⑨須佐之男命(すさのおのみこと)

2002/05/21(Tue)
●英雄神“スサノオの神”
“スサノオ”といえば、八百万神々の中でも、最も神威溢れた神であるとともに、非常に魅力的な神さまといってもよいで しょう。“建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)”ともいい、「建速(たけはや)」は神威を称えたもので、「須佐(すさ)」は荒ぶ(すさぶ)の意 で、荒々しい行為が多かったので、そのために付けられた神名とも考えられます。
記紀神話(『古事記』、『日本書紀』の中の神々の物語)における この神さまは、高天原(たかまがはら)神話と出雲(いずも)神話とをつなぐ役割を果たしています。つまり、天津神と国津神とのあいだの架け橋ともいえる神 さまです。それだけに古代史なり、神話なりの研究家の間でも、スサノオ神に注目している人は非常に多いのです。

※神名の書き方
・建速須佐之男命
・速須佐之男命
・須佐之男命
・素盞鳴尊


●スサノオ神話

★ 三貴子(さんきし)の一柱(ひとはしら)として成れる神
イ ザナギ神が「黄泉国(よみのくに)」から逃げ帰り、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘之小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あはぎはら)で穢れ(けが れ)を洗い清めた際に、左の眼を洗ったときに生まれたのが日の女神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)であり、その後に右の眼を洗ったときに生まれたの が月の神・月読命(つきよみのみこと)、そして鼻を洗ったときに生まれたのが素盞鳴尊(すさのおのみこと)である。
イザナギ神はイザナミ神と共に、数多くの神々をお生みになられたが、その神生みの最後に、「吾は子を生み生みて、生みの終に三の貴き子を得つ」と語られたように、非常に尊い三貴子(さんきし)をお生みになられたのでした。
天 照大御神には「高天原(たかまがはら)」を、月読命には「夜之食国(よるのおすくに)」を、そして素盞鳴尊には「海原の国」を治めるように命じた。しか し、素盞鳴尊は亡き母イザナミ神が住まわれる「黄泉国(よみのくに)」に行きたいと泣いてばかりいたのでした。その為、世の中には悪神が満ちあふれ、多く の禍事(まがごと)が起こりました。
※古事記・日本書紀などの神典に示された他界(神話的宇宙)
・高天原   神々の寄り集う世界
・中津国    日本、現世、この世
・黄泉国    死後の世界(根の国、根の堅州国〈かたすくに〉、底の国、といった表現もされている)
・夜之食国   夜の世界 

※神さまを数える際には一柱(ひとはしら)、二柱(ふたはしら)といったように数えます。

★ 天照大御神との誓約(うけい)
イ ザナギ神は、いたくお怒りになられた。しかし、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の思いは非常に強く、まずは高天原に上がり、姉の天照大御神(あまてらすおお みかみ)にお会いしてから黄泉国(よみのくに)に行くことにした。ところが参い上がる時の勢いが「山川悉に動み、国土皆震りき(やまかわことごとにどよ み、くにつちみなゆりき)」といったように凄まじかったので、天照大御神は非常に驚かれ弟神が高天原を奪いにきたものと思われた。そこで素盞鳴尊は自分に 邪な心がないことを証明するために誓約(うけい)をして子を生むことを申し出た。

※誓約(うけい)  神に祈って事の成否や吉凶を占うこと

天の安河(あめのやすかわ)をはさんで、まず天照大御神が素盞鳴尊の腰につけている十拳剣(とつかのつるぎ)を取り、これを三つに折り、噛みくだいて一気に吹き出した。その時生まれたのが、

・多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
・多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
※福岡県・宗像(むなかた)神社に祀られている、いわゆる宗像三神と呼ばれる女神たち。

次に素盞鳴尊が天照大御神の髪に付けてある勾玉(まがたま)や、左右の手に飾った珠(たま)を乞い、天の井戸(あめのまない)で洗って、噛みくだいて一気に吹き出した時に生まれた神は、

・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)
・天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
・天津日子根命(あまつひこねのみこと)
・活津日子根命(いくつひこねのみこと)

後に生まれた五男神は、大神の品から生まれたので天照大御神の子、先の三女神は素盞鳴尊の品から生まれたので素盞鳴尊の子とされた。そして、素盞鳴尊の子がしなやかな、清く美しい女神だったので、おのずから素盞鳴尊のみ心も清く明きことが証明されたのでした。

★高天原での乱暴と追放
その後の素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、高天原において暴れ回り、田を荒らし、神殿を汚したりもした。姉神はひたすらに弟神をかばわれたのだが、素盞鳴 尊はますます凶暴になり、神衣(かんみそ)を織る機屋(はたや)に姉神がおられる時に、皮を剥いだ天馬を投げ入れ、機(はた)を織っていた織女(おりめ) が驚きのあまり死んでしまった。
この有り様を見た姉神は、天の岩戸(あめのいわと)にお姿を隠してしまいました。この後の「天の岩戸開き」の話は余りにも有名です。
ついに素盞鳴尊は、八百万神々の会議にかけられた末、髯(ひげ)を抜かれ、手足の爪(つめ)も抜かれて、高天原を追放されてしまったのでした。

★八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治
そして放浪の末、素盞鳴尊(すさのおのみこと)は出雲(いずも、島根県)に降臨された。ここからの神話が、英雄神としての真価が余すことなく発揮されるの である。説明は省くが、かの有名な悪の化身・八岐の大蛇(ヤマタのオロチ)を退治し、大蛇の中から取り出した都牟羽之太刀(つむはのたち)〈=天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉を高天原におられる天照大御神に、お詫びの印として献上しました。
この剣は、“三種の神器(さんしゅのじんぎ)”の一つで、名古屋の熱田神宮に“熱田大神”のお依りになられる「御神体(ごしんたい)」として祀られています。

※「ドラゴン退治神話」  英雄が怪物を退治する話は世界中のあらゆる民族に伝わっています。まさしく人類共通の神話となります。

★八雲(やくも)立つ出雲(いずも)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、大蛇(おろち)から救った櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)と結ばれ、やがて自分の宮を造るべき地をこの出雲の国の須賀の地に求められた。その時にその地より雲が立ちのぼるのを見てお詠みになられた歌が、

