「孔雀(くじゃく)明王」「太元帥(だいげんすい)明王」「愛染(あいぜん)明王」などが有名です。
大乗仏教の末頃から不動明王を説く教典が多くなり、七世紀後半に、不動明王こそが仏教の守護神として最高の存在であると説く『大日経(だいにちきょう)』が成立するに至って、「五大明王の主尊(しゅそん)」としての地位を確立したのでした。
●その容姿・呪文の効きめ - 護摩祈祷(ごまきとう) -
★容姿
大日如来(だいにちにょらい)の命を受け、忿怒(ふんぬ)の姿をした不動明王。又は、大日如来の化身として、卑しい使い走りの姿をしているのが特徴です。 教えを説いただけでは聞き入れようとせず、反抗する者に対しては、眼をむき、歯を出して、その威力で説き伏せます。襲いかかる災難に立ち向かって人々を守 り、また悪行に対しては厳しく叱責(しっせき)して正しきに導くといいます。
背後には、“迦楼羅炎(かるらえん)”という火炎をバックにし(こ の火は“大智火〈だいちか〉”ともいい、異端を制し、煩悩〈ぼんのう〉を焼き尽くすとされます。)、右手には中道(ちゅうどう)を悟らせ、煩悩を滅ぼすた めの“剣”を持ち、左手には凡夫(ぼんぷ)を縛って菩提(ぼだい)へ導くための“索(さく、〈縄〉)”をもっています。
「コンガラ・セイタカの二童子(どうじ)」を始め、「八大童子」などを従えている。
※やがて、剣に龍王が巻きつく姿の“倶梨迦羅剣(くりからけん)”も現れます。この剣を“倶梨迦羅不動”と呼びます。
★呪文
不動明王の「明」は“知識”を意味し、これは、「呪文・真言」を指します。よって、“呪文を司る者たちの王者”、“呪文の中の王”というのが「明王」の意 味となります。このような呪文や真言は神聖な短文であって、これを唱えれば災害を除き、病気を治し、幸福を増すと信じられてきました。
※ 不動明王の真言には“大呪”、“中呪”、“小呪”の三つがあり、なかでも中呪が有名です。
「のうまく・さんまんだ・ばざらだん・せんだ・まかろしやだ・そはたや・うん・たらた・かん・まん」
★護摩祈祷(ごまきとう)
不動明王を本尊とする儀式の主なものは“護摩(ごま)”である。古いインド語の「ホ-マ」を漢字に写したものです。「火生三昧(かしょうざんまい)」に住む不動明王と火の儀式“護摩”は最もふさわしい組み合わせで、“護摩”の本尊としても不動明王が信仰されました。
“護摩”は、「供物(くもつ)を火中に投じて仏に捧げ、仏と交信する儀式」で、そしてね災害や苦難、煩悩や罪業など内外の災いを除くための修法とされま す。火を焚いてその中に種々の供物を投げ入れ、口に真言を唱え、心に本尊を念じる。このことによって本尊と行者と一切衆生が結ばれ、所期の目的が達成され るといわれています。
●修行者の“守り本尊”
不動明王は悪を罰するだけでなく、修行者を加護し、修行の効を達成させる 慈悲の存在としても伝えられています。そうしたことからか、荒行中の荒行とされる天台宗の“千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)”では、必ず不動明王の 真言を唱えます。日本固有の山岳信仰と密教が結びついた厳しい修行をおこなう修験道においても、もっとも尊崇されているのは不動明王です。梵語(ぼんご) の「アチャラ・ナ-タ-」は、シヴァ神の別名であり、“動かないもの”、つまり“山の守護者”を意味しているからと言われます。
●霊験(れいげん)と御利益(ごりやく)
◎不動明王を初めて日本に伝えたのは弘法大師・空海です。高野山南院の“波切り不動”は弘法大師が中国で作ったものとされますが、帰国する途中で海が荒れ、大師がその像に祈念すると、像が命あるもののように動きだし、波を切る動作をして波を静めたと言い伝えられています。
◎十三世紀、元寇の折りには、この“波切り不動”を持ち出して、外敵退散の祈願が行われ、その後は、国家を守る仏として信仰されました。
◎『平家物語』に、厳寒の那智の滝で荒行し、二度も命を落としかけた文覚上人(もんかくしょうにん)が、不動明王の加護によって助けられた話が記されています。
◎修験者やね戦前の霊術家といわれる人たちが、「金縛りの法」といって、人に害をなす霊などを身動きできなくしたといわれている術も、不動明王の力によるものとされます。
※御利益 - 怨敵調伏(おんてきちょうぶく)、勝負必勝、立身出世、商売繁盛等