八雲立つ 出雲八重垣(やえがき) 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

★大国主神との関係
やがて大山津見神の娘・神大市比売命(かみおおいちひめのみこと、市場・人々の取引をつかさどる神)との間に、大年神(おおとしのかみ、年月の神)、宇迦 之御魂神(うかのみたまのかみ、稲荷神)が生まれた。そして、素盞鳴尊の数多くの子神のうち一柱・須勢理比売命(すせりひめのみこ)と結ばれたのが、かの 有名な国つ神の主神となり、幽冥(かくりよ)を主宰する神となった大国主命(おおくにぬしのみこと)である。
八十神(やそがみ)たちからの迫害 から逃れるために「根の国」におもむいた大国主神に、素盞鳴尊は数々の試練を与える。大国主神は、蛇・ムカデ・蜂の室(むろ)に入れられるが須勢理比売の 協力によって危難を逃れる。また、野原で焼かれそうになった時はネズミの穴にはいって助かる。そして、二柱の神は素盞鳴尊の寝たすきに、根の国の宝を持っ て逃げ出す。素盞鳴尊は黄泉比良坂(よもつひらさか)〈この世とあの世の境〉まで追いかけてきて、はるばる見やりながら「お前が大国主神となり、葦原中国 (あしはらのなかつくに)に君臨せよ」と祝福する。これが大国主神が葦原中国の主神となり国造りを始めるきっかけとなった。正確には、この時まで大己貴神 (おおなむちのかみ)といい、この時初めて大国主神となる。


●牛頭天王(ごずてんのう)説
京都の八坂神社は、明治の“ 神仏分離”の前までは「祇園感神院(ぎおんかんじんいん)」とか「祇園社(ぎおんしゃ)」と称し、牛頭天王(ごずてんのう)を祀った社として広く庶民の信 仰を集めてきた。この牛頭天王の出自は「①インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神」であるとか、「②朝鮮半島新羅(しらぎ)の牛頭山(ごずさん) にいた神」であるとか、「③『備後国風土記(びんごのくにふどき)』の“蘇民将来(そみんしょうらい)”の話に出てくる武塔天神(むとうてんじん)」であ るとかいわれ、古くから素盞鳴尊(すさのおのみこと)と同一神とされてきた。
はじめ八坂の神は、「半島出身の神として渡来人たちの間で祀られていた」し、「『日本書紀』には、素盞鳴尊は朝鮮の“ソシモリ”に行ったことが記されている」。ソシモリとは韓国語で“牛頭”のことである。
その祀りは、はじめは「慈雨をもたらす“農耕神”」だったが、平安京が造営されると、疫病(えきびょう)が流行し、それは御霊(たたり神)の仕業と考えられ、農耕神は転じて「厄災(やくさい)をもたらす神」、さらに転じて「厄除け(やくよけ)の神」となった。
雷神→御霊(ごりょう)→疫神→疫病除けの神ともなるのである。これはまた暴風神と英雄神の二面性を備えた素盞鳴尊(すさのおのみこと)の神格とも一致する。疫病除けの“蘇民将来(そみんしょうらい)”の物語の武塔天神は、素盞鳴尊であると名のっている。
祇園(ぎおん)祭、天王(てんのう)祭は旧の六月という梅雨の季節、つまり疫病の流行りやすく、稲の成育にとっても大事な時期に行われる。
全国各地でも“疫神送り”や“虫送り”の行事がおこなわれ、八坂の祇園の神が勧請され、「祇園社」「牛頭天王社」「天王社」などの社祠がつくられた。明治維新後、それらの多くは“神仏分離令”により、「八坂神社」「八雲神社」「弥栄(やさか)神社」などと改称された。


●世界を天翔(あまが)ける“スサノオ神”
素盞鳴尊(すさのおのみこと)が出雲でのヤマタノオロチ退治後、朝鮮のソシモリにおもむいたという『日本書紀』の伝承や、素盞鳴尊が朝鮮建国神話の「壇君(だんくん)」であるという古史古伝の伝承などは、素盞鳴尊と朝鮮との係わりを暗に示している。
素盞鳴尊が牛頭天王であるということから、そのもとをたどって、古代オリエントの最高神バ-ルと同一神とみる研究者などもいる。その父神ダゴンの神話に、 素盞鳴尊のヤマタノオロチ退治と非常に似た神話も存在する。そして、旧約聖書では、ヤハウェ-(エホバ)神も、バ-ルと呼ばれて崇拝されていた時代もあっ たという。
戦前、世界中に八〇〇万人もの信者を集めたという神道系教団・大本教(おおもときょう)の聖師(せいし)・出口王仁三郎(でぐちおに ざぶろう)によれば、その霊性においては、「素盞鳴尊=弥勒菩薩(みろくぼさつ、仏典に出てくる救世主)=メシア(キリスト教における救世主)」であるの だという。現在でも、大本教系の霊能者、祈祷師たちの間では、素盞鳴尊は特別な神なのである。
 道開き at 2002/05/21(Tue) 16:30 

⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)

2002/05/18(Sat)
●“八雲(やくも)立つ”出雲
多くの雲が立ち上がるところという意味から出雲(いずも)地方は昔から“八雲立つ出雲”と、数々の和歌に詠まれて 来ました。その出雲地方、現在の島根県大江町に鎮座する出雲大社は、古代から伊勢神宮と並ぶ大社として多くの人々の信仰を集めてきました。「大社(たい しゃ)」の称号を持つ神社は、現在六十五社。しかし、この中で「大社」だけで通るのはこの出雲大社だけです。
ご祭神には、庶民の間で広く親しまれ てきた大国主神(おおくにぬしのかみ)をお祀りしています。この神は、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに、日本国のこと)の国造りに励み、自ら未開の 山野を開拓し、農耕を伝えたといいます。しかし、高天原よりの皇孫・瓊瓊邇命(てんそん・ににぎのみこと)の天降り(天孫降臨〈てんそんこうりん〉)に先 立ち、“国譲り(くにゆずり)”を行い、そして、自らは幽冥(幽世〈かくりよ〉)を主宰する神となられたといいます。