不動明王は、くわしくいうと“不動威怒(いぬ)明王”、略称で“不動尊(そん)”とも“無動尊”ともいい、密教においては“常 住金剛(じょうじゅうこんごう)”とも呼ばれます。この不動明王のインドでの呼称は“アチャラ・ナ-タ-”で、「ヒンズ-教のシヴァ神の別名」でもあり、 “動かないもの”を意味し、このことから不動明王はシヴァ神を起源とするとも言われていますが、その関係は明らかではありません。
また、明王の 「明」は、「明呪(みょうじゅ)」すなわち「真言(しんごん)」〈真実の呪文〉を意味します。密教においては、真言を唱えることの威力は絶大で、その恩恵 は計り知れないとされています。つまり、「真言の力そのものを体現」した“呪文を司る者たちの王者”といった意味から明王と呼びます。
★他にも「大威徳(だいいとく)明王」「金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王」「孔雀(くじゃく)明王」「太元帥(だいげんすい)明王」「愛染(あいぜん)明王」などが有名です。
大乗仏教の末頃から不動明王を説く教典が多くなり、七世紀後半に、不動明王こそが仏教の守護神として最高の存在であると説く『大日経(だいにちきょう)』が成立するに至って、「五大明王の主尊(しゅそん)」としての地位を確立したのでした。
●その容姿・呪文の効きめ - 護摩祈祷(ごまきとう) -
★容姿
大日如来(だいにちにょらい)の命を受け、忿怒(ふんぬ)の姿をした不動明王。又は、大日如来の化身として、卑しい使い走りの姿をしているのが特徴です。 教えを説いただけでは聞き入れようとせず、反抗する者に対しては、眼をむき、歯を出して、その威力で説き伏せます。襲いかかる災難に立ち向かって人々を守 り、また悪行に対しては厳しく叱責(しっせき)して正しきに導くといいます。
背後には、“迦楼羅炎(かるらえん)”という火炎をバックにし(こ の火は“大智火〈だいちか〉”ともいい、異端を制し、煩悩〈ぼんのう〉を焼き尽くすとされます。)、右手には中道(ちゅうどう)を悟らせ、煩悩を滅ぼすた めの“剣”を持ち、左手には凡夫(ぼんぷ)を縛って菩提(ぼだい)へ導くための“索(さく、〈縄〉)”をもっています。
「コンガラ・セイタカの二童子(どうじ)」を始め、「八大童子」などを従えている。
※やがて、剣に龍王が巻きつく姿の“倶梨迦羅剣(くりからけん)”も現れます。この剣を“倶梨迦羅不動”と呼びます。
★呪文
不動明王の「明」は“知識”を意味し、これは、「呪文・真言」を指します。よって、“呪文を司る者たちの王者”、“呪文の中の王”というのが「明王」の意 味となります。このような呪文や真言は神聖な短文であって、これを唱えれば災害を除き、病気を治し、幸福を増すと信じられてきました。
※ 不動明王の真言には“大呪”、“中呪”、“小呪”の三つがあり、なかでも中呪が有名です。
「のうまく・さんまんだ・ばざらだん・せんだ・まかろしやだ・そはたや・うん・たらた・かん・まん」
★護摩祈祷(ごまきとう)
不動明王を本尊とする儀式の主なものは“護摩(ごま)”である。古いインド語の「ホ-マ」を漢字に写したものです。「火生三昧(かしょうざんまい)」に住む不動明王と火の儀式“護摩”は最もふさわしい組み合わせで、“護摩”の本尊としても不動明王が信仰されました。
“護摩”は、「供物(くもつ)を火中に投じて仏に捧げ、仏と交信する儀式」で、そしてね災害や苦難、煩悩や罪業など内外の災いを除くための修法とされま す。火を焚いてその中に種々の供物を投げ入れ、口に真言を唱え、心に本尊を念じる。このことによって本尊と行者と一切衆生が結ばれ、所期の目的が達成され るといわれています。
●修行者の“守り本尊”
不動明王は悪を罰するだけでなく、修行者を加護し、修行の効を達成させる 慈悲の存在としても伝えられています。そうしたことからか、荒行中の荒行とされる天台宗の“千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)”では、必ず不動明王の 真言を唱えます。日本固有の山岳信仰と密教が結びついた厳しい修行をおこなう修験道においても、もっとも尊崇されているのは不動明王です。梵語(ぼんご) の「アチャラ・ナ-タ-」は、シヴァ神の別名であり、“動かないもの”、つまり“山の守護者”を意味しているからと言われます。
●霊験(れいげん)と御利益(ごりやく)
◎不動明王を初めて日本に伝えたのは弘法大師・空海です。高野山南院の“波切り不動”は弘法大師が中国で作ったものとされますが、帰国する途中で海が荒れ、大師がその像に祈念すると、像が命あるもののように動きだし、波を切る動作をして波を静めたと言い伝えられています。
◎十三世紀、元寇の折りには、この“波切り不動”を持ち出して、外敵退散の祈願が行われ、その後は、国家を守る仏として信仰されました。
◎『平家物語』に、厳寒の那智の滝で荒行し、二度も命を落としかけた文覚上人(もんかくしょうにん)が、不動明王の加護によって助けられた話が記されています。
◎修験者やね戦前の霊術家といわれる人たちが、「金縛りの法」といって、人に害をなす霊などを身動きできなくしたといわれている術も、不動明王の力によるものとされます。
※御利益 - 怨敵調伏(おんてきちょうぶく)、勝負必勝、立身出世、商売繁盛等
道開き at 2002/06/07(Fri) 09:25
⑯鹿島神(かしまさま)
2002/06/07(Fri)
●鹿島(かしま)神宮・香取(かとり)神宮
- 古代の軍港だった鹿島 -
茨城県と千葉県の境に位置する霞ヶ浦(かすみがうら)。古代は奥深く入り込んだ海だったというが、その入り口の部分をはさみ込むようにして“鹿島・香取の両神宮”が鎮座しています。昔から「鹿島・香取の神」と称され、深い関係で結ばれていました。
古代の大和朝廷がこの両宮をいかに重視していたかは、当時、「神宮」と称されていたのが、伊勢と、この鹿島・香取だけだったということからも十分にうかがえます。それはこの地が、防衛上、蝦夷地(えぞち)と接する前線基地であったからとされます。
「武士」のことを「もののふ」といいますが、当時は職掌として軍事を担当していたのが、その言葉の起源ともなる「物部(もののべ)氏」です。大和朝廷の東 国経営の任務も果たし、霞ヶ浦に拠点を置いた水軍を支配していました。そして、その地に「武神」を祀ったのでした。祭祀は大(おおの)氏という一族が司っ ていたようです。しかし、六世紀の物部氏が蘇我氏との抗争に敗れたことから、その勢力を次第に弱めていき、当時、全国の諸大社の神事を掌握しつつあった中 臣(藤原)氏が祭祀を司るようになっていきました。
●御祭神は「武神」
★建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
「武甕槌(たけみかづち)神」「建御賀豆知(たけみかづち)命」「建雷(たけみかづち)命」とも書かれる。“建(たけ)”は勇ましく猛々しい様を表している。“御雷(みかづち)”は文字通り“神鳴り(かみなり)”である。詳細は事項の「神話」で説明いたします。
★経津主神(ふつぬしのかみ)
香取神宮の御祭神である。『古事記』には、建御雷之男神の別名として「亦(また)の名は建布都神(たけふつのかみ)。亦の名は豊布都神(とよふつのか み)」とあり、これが経津主神を指すとされているので、二神は同神ということになる。しかし、『日本書紀』では別神として記されている。昔から二神が同神 か別神かは議論の的になってきました。
最も有力なのは、経津主神は人格神ではなく、大和の国(奈良県)石上(いそのかみ)神宮の祭神、布都御魂 神(ふつのみたまのかみ)と同一神とされ、建御雷之男神が中つ国を平定したときに帯びていた“霊剣”のことだとされている。つまり、霊剣の御魂(みたま) を神として祀ったという説です。
●「武神」の誕生と活躍をつたえる『神話』
★誕生神話
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神が次々に神を生んで、最後に生み出したのが火の神・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)。女神・伊耶那美命はそのために御蔭(みほと)を焼かれて亡くなり、黄泉(よみ)の国へ神去られました。
おのれの出産のために母神を殺す結果となり、またそれにより父神から十拳剣(とつかのつるぎ)で首を斬り落とされるというまことに悲劇の神であるが、それ がそんなに悲惨な印象を受けないのは、このことによって、新しい神、それも大変重要な役目を担う神々が次々に生まれ、飛び出してきたからです。その中の一 柱として成ったのが“勇猛な雷の男神”である武神・建御雷之男神である。