●国土経営・農業・医薬の神
その理由は、大国主神が「国つ神」の主神として“国造り”の大業を成したからとされます。
そのことについては、
・『日本書紀』では、各地を巡って稲種を授けて回る農耕神として位置づけられています。
・『出雲風土記(ふどき)』では、大国主神に対し“天の下作らしし大神(あめのしたつくらししおおかみ)”と称号をつけており、その天の下の国造りは、「五百津鋤鋤(いほつすきすき)なほ取らして」とあるように、たくさんのスキで田畑を開墾するように行われたとあります。
又、 大国主神は少彦名神(すくなひこなのかみ)の協力を得て人々が病気や厄災から免れるよう医薬の法を授け、温泉を創めるなどしたため、医薬の神としても崇め られています。現在でも多くの病院などの医療施設や全国の温泉地で守護神として祀られているのは大国主神と少彦名神の二柱の神です。

★他にも二神は、“禁厭(呪い、呪術、まじない)”、“占い”の守護神としても崇められています。


●数多くの名を持つ神さま
大国主神は数多くの別名を持つ大変に珍しい神さまでもあります。
・オオナムチの神(大穴牟遅神、大己貴神、大汝神と三種類の書き方があります。)
・大物主神(おおものぬしの神)
・八千矛神(やちほこの神)
・ウツシクニタマの神(宇都志国玉神、顕国魂神)
・葦原醜男神(あしはらしこおの神)
・天之下造らしし大神(あめのしたつくらしし大神)
・幽冥事知食大神(かくりごとしらしめす大神)
・大黒様   七福神の大黒天と習合し、同一神と見られたから


●全国の産土(うぶすな)神社の総元締め
出雲では、昔から陰暦(旧暦)の十月になると、全国の村々から神々がこの出雲の地に参集されて、氏子の行状について話し合いがもたれると伝えられてきまし た。このため、陰暦の十月は神無月(かんなづき)と呼ばれましたが、ここ出雲だけは「神在月(かみありづき)」とされ、出雲大社では「神在祭(かみありさ い)」が行われてきました。
その神在月には海ヘビが波に乗って、稲佐(いなさ)の浜に来ることが多く、これらを“竜蛇(りゅうだ)様”という形で、神職たちが玉藻(たまも)に迎え、神在祭にはそれを出雲大社の末社に鎮めます。これは海ヘビを一種の竜蛇の化身と考えたからです。
蛇は太古より、汎世界的に、“再生のシンボル”、“太陽のシンボル”でもありました。そして、竜蛇信仰と太陽信仰は人類にとって最も原初的な信仰形態で す。このことについてはこれまでに、多くの学者たちが様々な説を唱え、数々の教祖さまたちが神的・霊的解釈を行っていますが定説はありません。
おそらく大国主神とは、各地方ごとの国のヌシ(土地のヌシ、土地の神、国魂の神)である産土の神々の総元締めの神という意味での“大いなる国の主の神”で あり、よって、神在月になると各地の産土神が、最も古い神の姿とされる“竜体”という形状をもって出雲に参集されるというのでしょうか。


●幽冥(ゆうめい)の主宰神
-近世国学者たちの唱えた大国主神像-
大国主神が産土(うぶすな)の総元締めの神であり、幽冥(ゆうめい、幽世〈かくりよ〉)の主宰神であることが強く唱えられたのは近世のことで国学者・平田 篤胤(ひらたあつたね)以降のことです。篤胤の著書『霊能真柱(たまのまはしら)』には、人が神の道を実践するためには、まず大和心(やまとごころ)を固 めなければならず、死後の霊魂の行方が解明されなければならないといった内容が記されています。又、幽冥界についての研究のみならず、神仙の存在に関する 書物も多く書き残されています。

★国学(こくがく)
国学とは、江戸期に起こった学問および思想の系譜であり、日本の古典をあり のままに吟味して、古典にこめられている純日本的精神を追求しようとした学問です。賀茂真淵(かものまぶち)による『万葉集』の研究、本居宣長(もとおり のりなが)の『古事記』の研究はつとに有名です。
宣長没後、宣長の古道思想を継承すると同時に、これに宗教的性格を強め、神学的に発展させたのが平田篤胤(ひらたあつたね)です。そして、この国学の影響を受けて、仏教的、儒教的色彩を神道から排除しようとしたのがいわゆる復古神道と呼ばれる神道なのです。
かといって、国学者の学問の範囲は偏狭なものであったかというと、決してそのようなことはなく、きわめて広汎なものでした。博学な篤胤に対してなどは、堂 々と論戦できる学者は各界に一人たりともいなかったといわれています。平田派と呼ばれるその門人たちも同様で、医学で生計を立てながら、蘭(らん)学、窮 理(きゅうり)学〈化学・物理学〉、建築学、鉱学、経世学(政治・経済)、農政学、教育学、刑法、算学、天文地理、測量等々をどん欲なまでに考究し、この 世の真理をも追究し続けた。
特に、宇宙論的学風を示した篤胤の門人の一人、大国隆正(おおくにたかまさ)などは、国学という呼称は、日本一国に ついての学問と誤解される可能性があるとして用いず、その代わり「万国共通の、あらゆる学問の“もと”という意味」で“本学(ほんがく)”という語を使用 しました。日本の霊性(大和心)を追求していく内に、インタ-ナショナルで普遍的な“世界神道”といったものにたどり着いたのでした。

★出雲大社教(いずもおおやしろきょう)
平田篤胤の幽冥観をそのまま引き継いで、現在に至っている教団が出雲大社教です。明治十五年に、時の出雲大社の宮司を務めていた千家尊福(せんけたかと み)が創設し、初代管長に就任した。尊福は明治二十一年以降は政界に入り、埼玉県、静岡県、東京府の各知事、司法大臣を歴任したりもしている。現在、信者 数は百二十万人にも及んでいる。