★国譲り神話
◎天照大御神の“言(こと)よさし”と二度の失敗
ことの始まりは、高天原を統治なされていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、長子・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に豊葦原中国(とよあし はらのなかつくに、日本のこと、広義にはこの世のこと)を統治するように命じた事による。この時の中津国は荒ぶる神々がはびこり、なかなか手がつけられな い様であったので、これを従わせようと、前後二回に渡り特使として天菩比命(あめのほひのみこと)、天若日子(あめのわかひこ)を派遣したが、二回とも失 敗した。
◎建御雷之男神の登場
かくして高天原随一の猛々しい神とされる建御雷之男神を正使とし、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副使として派遣した(『日本書紀』では経津主神と共にとなっている)。
出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜に着いた建御雷之男神は、十拳剣を抜き、波の上に逆さに突き刺し、その剣の先にどっかとあぐらをかき、大国主神に問うた。
「われは天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の命によって参った者である。あなたが治めている葦原中津国は、天照大御神の御子の治めるべき国である、と仰せられたのであるが、あなたの心はいかにあるか。」
大国主神は、
「私にはご返答できかねます。我が子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がお答えいたします。しかし、今は美保の岬へ鳥や魚を取りに行ったまま帰っておりません。」
と申された。
そこで建御雷之男神は、天鳥船神に命じて事代主神を連れ戻させ、問うてみた。事代主神は、父神・大国主神に向かって、
「おそれ多いことです。この国は天つ神の御子に献上いたしましょう。」
と答えたのであった。
◎建御名方神(たけみなかたのかみ)との力くらべ
建御雷之男神は、さらに大国主神に、
「まだ他に意見のある子神はいますか。」と問うた。
大国主神は、
「もう一人、私の子に建御名方(たけみなかた)神というのがいますが、これ以外には異議をとなえる者はありません。」
と言う間もなく、当の剣御名方神が、大きな石を両手でさし上げながら来て、
「誰だ、この国に来て、ゴチャゴチャ言っているのは。それならば、先ず私と力比べをしようではないか。それでは先にお前の手を取る。」
と、建御雷之男神の手を取ろうとすると、その手はたちまち氷のように変じ、こんどは剣のように鋭くなった。さすがに力自慢の建御名方神も、大いに恐れて引き下がった。
こんどは建御雷之男神の番である。建御名方神の手を握ると、まるで若芽(わかめ)の葦(あし)を握るように、たやすく握りつぶし投げ飛ばしたので、建御名 方神は驚き逃げ出してしまった。建御雷之男神はこれを追いかけ、信濃国(しなの、現在の長野県)まで追いつめ、うち倒そうとしたが、この地から決して出な いこと、大国主神、事代主神の命令を聞くこと、天つ神の御子に国を譲ることを条件に許した。
尚、この建御名方神が諏訪(すわ)大社の御祭神として祀られている。
◎出雲(いずも)大社の起源
建御雷之男神は、信濃国から帰って、大国主神に、
「あなたの二人の子神は、天津神の御子に従うと言ったが、あなたはどうか。」
と尋ねると、大国主神は、
「私の二人の子の、言ったとおりにします。ただし、私の住む所を、天神の御子の住む御殿のように造って下さるのならば、私はその隅に隠居します。事代主命が先頭に立てば、それに反抗する神はないでしょう。」と言って身を隠された。
この時の約束で造られたのが出雲大社であり、以後、大国主神は“幽冥の主宰神”となる。
よって、別名、幽冥事知食大神(かくりごとしらしめす大神)ともお呼びする。
★神武東征(じんむとうせい)
神武天皇(神倭伊波礼毘古命〈かむやまといわれひこのみこと〉)が日向(ひむか)の地を起たれて、大和に入る前に、熊野の地で大熊に会い、天皇はじめ全軍 がその毒気により気を失ってしまう。この時、熊野の土豪で高倉下(たかくらじ)というものが一振りの太刀を天皇に奉ると、すぐに天皇は目覚め、その太刀で 熊野の山の荒ぶる神々を平らげることができた。
この太刀の由来は、高倉下の夢の中に天照大御神と高木神の二神が、建御雷之男神を召し、「葦原中 国を平定するために降れ」と命じられたが、建御雷之男神が「自分の代わりにこの太刀を降ろしましょう」と言い、高倉下の倉の棟(むね)に落とされたもので あった。この太刀を“布都御魂(ふつのみたま)”と言い、現在では奈良県の石上(いそのかみ)神宮に御神体として祀られている。
- 古代の軍港だった鹿島 -
茨城県と千葉県の境に位置する霞ヶ浦(かすみがうら)。古代は奥深く入り込んだ海だったというが、その入り口の部分をはさみ込むようにして“鹿島・香取の両神宮”が鎮座しています。昔から「鹿島・香取の神」と称され、深い関係で結ばれていました。
古代の大和朝廷がこの両宮をいかに重視していたかは、当時、「神宮」と称されていたのが、伊勢と、この鹿島・香取だけだったということからも十分にうかがえます。それはこの地が、防衛上、蝦夷地(えぞち)と接する前線基地であったからとされます。
「武士」のことを「もののふ」といいますが、当時は職掌として軍事を担当していたのが、その言葉の起源ともなる「物部(もののべ)氏」です。大和朝廷の東 国経営の任務も果たし、霞ヶ浦に拠点を置いた水軍を支配していました。そして、その地に「武神」を祀ったのでした。祭祀は大(おおの)氏という一族が司っ ていたようです。しかし、六世紀の物部氏が蘇我氏との抗争に敗れたことから、その勢力を次第に弱めていき、当時、全国の諸大社の神事を掌握しつつあった中 臣(藤原)氏が祭祀を司るようになっていきました。
●御祭神は「武神」
★建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
「武甕槌(たけみかづち)神」「建御賀豆知(たけみかづち)命」「建雷(たけみかづち)命」とも書かれる。“建(たけ)”は勇ましく猛々しい様を表している。“御雷(みかづち)”は文字通り“神鳴り(かみなり)”である。詳細は事項の「神話」で説明いたします。
★経津主神(ふつぬしのかみ)
香取神宮の御祭神である。『古事記』には、建御雷之男神の別名として「亦(また)の名は建布都神(たけふつのかみ)。亦の名は豊布都神(とよふつのか み)」とあり、これが経津主神を指すとされているので、二神は同神ということになる。しかし、『日本書紀』では別神として記されている。昔から二神が同神 か別神かは議論の的になってきました。
最も有力なのは、経津主神は人格神ではなく、大和の国(奈良県)石上(いそのかみ)神宮の祭神、布都御魂 神(ふつのみたまのかみ)と同一神とされ、建御雷之男神が中つ国を平定したときに帯びていた“霊剣”のことだとされている。つまり、霊剣の御魂(みたま) を神として祀ったという説です。
●「武神」の誕生と活躍をつたえる『神話』
★誕生神話
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神が次々に神を生んで、最後に生み出したのが火の神・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)。女神・伊耶那美命はそのために御蔭(みほと)を焼かれて亡くなり、黄泉(よみ)の国へ神去られました。
おのれの出産のために母神を殺す結果となり、またそれにより父神から十拳剣(とつかのつるぎ)で首を斬り落とされるというまことに悲劇の神であるが、それ がそんなに悲惨な印象を受けないのは、このことによって、新しい神、それも大変重要な役目を担う神々が次々に生まれ、飛び出してきたからです。その中の一 柱として成ったのが“勇猛な雷の男神”である武神・建御雷之男神である。
★国譲り神話
◎天照大御神の“言(こと)よさし”と二度の失敗
ことの始まりは、高天原を統治なされていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、長子・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に豊葦原中国(とよあし はらのなかつくに、日本のこと、広義にはこの世のこと)を統治するように命じた事による。この時の中津国は荒ぶる神々がはびこり、なかなか手がつけられな い様であったので、これを従わせようと、前後二回に渡り特使として天菩比命(あめのほひのみこと)、天若日子(あめのわかひこ)を派遣したが、二回とも失 敗した。