●「心霊科学」と大国主神
- 日本スピリチュアリズム(神霊主義) -
スピリ チュアリズムとは、今より150年程前に、欧米で起こった一種の精神運動であり、神とは何か、霊とは、そして、人間とは何かといったこの世の普遍的真理を 多種多様な心霊現象をもとに科学的に解明していこうというものである。(但し、現在のテレビなどのマスコミで取り上げている様な興味本位なものではなく、 非常に科学的な検証が行われた。)
例えば、クルックス放電管の発明やタリウム元素の発見で有名な、イギリス科学協会の会長も務めたウィリアム・ クルックス博士や、ノ-ベル賞受賞の生理学者シャルル・リシェ博士、「進化論」で有名なダ-ウィンのライバルで著名な博物学者アルフレッド・ウォ-レス博 士、その他にも、“発明王”エジソンなど超一流の科学者たち、医者、法学者、古典学者、神学者、そして、政治家、経済人、ジャ-ナリストたちまでもが心霊 現象による真理の究明に取り組んだ。
そのスピリッチャリズムの日本における第一人者とされるのが、本邦最初のシェイクスピアの完訳者の一人でも ある、英文学者・浅野和三郎その人である。大正十二年、東京に「心霊科学研究会」という学術機関を設立し、昭和三年にはロンドンに於いて開催された国際ス ピリッチャリスト連盟による第三回世界大会では、得意の英語で日本神道に関する講演をして、一躍世界の心霊関係者の注目するところとなった。そして、欧米 の膨大な量のスピリッチャリズム関係図書の翻訳紹介と、心霊実験には不可欠とされる優秀な霊媒・霊能師の養成に尽力した。近代および現代の宗教家や教祖 で、浅野氏の著訳書のお世話になっていない人はいないといっても過言ではないとされます。
又、氏の夫人である多慶子女も優れた霊媒の一人であり、彼女が、昭和四年から十二年まで足かけ八年かかって、守護霊からの通信を入神状態で書き記したのが日本の霊界通信の白眉(はくび)とされる『小桜姫物語』である。

★『小桜姫物語』
多慶子夫人の守護霊・小桜姫の語る物語の内容は、その出生や当時の慣習風俗、そして、相模の国三浦新井の城主・荒次郎義光の妻であつたこと、一族が北条氏に滅ぼされ、自分は現在、生前に暮らした居所近くに小桜神社という小社に祀られていること等であった。
そして、神界・霊界・幽界の諸相、神々の働き、守護霊の役割、あの世とこの世との関係、人としての正しい生き方などについて詳しく語られています。その中で、幽冥の主宰であり、産土の神の統括者として語られているのがやはり大国主神である。


●大国主神話

★八十(やそ)神たちによる迫害
兄弟の八十(やそ)神たちが因幡(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚する際、末弟の大国主神は多くの所持品を担がされた。途中で助けた白ウサギから 「結婚するのはあなたでしょう」と予言され、図らずも姫神に求婚することとなった。これは有名な「因幡(いなば)の白ウサギ」の神話の一節である。これに よって怒った八十神たちによって様々な迫害を受けました。

★須佐之男命(すさのおのみこと)の与えた試練
蘇生した大国主神は、 八十神たちからの迫害より逃れるために「根の国」におもむく。そこで須佐之男命(すさのおのみこと)の娘・須勢理比売(すせりひめ)と恋に落ちるが、須佐 之男命は大国主神に数々の試練を与える。蛇、ムカデ、蜂の室(むろ)に入れられたりするが須勢理比売の協力によって危難を逃れる。また、野原で焼かれそう になった時はネズミの穴に入って助かる。やがて、二神は須佐之男命の寝たすきに、根の国の宝物を持って逃げ出すが、須佐之男命は黄泉比良坂(よもつひらさ か)まで追いかけてきて、はるばる見やりながら「お前が大国主となり、葦原中国(あしはらのなかつくに)に君臨せよ」と祝福する。これが大国主神が葦原中 国の主神となり国造りを始めるきっかけとなった。

★少彦名神(すくなひこなのかみ)の助力
薬の神さまで知られる“神農さん(し んのうさん)”〈道教の神さま〉と同神と見られている少彦名神は、大国主神が出雲の“美保の岬”にいるときに、蛾(が)の皮を着込み、天之羅摩船(あめの かかみぶね)に乗ってやってきた神です。そこで大国主神が「あなたは何という神ですか」と尋ねたが答えない。大国主神は自分に従っている神たちにこの神を 知っているものはいるかと尋ねたが、誰も知る者はいなかった。
この時、多邇具久(たにぐく、ひきガエルの古語)が「これについては久延比古(く えびこ、案山子〈かかし〉)がよく知っているはずです」というので、早速、久延比古を呼んで聴いてみると、「この方は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の 子で、名を少彦名神といいます。」と答えた。
ということで、このことを神産巣日神にうかがってみると、「たしかに私の子である。多くの我が子の中で、この子は私の手の俣(また)のすきまから生まれ落ちた子である。これからはあなたと兄弟となって、互いに協力し、国造りに励むがよい」と言われた。
この二柱の神は、さっそく力を合わせて国造りを始めた。医薬をつくり、病気治療の法を定めるなどした。また、鳥獣や昆虫の害を防ぐために禁厭(まじない)の法を定めたりもした。

★大物主神(おおものぬしのかみ)あらわる
大国主神には、大物主神という別名がある。国造りの途中で、少彦名神が神去りまして、途方にくれていると、「海を照らして寄り来る」神があった。
その神は、大国主神に「自分は、お前の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である」といい、さらに「我を大和(やまと)の三諸山(みもろやま)に祀っ てくれたなら、お前の国造りを助けてやろう」と語った。このため、大国主神は現在の奈良県桜井市三輪(みわ)に、大物主神をお祀りした。これが大神(おお みわ)神社の始まりである。そして、大物主神は大和の国つ神の頂点に立つ存在となった。

※一霊四魂(いちれいしこん)
神道では、一つの御霊(ミタマ)は四つの魂から成っていると する。
荒魂(あらみたま)  「勇」、裏を返せば「忍耐」
和魂(にぎみたま)  「親」、「和」
幸魂(さきみたま)  「愛」、「情」
奇魂(くしみたま)  「英知」、「智」