◎建御雷之男神の登場
かくして高天原随一の猛々しい神とされる建御雷之男神を正使とし、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副使として派遣した(『日本書紀』では経津主神と共にとなっている)。
出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜に着いた建御雷之男神は、十拳剣を抜き、波の上に逆さに突き刺し、その剣の先にどっかとあぐらをかき、大国主神に問うた。
「われは天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の命によって参った者である。あなたが治めている葦原中津国は、天照大御神の御子の治めるべき国である、と仰せられたのであるが、あなたの心はいかにあるか。」
大国主神は、
「私にはご返答できかねます。我が子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がお答えいたします。しかし、今は美保の岬へ鳥や魚を取りに行ったまま帰っておりません。」
と申された。
そこで建御雷之男神は、天鳥船神に命じて事代主神を連れ戻させ、問うてみた。事代主神は、父神・大国主神に向かって、
「おそれ多いことです。この国は天つ神の御子に献上いたしましょう。」
と答えたのであった。
◎建御名方神(たけみなかたのかみ)との力くらべ
建御雷之男神は、さらに大国主神に、
「まだ他に意見のある子神はいますか。」と問うた。
大国主神は、
「もう一人、私の子に建御名方(たけみなかた)神というのがいますが、これ以外には異議をとなえる者はありません。」
と言う間もなく、当の剣御名方神が、大きな石を両手でさし上げながら来て、
「誰だ、この国に来て、ゴチャゴチャ言っているのは。それならば、先ず私と力比べをしようではないか。それでは先にお前の手を取る。」
と、建御雷之男神の手を取ろうとすると、その手はたちまち氷のように変じ、こんどは剣のように鋭くなった。さすがに力自慢の建御名方神も、大いに恐れて引き下がった。
こんどは建御雷之男神の番である。建御名方神の手を握ると、まるで若芽(わかめ)の葦(あし)を握るように、たやすく握りつぶし投げ飛ばしたので、建御名 方神は驚き逃げ出してしまった。建御雷之男神はこれを追いかけ、信濃国(しなの、現在の長野県)まで追いつめ、うち倒そうとしたが、この地から決して出な いこと、大国主神、事代主神の命令を聞くこと、天つ神の御子に国を譲ることを条件に許した。
尚、この建御名方神が諏訪(すわ)大社の御祭神として祀られている。
◎出雲(いずも)大社の起源
建御雷之男神は、信濃国から帰って、大国主神に、
「あなたの二人の子神は、天津神の御子に従うと言ったが、あなたはどうか。」
と尋ねると、大国主神は、
「私の二人の子の、言ったとおりにします。ただし、私の住む所を、天神の御子の住む御殿のように造って下さるのならば、私はその隅に隠居します。事代主命が先頭に立てば、それに反抗する神はないでしょう。」と言って身を隠された。
この時の約束で造られたのが出雲大社であり、以後、大国主神は“幽冥の主宰神”となる。
よって、別名、幽冥事知食大神(かくりごとしらしめす大神)ともお呼びする。
★神武東征(じんむとうせい)
神武天皇(神倭伊波礼毘古命〈かむやまといわれひこのみこと〉)が日向(ひむか)の地を起たれて、大和に入る前に、熊野の地で大熊に会い、天皇はじめ全軍 がその毒気により気を失ってしまう。この時、熊野の土豪で高倉下(たかくらじ)というものが一振りの太刀を天皇に奉ると、すぐに天皇は目覚め、その太刀で 熊野の山の荒ぶる神々を平らげることができた。
この太刀の由来は、高倉下の夢の中に天照大御神と高木神の二神が、建御雷之男神を召し、「葦原中 国を平定するために降れ」と命じられたが、建御雷之男神が「自分の代わりにこの太刀を降ろしましょう」と言い、高倉下の倉の棟(むね)に落とされたもので あった。この太刀を“布都御魂(ふつのみたま)”と言い、現在では奈良県の石上(いそのかみ)神宮に御神体として祀られている。
道開き at 2002/06/07(Fri) 09:25