※物(モノ)・霊(チ)
「“モノ”も“チ”も霊魂を表す古代の言葉」です。モノはもともと恐怖、畏怖の対象をあからさまに表現することをはばかって抽象化した語とされます。“物の怪(ケ)”という現象がそれを示しています。よって、大物主神とは「大いなる精霊の主」を意味します。
霊(チ)は持(モチ)を縮めた語とされ、「神、人の霊、又、徳を称え讃めて云う語」という説があります。野の霊である“野槌(ノツチ)”、水の霊である“水霊(ミツチ)”、そして、“大蛇(オロチ)”などはその好例です。

★国譲り
葦原中国が天つ神(あまつかみ)の御子にゆずられたと語る神話は、高天原からの三回にわたる「言向け(ことむけ)」から始まる。コトムケとは、すなわち言を向けること、言葉をもって従わせるということです。
一 回目のコトムケは、天穂日命(あめのほひのみこと)が大国主神のもとへ派遣されます。大国主神の御神徳のせいか、天穂日命は大国主神と仲良くなり、三年 間、高天原に帰らなかった。次に使者として使わされたのが天若日子(あめのわかひこ)だが、この神は大国主神の娘と結婚し、やはり役目を果たすことができ なかった。そして、三回目に派遣された建御雷神(たけみかづちのかみ)によって、コトムケは成功し、“国譲り”が成されたと云います。 
 道開き at 2002/05/18(Sat) 19:25 

告!!!!!

2002/05/13(Mon)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。

①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげ

ここの時点では、 ⑦山の神 までの打ち込みを終えています。
 道開き at 2002/05/13(Mon) 22:25 

⑦山の神

2002/05/13(Mon)
●「山」-神聖なる“場”
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。

① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。

②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。

③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。

④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。


●民間伝承の“山の神”
“山の神”といっても、現代人の日常生活においては、馴染みが少ないようです。しかし、ちょっと前までは山村地帯を中心に、民俗の神々のなかでも最も有力な神さまでした。
山そのものに宿る神さま、山を住まいとする霊的なものと人々は共に暮らしてきたのでした。山は「様々な実り」を与えてくれるし、稲作にとって欠かすことの出来ない「水」も山から流れ、自分たちの生活を支える根源、総ての生産の元は山にあったのでした。
まさしく、あらゆるものを生み出してくれる“母なる山”でした。そこから“山の神”は「お産の神」としても信仰されました。
そして、“山の神”は、春になると里に下りて「田の神」となり、稲の成育と収穫を見守って、秋になると役目を終えて山へ帰って行きました。これは日本人の “祖霊信仰”に関係があり、我が国では、人は死後、その霊魂は神となり、生きている子孫を守ってくれると信じられていました。つまり、農民にとっての“山 の神”は、多くの場合、先祖代々の祖霊でもあったようです。
又、山で暮らす猟師、きこりたちにとっての“山の神”は、その山の地主神であり、山の守護神に他なりません。
いずれにせよ、昔は最も身近で、すべての生活に関わりが深かったのが“山の神”だったのです。


● 大山祇神(おおやまつみのかみ)
伊耶那岐命・伊耶那美命(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)二神から生まれた神で、各地の山の神の総帥・親神ともいうべき尊い神さまです。
ま たの名を「和多志大神(わたしのおおかみ)」ともいい、“大山津見神”とも書きます。そして、“野の神”である「鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)」 〈「野椎神(のづちのかみ)」〉と共に、山に係わる神々を産みました。他にも独力でお生みになられた「木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)は殊 に有名です。
その姫神が天孫(てんそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)〈山 幸彦(やまさちひこ)として有名〉をお生みになられた時、父神の大山津見神は大喜びして、さっそく“天のたむけ酒”を造り、天地の神々に供してお祝いしま した。これを酒造りの始まりとして、父神・大山津見神を“酒解神(さかどきのかみ)”、姫神・木花開耶媛命を“酒解子神(さかどきのこがみ)”と呼んで、 「酒造りの祖神」としています。

★“宮地神仙道”と大山津見神
土佐郡潮江村(現高知市天神)の「潮江天満宮(うしおえてんまん ぐう)」の社家である宮地家の常盤(ときわ、道号・布留部〈ふるべ〉1818~1890)・堅磐(かきわ、道号・水位〈すいい〉1852~1904)父子 が唱えた平田篤胤(ひらたあつたね)の神道説を継承した玄学(げんがく、道教)色の強い神道説。
宮地父子は肉体を持ったまま、独特の脱魂法に よって神界・神仙界を往来したという。その知見と平田神道によってできあがったものが宮地神仙道です。水位は十歳頃から神仙界に出入りしたといいます。顕 界(この世)と幽界(あの世)との間を自由に往来し、大山津見神の寵愛を受け、その取り持ちによって、ある神界の主宰神という地位にあった道教の通称「少 童君(しょうどうくん)」=少名彦那神(すくなひこなのかみ)に謁見することができるようになり、五十三歳で帰幽するまで数百回にわたって神仙界へ往来し たとされます。現在でも神仙道系の多くの教団に、宮地神道の霊統が引き継がれています。


●木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)
大山津見神の末娘であり、生まれつき容姿端麗なるがゆえに、桜花にたとえられこの名がついたとされます。霊峰・富士山をご神体と仰ぐ関東地方各地の浅間神社(せんげんじんじゃ)の御祭神としても有名です。
高天原より天孫・瓊瓊杵命(てんそんににぎのみこと)が、日向の高千穂の峰に天降りした際にこの女神を見初めました。そして、命よりの申し込みにより父 神・大山津見命はね秀麗な木花開耶媛命と容姿の良くない姉の石長比売命(いわながひめ、石のように不変で長寿であることの神格)を嫁がせましたが、姉の石 長比売命は帰されました。
やがて、木花開耶媛命は、八尋殿(やひろどの)という産屋で、燃えさかる炎の中、火照命(ほでりのみこと、海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)の三柱の子神をお産みになられた、という神話が伝わっています。


●修験道
ひ 日本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。


●富士信仰
我が国では古代より、秀麗な姿をしている高山には神が宿るものとされてきました。中でも日本一の高嶽で最も美しい山とされてきた富士山は殊に神聖視されてきました。
フジが「不死」に音通することから、平安初期より神仙の棲まわれる霊山として崇められました。やがて、山岳仏教により、富士山に坐す神は“仙元大菩薩(せ んげんだいぼさつ)”〈あるいは浅間明神(せんげんみょうじん)、富士権現(ふじごんげん)〉ともされました。その「センゲン」という訓みの中には、「仙 人の元締め(もとじめ)」という意味も含まれていたらしいということです。
特に、江戸時代においては富士信仰が最も盛んで、“富士講(ふじこ う)”と呼ばれる登拝組織が民衆の間に爆発的な広がりを見せ、八百八講(はっぴゃくやこう)とうたわれるほど数多くの講が組織されました。一つの講の講員 数は千人以上、四年から五年の年限で講が立てられたといいます。
有名な食行身禄(じきぎょうみろく)などの大先達(だいせんだつ)が現れ。「世 直し」と結びつき、まるで現在の新興宗教の走りとも言える熱狂ぶりでした。現に明治に入って、扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教、丸山(まるやま)教 などの教派神道の他、多くの仏教系教団を生んだ母体となったのがこの“富士講”なのです。

★富士塚(ふじづか)
富士講の広がり とともに、江戸町内には、富士を模造して盛り土した小型の人造富士とでもいった“富士塚”が造られました。経済的な理由や体が丈夫でないために富士の山に 行きたくても行けない人たちは、こうした江戸町内の“富士塚”や“富士社(しゃ)”を巡って、富士参りをしました。
七月一日の富士山の山開きには、これらの富士塚も山開きをします。この日は、“七浅間参り”といって、揃いの装束で講近くの七つの富士塚、富士社を巡拝しました。この習俗は、現在でも、東京、神奈川、埼玉など各地の富士講に受け継がれています。

★富士講六代目行者・食行身禄(じきぎょうみろく)と“世直し”信仰
講は、先達(せんだつ)、講元(こうもと)、世話人の三役で運営されます。それぞれの講の人気はリ-ダ-格である先達の力量、人柄で決まったといいます。 富士登山七回で先達になれますが、それでは講員は集まらず、三十三度の大願成就したような大先達に信者は集まったといいます。先達は職業ではないが修行者 の力量が必要だったといいます。
「ロク」という言葉には、「水平、平ら」の意味があり、大工が水平を計ることを「ロクを見る」といいます。身禄 の説教には「身をロクにして」「心をロクにして」という言葉がよく出てきます。人の福を羨んだり、人を押しのけて出世したがったり、見栄を張ったりするこ とは、すべて心がロクでもない。人間は心をロクにして家職に励めば「生み増す」といって、身分も生活も向上するし、また「生まれ増し」といって、来世にお いて今生より良き身分境遇に生まれてくると教えました。士農工商の身分制度が厳しく、貧富の差が激しかった時代だけに、この身禄の説教は大衆の心の支えと なったようです。
享保十八年、米の買い占めなどにより米価が高騰した為、民衆による“打ち壊し”が起こり、この事件を聞いて心を痛めた身禄は、 入定することを決意し、富士山の烏帽子岩(えぼしいわ)の下で断食行に入った。「これよりして我が、しんのおあらため役人となってながめ申し」として入滅 した。その遺骸はミイラ化して烏帽子岩の身禄神社に秘蔵されていると伝えられています。
この身禄入定の知らせは、江戸の人々の間の危機意識の高まりと相まって、当時のトップニュ-スとなり、富士講の数をさらに増加させました。


●木曽の御嶽(おんたけ)さん
「木曽の御嶽さん」と呼び親しまれてきた木曽御嶽山は、濃尾平野を潤す木曽川の源流をなします。この御嶽山を、水減をつかさどる水分神(みくまりのかみ) の坐す山として日々の心のよりどころとしていた濃尾平野に住む人々は、つい近年まで、朝起きると、まず山を拝む習慣を持っていたといいます。
修験道の影響を受け、主神には“王御嶽座王権現(おうのみたけざおうごんげん)”と称し、集団登拝が始まったのは室町時代だといわれています。しかし、百日ないし七十五
日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を終えたものでなければ登拝は許されず、山麓周辺の限られた人々が登拝するのみでした。それを水行だけの軽精進による登拝と、他国の人にも一般開放する旨の運動を押し進めたのが、修験者・覚明(かくみょう)でした。天明二年のことです。
さらに寛政四年、覚明が開いた「黒沢口」の登山道とは別に、地元民の協力のもとに「王滝口」登山道を開いたのが、これまた有名な普寛(ふかん)行者です。 普寛は江戸を中心に関東地方へと御嶽信仰の布教につとめ、伊勢講や金比羅(こんぴら)講にならって御嶽講を結成しました。幕末期には、全国に大小五百余も の講があったといいます。
それが明治期に入って、御嶽教、神習教、神道大成教、神道修成派などの“教派神道”
に組み込まれることとなりました。その他に修験教団に属しているものもかなりあります。

★御座立て(おざたて)
修験道は、シャ-マニズム、つまり、神憑りや霊能とは切っても切れない関係にあります。神仏や霊といった超自然的存在と直接に交流し、何らかの働きかけをすることは、修験者の修行や活動において、歴史的に見られることでした。
中でも“憑り祈祷(よりきとう)”は、修験者が“憑坐(よりまし)”に神仏や霊を憑けて託宣をさせたり、問答をしたりするもので(巫女や稚児〈ちご〉がその役となった)、御嶽信仰の“御座立て”がこれに当たり、現在も行われています。
神霊が憑く「中座(なかざ)」、座をつかさどり神霊と問答する「前座(まえざ)」、さらに四人の「脇座(わきざ)」、二人の「介添人(かいぞえにん)」を含めた八人で行うのが正式とされています。
 道開き at 2002/05/13(Mon) 22:10 

⑥庚申さま(こうしんさま)

2002/05/08(Wed)
●様々な神仏を祀(まつ)る“庚申塔(こうしんとう)”
道ばた、村のお堂の前、神社やお寺の境内など、地域社会のあちこちに立つ“庚申塔(こう しんとう)”。“庚申塔さん”がもてはやされた時代は干支(えと、かんし)で年月日を表していた江戸時代です。今では、すっかり西暦(せいれき)が定着 し、大方の人にとっては馴染みの薄いものになってしまいました。しかし、昔は道祖神(どうそじん)と並んで民間信仰の筆頭に挙げられるほど流行していたの でした。
庚申さんには、「宗教としての体系だった教義がなく」、いつごろ、誰によって始められたのかもはっきりしません。「信仰対象も種々雑多で、神さまや仏さまが様々に祀られて」います。


●陰陽五行説 - 陰陽道のル-ツ -
この庚申信仰は、陰陽道に由来します。陰陽道のル-ツは古代中国にあり、日本には6世紀頃に伝わりました。
古代中国では、神々を含む、この世の総て(森羅万象)が、陰と陽との二元の連関によって説明が出来るものであるとされ《陰陽説》、それが「四象(ししょ う)」に、さらに「八卦(はっけ)へと展開する“易(えき)”の思想の元となりました。また、この「陰陽」、「八卦」の思想とは別に、万物・万象を「木・ 火・土・金・水」という“五つの気”の働き「五行」に還元する思想《五行説》も生み出され、やがて二つの説が結びついて『陰陽五行説』が成立しました。

陰陽道は、この『陰陽五行説』を、森羅万象すべての事象の意味、働き、未来までも読み解くための記号体系として、天文、地理、暦、医学、易占・・・へと展 開をみました。つまり、陰陽道の基礎を成す「陰陽」「八卦」「五行」の思想は、いわば中国の文化をまるごと飲み込んだかたちで展開したのでした。

古代日本には、天文と占筮(せんぜい)を中心とする占術と、それらをもとにした呪術の方面での活用が中心となって伝わり、日本古来の信仰や、密教などとも 習合し、日本オカルティズムの底流として、神道、仏教、修験道などの一部分をなす民族の神秘思想に深く浸透したのでした。
※特に神道では、「吉田神道」などの中世神道に強く影響し、近世の「土御門(つちみかど)神道」、そして、現在の神社神道、神道系新宗教にも様々な形で影響を残しています。



●“陰陽師・安倍晴明”伝説
あらゆる占術、呪術を使い、式神(しきがみ)を自在に使役したとされる実在の人物。『今昔(こんじゃく)物語』などに、様々な伝説が残されている。京都・晴明神社等の土御門神道系の神社に御祭神として祀られています。 

★イザナギ流
“いざなぎ流”とは、高知県香美郡物部村に伝わる民間の陰陽道祭祀の総称です。律令時代においては、国家が、陰陽寮(おんみょうりょう)を設置し、官僚機 構に組み込んで独占して管理を行いました。陰陽博士(おんみょうのはくじ)、暦博士(りゃくのはくじ)、天文博士(てんもんのはくじ)と呼ばれる専門の官 吏がその任に当たりました。やがて、時代が下るに連れて、公家、武家、そして、民間へと様々なかたちで漏洩して行きました。その民間陰陽道といったものを 未だ色濃く伝えているのが“いざなぎ流”です。米を使った占い「米占(ふまうら)」とか、数珠による「籤(くじ)」と呼ばれる占いが行われたり、「呪詛祓 い(すそはらい)」、「家祈祷(やぎとう)」、「式神(しきがみ)使い」といった儀式が“太夫(たゆう)”と呼ばれる職能的宗教者によって現在でも行われ ています。


●陰陽道と「年中行事」
陰陽道をル-ツとする年中行事は非常に多く、次のものがそれに当たります。
・ 元旦の四方拝(しほうはい)・恵方詣り(えほうまいり)・書き初め(かきぞめ)・屠蘇(とそ)・七草・どんど焼き・節分の追難式(ついなしき)・雛(ひ な)祭り・虫送り・端午の節句・夏越(なごし)の祓い・御中元(おちゅうげん)・重陽(ちょうよう)の節句・七五三・大祓(おおはらい)
これらは、いずれも陰陽道の予祝(よしゅく)、禁厭(きんえん)、祓除(ふつじょ)、厄除け(やくよけ)、延命招福の呪法と関係しています。


●陰陽道と呪詛(すそ、呪い)
陰陽道に貫かれている一つのセオリ-(理論)は、「この世のあらゆるものは陰と陽との二元によって成り立っている」ということである。
よって、人の心とてもその例外ではなく、陰の部分と陽の部分とからなり、常に調和・対立し、互いに影響しあっているという。そして、人の世は、それら一人一人の陰と陽の心が複雑に絡み合い、互いに影響しあって成り立っているという。
“呪い心”は、人の持つ「陰の心」の最たるものであり、この精神作用の周囲に及ぼす影響たるや凄まじいものがあるといわれています。この精神作用の凄まじ さを端的に現した言葉に、「人を呪わば穴二つ」という諺(ことわざ)があります。人を呪う陰の心は、その心ゆえに陰の事物を引き寄せてしまい、結局は、人 を呪う心が自分自身を呪う結果を招くということになるというのです。それを逆説的に言えば、“愛の念”は愛を呼び、“感謝の念”は感謝の心を呼び、強いて はそのような良い事柄をも呼び寄せるということになるようです。こういった、“呼び寄せる”という意味からいうと、「類は友を呼ぶ」という諺も一つの真理 を現しているようです。これは、昔ながらのあらゆる宗教においても、ごく新しいスピリッチャリズム(心霊科学)や神智学といったもの、今はやりの波動学な どの基本理論でもあり、物理や化学などの自然科学の理論とも相反するものではないようです。

※呪詛(すそ)には、動物の魂魄(こんぱく)を操作して相手に飛ばす蠱毒(こどく)
〈特定の人・家に憑くとされたいわゆる“憑きもの”のこと。狐、蛇(長縄、ながなわ)、狸(たぬき)、猿(さるがみ)、犬(犬神)など。〉と、人形(ひとかた)や相手の持ち物を使用する厭魅(えんみ)の二通りあるとされます。
そして、“憑きもの落とし”に活躍した陰陽師や密教僧、修験者もいれば、一方では、相手を呪ったり、“呪詛返し”を行ったりといった権力争いの裏側で繰り広げられた呪術合戦などの闇の歴史も残っています。


●六十日に一度めぐってくる縁日
信仰対象(手を合わせる神仏)については特にこだわらない代わりに、庚申信仰がこだわっているのは“縁日”です。六十日に一度巡ってくる干支(えと・かんし)でいう「庚申(かのえさる)の日」には特別な意味があるとしています。
昔は、十干(じっかん、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・申・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせで年・月・日・刻を現していました。

○ 庚(かのえ・こう)は、陰陽五行でいうと「金の陽」、申(さる・しん)も「金の陽」であり、この日は金の気が重なって、天地に金の気が充満して冷ややかに なり、人心も冷酷になりやすいという意から、天地万物の気は、庚申の日に変革されるとされ、最も重要な忌日(いみび)とされた。

○「還暦(かんれき)」の祝いは、生まれ年から干支が一巡して元に戻ってきたというので、六十年も長生きできたことを喜ぶと同時に、生まれ変わったつもりで、一からやりなおすなどと気分を新たにするもの。

このように、干支で暮らしていた時代には「月日のめぐりに人為を越えた支配的なものを感じていた」ことにより、“庚申の日”にも特別な意味があるとされたのでした。

★暦(れき、こよみ)
暦は、日常生活において歳月や季節の移り変わりを知る上で、とても重要な役割を果たしていますが、それはまた、永遠の時の流れを干支と九星(陰陽と五行)で分類し、システム化したものといった表現も可能です。


● 庚申講(こうしんこう) 
- ねむらない夜「守庚申(もりこうしん)」-
六十日に一度の割合で“庚申さまの日”が訪れると、人々は寄り集まって庚申さまを拝んで、花や線香を供え、燈明(とうみょう)を灯して一晩を過ごします。 勤行(ごんぎょう)をしたり、雑談をしながら飲んだり食べたりして親睦を兼ねて一晩を明かします。これを組織的に行うグル-プを“庚申講”といい、ほとん ど村の“寄り合い”と変わらないのですが、これが庚申信仰の主要なる宗教的行為となります。というのは、とにかく、庚申の夜は眠ってはいけないということ が、唯一の教えだからです。こうして自分の身体から「三尸虫(さんしちゅう)」という虫がでていかないように番をするのだというのです。

★ 三尸虫(さんしちゅう)
三 尸虫(さんしちゅう)というのは、道教の説で、すべての人間の体内におり、庚申の日に限って、人間が寝ている間に天上界に上り、司命(しめい)神にその人 間のすべての行いを逐一報告するとされています。司命神は、その報告をもとに判断し、悪行が多ければそれだけ寿命を縮めるとされました。そこで、三尸(さ んし)の虫の報告を防ぐための手っ取り早い方法として、三尸虫(さんしちゅう)を身体から出さないように眠らないで過ごすということが行われたのでした。


● 庚申塔(こうしんとう)
路 傍でよく見かける庚申塔の多さは、庚申信仰の隆盛を物語っています。庚申塔とは、①「庚申の年」ごとに“供養”の意味を込めて建てられたり、②“祈願成就 ”を込めて建てられたものです。③塔を築く時、酒つぼを下に埋めて、六十年ごとにこれを取り替えるという風習もあります。

◎形態は千差万別    塚、自然石、宝塔、灯籠(とうろう)、石祀(せきし)
◎刻まれる文字     「庚申」「庚申塔」「千庚申」「七庚申」「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」「それぞれの祭神名」
◎神像         青面金剛、猿田彦、帝釈天、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、道祖神、仁王、山王(さんのう)、田の神

★ つかわしめの猿
庚 申といえば、あの「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿を庚申堂に安置したり。庚申塔に刻んだりしているのをよく見かけます。この猿は、庚申さまの“つか わしめの猿”とされています。“つかわしめ”というのは、神仏の使いをする動物(霊)のことで、例えばお稲荷さんの狐などがこれに当たります。
この三猿が、青面金剛の脇役ではなく、庚申尊そのものとなっているところもあります。


●青面金剛(しょうめんこんごう)
種々雑多な神仏を拝むのが庚申信仰の特徴ですが、一般に庚申さまとして知られているのは、あの手がいっぱいあつて恐ろしい形相の「青面金剛」です。
青面金剛は、仏さまには違いありませんが、得体の知れない、いわゆる雑尊(ざっそん)で、仏像百科などにも載っていない場合もあります。よって、お寺の本堂などで見られる仏さまではありません。
だいたい一面六臂(いちめんろっぴ、四臂、八臂の場合もある。六臂とは手の数が六本あること。)で、頭の毛は逆立って、人を威嚇(いかく)するようなすさ まじい形相をしています。六本の手にはそれぞれ、剣、やり、弓などを持ち、うち一本では、手を合わせた小さい人間の髪をむずとつかまえており、腰、腕、頭 に大蛇をからませ、全身青色のおどろおどろしい姿をしています。
もともと鬼病を流行させる神さまだったとされています。やがては病魔悪鬼を取り除く時に祀るようになりました。


● 猿田彦命(さるたひこのみこと)
庚 申堂は仏教施設なので、仏像である青面金剛が祀られますが、庚申社には神道ということで、“猿田彦命”が祀られています。猿田彦という神さまは、国つ神の 一柱(ひとはしら)で、天孫ニニギノ命が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに、この世、日本)に降臨したときに、天之八衢(あめのやちまた、天の道が多 方面に分かれているところ)で、上は高天の原を照らし、下は豊葦原中国を照らして立っていたという、たいへん神威の絶大なる神さまで、そしてね天孫を日向 まで先導し、道案内をしたとされる神さまです(よって、“道開きの神”と称えられています)。身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくその輝くさ まは「ほおずき」の如くであつたといいます。どこの神社でも、祭礼の神輿(みこし)の先導は、この猿田彦の面を付けた者が行います。
この猿田彦命がなぜ庚申さまになったかははっきりしませんが、道祖神(どうそじん)とは実は猿田彦命であったという俗説が古くからあり、道祖神信仰と庚申信仰が結びついて祀られるようになったとされています。
 道開き at 2002/05/08(Wed) 10:55